第2話 王太子の杯
「その酒を、殿下に飲ませないでください」
レティシアの声が響いた瞬間、祝宴の広間から音が消えた。
給仕が傾けかけていた酒瓶を止める。
あと少し遅ければ、深紅の酒はアルフレッドの杯へ注がれていただろう。
「……理由を聞いても?」
最初に口を開いたのはアルフレッドだった。
驚いてはいる。しかし、声は落ち着いていた。
「封印に違和感があります」
「毒が入っている、と?」
「分かりません」
レティシアは即答した。
ここで分からないものを分かると言ってはいけない。
「ただ、本来あるべき位置とわずかに違っています。一度確認するまで、その酒を口にしないでいただきたいのです」
アルフレッドは酒瓶を見たあと、傍らに控えていた近衛へ視線を向けた。
「レオンハルト」
「はっ」
「瓶を確保しろ。給仕を責めるな。今は誰が悪いか分からない」
「承知しました」
レオンハルト・グレイがすぐに動いた。
給仕から瓶を受け取らせるのではなく、給仕ごとその場で待機させ、別の者に清潔な布と箱を用意させる。
その判断を見て、レティシアは少しだけ息を吐いた。
人から人へ渡せば、それだけ後から確認すべきことが増える。
「クララ」
「はい、お嬢様」
「あなたが気づいた場所を教えて」
クララが酒瓶を指した。
「こちらです。封蝋そのものではなく、その下です」
ローゼンハイム家の酒瓶には、目立つ封蝋とは別に小さな印が付けられている。
大げさな仕組みではない。
封蝋を施す際、瓶の首に巻いた細紐を決められた位置へ通し、その結び目に小さな刻印を残すだけだ。
目的は、輸送中に瓶が交換されたかどうかを確認するため。
目立つ封蝋だけなら、技術のある者が似せることはできる。
だから、もう一つ確認する。
レティシアにとっては、それだけの話だった。
「確かに、少しずれているな」
レオンハルトも確認し、表情を引き締めた。
周囲の貴族たちが小声で何かを話し始める。
「ローゼンハイム家の印では?」
「なぜ公爵令嬢がすぐ気づいた?」
「普段から確認しているのでしょう」
「殿下への贈答品をすべて管理しているという噂は……」
聞こえている。
聞こえているけれど、今はどうでもよかった。
問題は酒だ。
「殿下」
「何だ?」
「今夜の料理と飲み物は、一度すべて止めた方がいいと思います。この一本だけとは限りません」
レティシアが言うと、広間の空気がさらに張り詰めた。
自分でも嫌になる。
ただの封印のずれかもしれないのに、次の最悪を考えてしまう。
酒だけなら?
料理にも何かあったら?
すでに口にした者がいたら?
ここで異常が見つかったこと自体が囮だったら?
頭の中で可能性が枝分かれしていく。
アルフレッドは数秒だけ考えた。
「全料理と酒の提供を止める。ただし客人を一斉に退出させるな。出口に人が集中する方が危険だ」
そして、広間全体へ声を通した。
「念のための確認だ。今の時点で毒物と決まったわけではない。皆には席で待ってもらいたい」
落ち着いた声だった。
それだけで、立ち上がりかけていた貴族たちが動きを止める。
レティシアは少し感心した。
自分ならまず「もし全員が出口へ殺到した場合」を考えてしまう。
アルフレッドはそれを考えたうえで、人を動かす。
似ているようで、やはり違う。
「医師を」
レオンハルトが言う。
「すぐ呼べ」
「その必要はありません」
レティシアが口を挟んだ。
何人かが一斉にこちらを見る。
「……必要がない?」
アルフレッドも眉を上げた。
「医師なら、すでに王宮内に待機しているはずです」
沈黙。
「なぜだ?」
「祝宴ですから」
「祝宴だから医師を待機させたのか?」
「はい」
何かおかしいだろうか。
「大勢が同じ料理を口にします。食中毒、急病、酒による転倒、持病の悪化などが同時に起きる可能性がありますので、1週間前に確認しました」
「……そうか」
なぜかアルフレッドの返事が少し遅かった。
クララは小さく目を閉じている。
「お嬢様」
「何?」
「今の説明は後ほどもう一度必要になると思います」
「どうして?」
「おそらく、すぐお分かりになります」
意味が分からない。
ほどなくして王宮医師が現れた。
酒瓶は人の少ない隣室へ運ばれ、アルフレッド、レオンハルト、レティシア、クララ、王宮側の責任者数名だけが立ち会うことになった。
医師はまず瓶と封印を確認し、別の容器へごく少量の酒を移した。
「万能な検査はできません」
「分かっています」
レティシアが答える。
毒というものは一種類ではない。
薬草、鉱物、魔力を持つ植物。それぞれ反応も違う。
魔法を使えば何でも分かるわけではなかった。
医師は匂いと色を確認し、数種類の試薬を少量ずつ使っていく。
最初の二つには変化がなかった。
三つ目も同じ。
レティシアは知らず知らずのうちに指先を握り込んでいた。
何も出ないで。
ただ封印がずれただけであって。
こんなときまで最悪の想定が当たる必要などない。
医師が四つ目の試薬を落とした。
酒の表面に淡い白色の膜が浮かんだ。
医師の顔が変わった。
「もう一度やります」
新しい容器。
新しい試薬。
結果は同じだった。
室内の空気が重くなる。
「何だ?」
アルフレッドが尋ねる。
「植物性の毒物に反応しています。ただし、この検査だけで種類までは断定できません」
「飲んだ場合は?」
「量によりますが、危険です」
医師は言葉を選んだ。
「少なくとも、殿下へお出ししてよい酒ではありません」
レティシアは息を止めた。
本当に入っていた。
酒に毒が。
しかも、アルフレッドが飲む直前まで来ていた。
背中を冷たいものが流れる。
あと少し気づくのが遅かったら。
クララが見落としていたら。
給仕が数歩早く進んでいたら。
「レティシア」
呼ばれて顔を上げる。
「大丈夫か?」
「はい」
反射的に答えた。
大丈夫ではなかった。
けれど今は、自分が震えている場合ではない。
「封印のずれに気づいたのはクララです。まず彼女の証言を残してください。それから、この瓶を誰が運んだか、どこに置かれていたか、触れた人間を――」
「待て」
レオンハルトが低い声で遮った。
その視線は酒瓶の底へ向いている。
「この刻印は何だ?」
そこには小さな番号が刻まれていた。
レティシアには見覚えがある。
「出荷番号です」
「分かるのか?」
「ローゼンハイム家で管理している酒ですから」
口にしてから、嫌な予感がした。
レオンハルトの表情も変わる。
王宮の酒蔵責任者が、急いで持ってこさせた帳簿を開いた。
指が項目を追っていく。
「番号……一致します」
誰も話さなかった。
「本日午後、王宮で受領されています。封印確認済み。その後、王宮酒蔵へ」
「どこから納められた?」
アルフレッドの問いに、責任者が一瞬ためらった。
それでも答えなければならない。
「ローゼンハイム公爵家です」
視線が集まった。
今度は広間の噂話などではない。
この部屋にいる全員が、レティシアを見ていた。
王太子へ出される直前の酒に毒が入っていた。
その異常を最初に指摘したのは、王太子の婚約者。
医師まで事前に待機させていた。
そして毒が見つかった酒は、彼女の実家から届けられたものだった。
最悪だ。
レティシアの頭に、その言葉だけが浮かんだ。
殿下を助けられた。
そのはずなのに。
なぜか自分の破滅へ向かう道まで、一緒に開いた気がする。
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「レティシア・ローゼンハイム公爵令嬢」
「はい」
「確認させてください」
真っ直ぐな視線が向けられる。
「あなたは、なぜこの酒が危険だと分かったのですか?」




