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1000通りの破滅に備えた悪役令嬢ですが、殿下に愛される想定はありません  作者: 秋葉 詩


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2/10

第2話 王太子の杯

「その酒を、殿下に飲ませないでください」


 レティシアの声が響いた瞬間、祝宴の広間から音が消えた。


 給仕が傾けかけていた酒瓶を止める。


 あと少し遅ければ、深紅の酒はアルフレッドの杯へ注がれていただろう。


「……理由を聞いても?」


 最初に口を開いたのはアルフレッドだった。


 驚いてはいる。しかし、声は落ち着いていた。


「封印に違和感があります」


「毒が入っている、と?」


「分かりません」


 レティシアは即答した。


 ここで分からないものを分かると言ってはいけない。


「ただ、本来あるべき位置とわずかに違っています。一度確認するまで、その酒を口にしないでいただきたいのです」


 アルフレッドは酒瓶を見たあと、傍らに控えていた近衛へ視線を向けた。


「レオンハルト」


「はっ」


「瓶を確保しろ。給仕を責めるな。今は誰が悪いか分からない」


「承知しました」


 レオンハルト・グレイがすぐに動いた。


 給仕から瓶を受け取らせるのではなく、給仕ごとその場で待機させ、別の者に清潔な布と箱を用意させる。


 その判断を見て、レティシアは少しだけ息を吐いた。


 人から人へ渡せば、それだけ後から確認すべきことが増える。


「クララ」


「はい、お嬢様」


「あなたが気づいた場所を教えて」


 クララが酒瓶を指した。


「こちらです。封蝋そのものではなく、その下です」


 ローゼンハイム家の酒瓶には、目立つ封蝋とは別に小さな印が付けられている。


 大げさな仕組みではない。


 封蝋を施す際、瓶の首に巻いた細紐を決められた位置へ通し、その結び目に小さな刻印を残すだけだ。


 目的は、輸送中に瓶が交換されたかどうかを確認するため。


 目立つ封蝋だけなら、技術のある者が似せることはできる。


 だから、もう一つ確認する。


 レティシアにとっては、それだけの話だった。


「確かに、少しずれているな」


 レオンハルトも確認し、表情を引き締めた。


 周囲の貴族たちが小声で何かを話し始める。


「ローゼンハイム家の印では?」


「なぜ公爵令嬢がすぐ気づいた?」


「普段から確認しているのでしょう」


「殿下への贈答品をすべて管理しているという噂は……」


 聞こえている。


 聞こえているけれど、今はどうでもよかった。


 問題は酒だ。


「殿下」


「何だ?」


「今夜の料理と飲み物は、一度すべて止めた方がいいと思います。この一本だけとは限りません」


 レティシアが言うと、広間の空気がさらに張り詰めた。


 自分でも嫌になる。


 ただの封印のずれかもしれないのに、次の最悪を考えてしまう。


 酒だけなら?


 料理にも何かあったら?


 すでに口にした者がいたら?


 ここで異常が見つかったこと自体が囮だったら?


 頭の中で可能性が枝分かれしていく。


 アルフレッドは数秒だけ考えた。


「全料理と酒の提供を止める。ただし客人を一斉に退出させるな。出口に人が集中する方が危険だ」


 そして、広間全体へ声を通した。


「念のための確認だ。今の時点で毒物と決まったわけではない。皆には席で待ってもらいたい」


 落ち着いた声だった。


 それだけで、立ち上がりかけていた貴族たちが動きを止める。


 レティシアは少し感心した。


 自分ならまず「もし全員が出口へ殺到した場合」を考えてしまう。


 アルフレッドはそれを考えたうえで、人を動かす。


 似ているようで、やはり違う。


「医師を」


 レオンハルトが言う。


「すぐ呼べ」


「その必要はありません」


 レティシアが口を挟んだ。


 何人かが一斉にこちらを見る。


「……必要がない?」


 アルフレッドも眉を上げた。


「医師なら、すでに王宮内に待機しているはずです」


 沈黙。


「なぜだ?」


「祝宴ですから」


「祝宴だから医師を待機させたのか?」


「はい」


 何かおかしいだろうか。


「大勢が同じ料理を口にします。食中毒、急病、酒による転倒、持病の悪化などが同時に起きる可能性がありますので、1週間前に確認しました」


「……そうか」


 なぜかアルフレッドの返事が少し遅かった。


 クララは小さく目を閉じている。


「お嬢様」


「何?」


「今の説明は後ほどもう一度必要になると思います」


「どうして?」


「おそらく、すぐお分かりになります」


 意味が分からない。


 ほどなくして王宮医師が現れた。


 酒瓶は人の少ない隣室へ運ばれ、アルフレッド、レオンハルト、レティシア、クララ、王宮側の責任者数名だけが立ち会うことになった。


 医師はまず瓶と封印を確認し、別の容器へごく少量の酒を移した。


「万能な検査はできません」


「分かっています」


 レティシアが答える。


 毒というものは一種類ではない。


 薬草、鉱物、魔力を持つ植物。それぞれ反応も違う。


 魔法を使えば何でも分かるわけではなかった。


 医師は匂いと色を確認し、数種類の試薬を少量ずつ使っていく。


 最初の二つには変化がなかった。


 三つ目も同じ。


 レティシアは知らず知らずのうちに指先を握り込んでいた。


 何も出ないで。


 ただ封印がずれただけであって。


 こんなときまで最悪の想定が当たる必要などない。


 医師が四つ目の試薬を落とした。


 酒の表面に淡い白色の膜が浮かんだ。


 医師の顔が変わった。


「もう一度やります」


 新しい容器。


 新しい試薬。


 結果は同じだった。


 室内の空気が重くなる。


「何だ?」


 アルフレッドが尋ねる。


「植物性の毒物に反応しています。ただし、この検査だけで種類までは断定できません」


「飲んだ場合は?」


「量によりますが、危険です」


 医師は言葉を選んだ。


「少なくとも、殿下へお出ししてよい酒ではありません」


 レティシアは息を止めた。


 本当に入っていた。


 酒に毒が。


 しかも、アルフレッドが飲む直前まで来ていた。


 背中を冷たいものが流れる。


 あと少し気づくのが遅かったら。


 クララが見落としていたら。


 給仕が数歩早く進んでいたら。


「レティシア」


 呼ばれて顔を上げる。


「大丈夫か?」


「はい」


 反射的に答えた。


 大丈夫ではなかった。


 けれど今は、自分が震えている場合ではない。


「封印のずれに気づいたのはクララです。まず彼女の証言を残してください。それから、この瓶を誰が運んだか、どこに置かれていたか、触れた人間を――」


「待て」


 レオンハルトが低い声で遮った。


 その視線は酒瓶の底へ向いている。


「この刻印は何だ?」


 そこには小さな番号が刻まれていた。


 レティシアには見覚えがある。


「出荷番号です」


「分かるのか?」


「ローゼンハイム家で管理している酒ですから」


 口にしてから、嫌な予感がした。


 レオンハルトの表情も変わる。


 王宮の酒蔵責任者が、急いで持ってこさせた帳簿を開いた。


 指が項目を追っていく。


「番号……一致します」


 誰も話さなかった。


「本日午後、王宮で受領されています。封印確認済み。その後、王宮酒蔵へ」


「どこから納められた?」


 アルフレッドの問いに、責任者が一瞬ためらった。


 それでも答えなければならない。


「ローゼンハイム公爵家です」


 視線が集まった。


 今度は広間の噂話などではない。


 この部屋にいる全員が、レティシアを見ていた。


 王太子へ出される直前の酒に毒が入っていた。


 その異常を最初に指摘したのは、王太子の婚約者。


 医師まで事前に待機させていた。


 そして毒が見つかった酒は、彼女の実家から届けられたものだった。


 最悪だ。


 レティシアの頭に、その言葉だけが浮かんだ。


 殿下を助けられた。


 そのはずなのに。


 なぜか自分の破滅へ向かう道まで、一緒に開いた気がする。


 レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「レティシア・ローゼンハイム公爵令嬢」


「はい」


「確認させてください」


 真っ直ぐな視線が向けられる。


「あなたは、なぜこの酒が危険だと分かったのですか?」

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