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1000通りの破滅に備えた悪役令嬢ですが、殿下に愛される想定はありません  作者: 秋葉 詩


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4/10

第4話 無実だけでは、生き残れない

 ――それを証明するものがない。


 9年前。


 レティシアがまだ8歳だった頃、その言葉を聞いた。


 場所はローゼンハイム公爵邸の書斎だった。


 普段なら入ることを許されない父の部屋で、幼いレティシアは扉の前に立ち尽くしていた。


「お父様」


 机に向かっていたエドガー・ローゼンハイムが顔を上げる。


「どうした、レティシア」


「アーデルハイト様が、人を殺そうとしたというのは本当ですか?」


 父の手が止まった。


 アーデルハイト・フェルナー侯爵夫人。


 穏やかで、よく笑う女性だった。


 母と親しく、屋敷を訪れるたびにレティシアにも優しくしてくれた。


 刺繍が苦手だと言えば笑ってコツを教えてくれたし、茶会で緊張して何も話せなくなったときには、子どものレティシアでも答えられる話題を選んでくれた。


 その人が、王族の飲み物に毒を入れたと聞いた。


「アーデルハイト様は違うと言っています」


「ああ」


「なら、違うのでしょう?」


 レティシアには、それで十分に思えた。


 父ならきっと、いつものように正しい答えをくれる。


 しかしエドガーはすぐに答えなかった。


「私も、彼女が犯人ではないと思いたい」


「だったら――」


「だが、それを証明するものがない」


 理解できなかった。


「証明?」


「毒が入れられた容器は、フェルナー侯爵家から届けられたものだった。彼女には王族の食事へ近づく機会があり、事件の前には関係者と言い争っていたという証言もある」


「でも、アーデルハイト様はやっていないと言っています」


「言葉だけで決めることはできない」


「嘘をついていないか、聞けばいいではありませんか」


 父は悲しそうな顔をした。


「人が嘘をついているか、確実に分かる魔法はない」


 魔法契約も万能ではない。


 当時のレティシアには、そんな理屈はよく分からなかった。


 ただ、優しい人が「していない」と泣いているのに、誰も助けられないことだけが恐ろしかった。


「お父様なら助けられませんか?」


 エドガーは長く黙った。


「証拠が見つかれば」


「見つからなかったら?」


 答えはなかった。


 数週間後、アーデルハイトは有罪とされた。


 直接命を奪われたわけではない。


 だが爵位も財産も立場も失い、社交界から姿を消した。


 幼いレティシアには、それが死ぬこととほとんど同じように見えた。


 そして数年後。


 当時の事件について、新しい証言と記録が見つかった。


 アーデルハイトが犯人ではなかった可能性を強く示すものだった。


 遅すぎた。


 失ったものは戻らなかった。


 そのとき、レティシアは理解した。


 真実であることと。


 真実だと証明できることは、違う。


 正しく生きているだけでは足りない。


 疑われたとき。


 責められたとき。


 誰かに罪を押しつけられたとき。


 自分が何をして、何をしていないのか。


 それを示せなければならない。


 だから記録するようになった。


 誰から何を受け取ったか。


 いつ運ばれたか。


 誰が確認したか。


 誰が触れたか。


 どこへ置かれたか。


 それが、すべての始まりだった。


「レティシア?」


 アルフレッドの声で、意識が現在へ戻った。


 王宮の一室。


 目の前には、毒が入っていた酒瓶。


 そして自分を疑うレオンハルトの視線。


「失礼しました」


 レティシアはゆっくり息を吐いた。


 怖い。


 胸の奥が冷たい。


 9年前と同じだ。


 無実を訴えた人が、証明できずに破滅した。


 なら、自分がすべきことは一つしかない。


「私は毒について事前には知りませんでした」


 レオンハルトは黙って聞いている。


「ですが、私が知らなかったと申し上げても、それだけでは意味がありませんね」


「……公爵令嬢?」


「証明します」


 レティシアはクララを見る。


「確認帳をもう一度」


「はい、お嬢様」


 受け取った手帳を机に置き、必要な項目を開く。


「この酒は、今朝ローゼンハイム家の王都倉庫から出荷されています」


「先ほども聞いた」


「重要なのは、そこからです」


 レティシアは指で記録を追う。


「出荷時に確認したのは、公爵家の酒類担当者2名。封印担当1名。積み込み担当2名。運搬は契約商会の御者と護衛です」


「ずいぶん多いな」


「一人だけだと、その人が間違えた場合に確認できませんので」


 アルフレッドが何か言いかけたが、黙った。


「出荷時刻は午前9時12分。倉庫を出たのは9時31分。王宮の搬入口に着いたのが午後1時08分です」


 レオンハルトが顔を上げる。


「時刻まで残しているのか?」


「はい」


「毎回?」


「はい」


「……続けてください」


 レティシアはうなずいた。


「王宮到着時には、受領担当者が本数と表側の封印を確認しています。その記録も残っているはずです」


 酒蔵責任者へ視線を向ける。


 男は慌てて帳簿を確認した。


「ございます。午後1時19分、12本受領。封印異常なし。署名は……私と、搬入担当2名です」


「そのあと酒は?」


「王宮酒蔵へ運びました」


「ローゼンハイム家の人間は?」


「搬入口までです。それより先には入れておりません」


 室内の空気が少し変わった。


 レティシアは頭の中で線を引く。


 午前9時31分、公爵家倉庫を出発。


 午後1時08分、王宮到着。


 午後1時19分、受領。


 その時点で外側の封印は正常。


 ただし、外側だけでは足りない。


「受領時、副確認印は見ましたか?」


「副確認印?」


 酒蔵責任者が首をかしげる。


 レティシアの胃が重くなる。


「表から目立たない位置にあります。輸送中の交換を確認するためのものです」


「……そこまでは」


「そうですか」


 責めても仕方がない。


 王宮には王宮の確認方法がある。


 こちらの仕組みを知らなかっただけだ。


「では、今確認してください」


 問題の酒瓶が慎重に机へ置かれる。


 レティシアは直接触れず、位置を指し示した。


「ここです」


 刻印がある。


 だが、微妙にずれている。


 封を切ったあと、戻そうとした痕跡。


「元の状態を証明できるものは?」


 レオンハルトの問いに、レティシアは答えた。


「あります」


 一瞬、全員が黙った。


「……あるのか?」


「出荷時に封印担当者が位置を紙へ写し取ります。瓶番号と一緒に保管しています」


 クララが小さくつぶやいた。


「こういうときのお嬢様は、本当に怖いくらい用意がいいですね」


「怖いから用意しているのですが」


「そうでした」


 アルフレッドが、ほんの少し笑った。


 それから表情を戻す。


「その記録を取り寄せよう」


「はい」


「ただし」


 アルフレッドはレオンハルトへ視線を向けた。


「ローゼンハイム側だけの記録で結論は出さない。商会、搬入口、王宮酒蔵。それぞれ別に確認する」


「承知しました」


 レティシアも異論はなかった。


「その方がいいです」


 自分の家の記録だけで無実を主張すれば、「作った」と言われる可能性がある。


 独立した複数の記録が必要だ。


 それなら、まだ戦える。


 酒蔵責任者が帳簿をめくっていた手を止めた。


「殿下」


「どうした?」


「一つ……妙です」


 全員の視線が集まる。


「受領後、酒蔵へ入れた時刻は午後1時34分です。その後、祝宴用として出庫したのが午後6時21分」


「それが?」


「通常、出庫前に担当者が本数を確認します。しかし、この瓶だけ……記録が一度、書き直されています」


 レティシアは顔を上げた。


「書き直し?」


「はい。最初の記載が消され、その上から別の時刻が」


 アルフレッドの表情が変わる。


 レオンハルトが帳簿を受け取った。


「元の数字は読めるか?」


「薄くですが」


 レティシアも覗き込む。


 消された時刻。


 新しく書かれた時刻。


 そこには、わずかな差があった。


 大きくはない。


 けれど、人が何かをするには十分かもしれない。


「殿下」


 レティシアは帳簿を見たまま言った。


「この酒がローゼンハイム家の管理を離れたあと、誰が、いつ、触れられたのかを全部洗いましょう」


「全部?」


「はい」


 怖い。


 まだ自分への疑いが晴れたわけではない。


 むしろ、間違えれば公爵家ごと巻き込まれる。


 それでも、9年前とは違う。


 今回は、記録がある。


 人がいる。


 追える道筋が残っている。


「無実です、と言うだけでは足りません」


 レティシアは静かに帳簿を閉じた。


「ですから、証明します」


 そしてその夜。


 王太子毒殺未遂の調査は、1本の酒瓶から――王宮内部へと入り始めた。

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