第4話 無実だけでは、生き残れない
――それを証明するものがない。
9年前。
レティシアがまだ8歳だった頃、その言葉を聞いた。
場所はローゼンハイム公爵邸の書斎だった。
普段なら入ることを許されない父の部屋で、幼いレティシアは扉の前に立ち尽くしていた。
「お父様」
机に向かっていたエドガー・ローゼンハイムが顔を上げる。
「どうした、レティシア」
「アーデルハイト様が、人を殺そうとしたというのは本当ですか?」
父の手が止まった。
アーデルハイト・フェルナー侯爵夫人。
穏やかで、よく笑う女性だった。
母と親しく、屋敷を訪れるたびにレティシアにも優しくしてくれた。
刺繍が苦手だと言えば笑ってコツを教えてくれたし、茶会で緊張して何も話せなくなったときには、子どものレティシアでも答えられる話題を選んでくれた。
その人が、王族の飲み物に毒を入れたと聞いた。
「アーデルハイト様は違うと言っています」
「ああ」
「なら、違うのでしょう?」
レティシアには、それで十分に思えた。
父ならきっと、いつものように正しい答えをくれる。
しかしエドガーはすぐに答えなかった。
「私も、彼女が犯人ではないと思いたい」
「だったら――」
「だが、それを証明するものがない」
理解できなかった。
「証明?」
「毒が入れられた容器は、フェルナー侯爵家から届けられたものだった。彼女には王族の食事へ近づく機会があり、事件の前には関係者と言い争っていたという証言もある」
「でも、アーデルハイト様はやっていないと言っています」
「言葉だけで決めることはできない」
「嘘をついていないか、聞けばいいではありませんか」
父は悲しそうな顔をした。
「人が嘘をついているか、確実に分かる魔法はない」
魔法契約も万能ではない。
当時のレティシアには、そんな理屈はよく分からなかった。
ただ、優しい人が「していない」と泣いているのに、誰も助けられないことだけが恐ろしかった。
「お父様なら助けられませんか?」
エドガーは長く黙った。
「証拠が見つかれば」
「見つからなかったら?」
答えはなかった。
数週間後、アーデルハイトは有罪とされた。
直接命を奪われたわけではない。
だが爵位も財産も立場も失い、社交界から姿を消した。
幼いレティシアには、それが死ぬこととほとんど同じように見えた。
そして数年後。
当時の事件について、新しい証言と記録が見つかった。
アーデルハイトが犯人ではなかった可能性を強く示すものだった。
遅すぎた。
失ったものは戻らなかった。
そのとき、レティシアは理解した。
真実であることと。
真実だと証明できることは、違う。
正しく生きているだけでは足りない。
疑われたとき。
責められたとき。
誰かに罪を押しつけられたとき。
自分が何をして、何をしていないのか。
それを示せなければならない。
だから記録するようになった。
誰から何を受け取ったか。
いつ運ばれたか。
誰が確認したか。
誰が触れたか。
どこへ置かれたか。
それが、すべての始まりだった。
「レティシア?」
アルフレッドの声で、意識が現在へ戻った。
王宮の一室。
目の前には、毒が入っていた酒瓶。
そして自分を疑うレオンハルトの視線。
「失礼しました」
レティシアはゆっくり息を吐いた。
怖い。
胸の奥が冷たい。
9年前と同じだ。
無実を訴えた人が、証明できずに破滅した。
なら、自分がすべきことは一つしかない。
「私は毒について事前には知りませんでした」
レオンハルトは黙って聞いている。
「ですが、私が知らなかったと申し上げても、それだけでは意味がありませんね」
「……公爵令嬢?」
「証明します」
レティシアはクララを見る。
「確認帳をもう一度」
「はい、お嬢様」
受け取った手帳を机に置き、必要な項目を開く。
「この酒は、今朝ローゼンハイム家の王都倉庫から出荷されています」
「先ほども聞いた」
「重要なのは、そこからです」
レティシアは指で記録を追う。
「出荷時に確認したのは、公爵家の酒類担当者2名。封印担当1名。積み込み担当2名。運搬は契約商会の御者と護衛です」
「ずいぶん多いな」
「一人だけだと、その人が間違えた場合に確認できませんので」
アルフレッドが何か言いかけたが、黙った。
「出荷時刻は午前9時12分。倉庫を出たのは9時31分。王宮の搬入口に着いたのが午後1時08分です」
レオンハルトが顔を上げる。
「時刻まで残しているのか?」
「はい」
「毎回?」
「はい」
「……続けてください」
レティシアはうなずいた。
「王宮到着時には、受領担当者が本数と表側の封印を確認しています。その記録も残っているはずです」
酒蔵責任者へ視線を向ける。
男は慌てて帳簿を確認した。
「ございます。午後1時19分、12本受領。封印異常なし。署名は……私と、搬入担当2名です」
「そのあと酒は?」
「王宮酒蔵へ運びました」
「ローゼンハイム家の人間は?」
「搬入口までです。それより先には入れておりません」
室内の空気が少し変わった。
レティシアは頭の中で線を引く。
午前9時31分、公爵家倉庫を出発。
午後1時08分、王宮到着。
午後1時19分、受領。
その時点で外側の封印は正常。
ただし、外側だけでは足りない。
「受領時、副確認印は見ましたか?」
「副確認印?」
酒蔵責任者が首をかしげる。
レティシアの胃が重くなる。
「表から目立たない位置にあります。輸送中の交換を確認するためのものです」
「……そこまでは」
「そうですか」
責めても仕方がない。
王宮には王宮の確認方法がある。
こちらの仕組みを知らなかっただけだ。
「では、今確認してください」
問題の酒瓶が慎重に机へ置かれる。
レティシアは直接触れず、位置を指し示した。
「ここです」
刻印がある。
だが、微妙にずれている。
封を切ったあと、戻そうとした痕跡。
「元の状態を証明できるものは?」
レオンハルトの問いに、レティシアは答えた。
「あります」
一瞬、全員が黙った。
「……あるのか?」
「出荷時に封印担当者が位置を紙へ写し取ります。瓶番号と一緒に保管しています」
クララが小さくつぶやいた。
「こういうときのお嬢様は、本当に怖いくらい用意がいいですね」
「怖いから用意しているのですが」
「そうでした」
アルフレッドが、ほんの少し笑った。
それから表情を戻す。
「その記録を取り寄せよう」
「はい」
「ただし」
アルフレッドはレオンハルトへ視線を向けた。
「ローゼンハイム側だけの記録で結論は出さない。商会、搬入口、王宮酒蔵。それぞれ別に確認する」
「承知しました」
レティシアも異論はなかった。
「その方がいいです」
自分の家の記録だけで無実を主張すれば、「作った」と言われる可能性がある。
独立した複数の記録が必要だ。
それなら、まだ戦える。
酒蔵責任者が帳簿をめくっていた手を止めた。
「殿下」
「どうした?」
「一つ……妙です」
全員の視線が集まる。
「受領後、酒蔵へ入れた時刻は午後1時34分です。その後、祝宴用として出庫したのが午後6時21分」
「それが?」
「通常、出庫前に担当者が本数を確認します。しかし、この瓶だけ……記録が一度、書き直されています」
レティシアは顔を上げた。
「書き直し?」
「はい。最初の記載が消され、その上から別の時刻が」
アルフレッドの表情が変わる。
レオンハルトが帳簿を受け取った。
「元の数字は読めるか?」
「薄くですが」
レティシアも覗き込む。
消された時刻。
新しく書かれた時刻。
そこには、わずかな差があった。
大きくはない。
けれど、人が何かをするには十分かもしれない。
「殿下」
レティシアは帳簿を見たまま言った。
「この酒がローゼンハイム家の管理を離れたあと、誰が、いつ、触れられたのかを全部洗いましょう」
「全部?」
「はい」
怖い。
まだ自分への疑いが晴れたわけではない。
むしろ、間違えれば公爵家ごと巻き込まれる。
それでも、9年前とは違う。
今回は、記録がある。
人がいる。
追える道筋が残っている。
「無実です、と言うだけでは足りません」
レティシアは静かに帳簿を閉じた。
「ですから、証明します」
そしてその夜。
王太子毒殺未遂の調査は、1本の酒瓶から――王宮内部へと入り始めた。




