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義母とのレモンケーキづくり 2

「せっかく絞ったレモンの風味が落ちてしまうわね」


 絞りかけのレモンに目をやってから、オルグレン婦人がさっと手を洗う。

 わたしも手を洗い、刻んだレモンの皮とレモン果汁とをそれぞれのボールに分ける。

 室温で溶けたバターをクリーム状になるまで混ぜ、砂糖を入れ、またもやなめらかになるまで混ぜる。そして溶きたまごを半分加え、また混ぜる。白くなるまでよく混ざったら、もう一度。繰り返し。


 言葉を交わすことなく、黙々とひたすら混ぜていると、オルグレン婦人が「謝りたいと、思ってはいるの」とつぶやいた。


「謝ってどうにかなることではないのだけれど」


 オルグレン婦人はこちらを見ることなく、小麦粉とベーキングパウダーをふるいかけている。わたしも同様にふるって、ツヤが出るよう空気を含ませながらヘラでさっくりと混ぜていく。


「起きてしまったことは変えられません。どんなに悔いても、時間は巻き戻りませんから」

「そうね」


 仕上げにレモン果汁を注ぎ、分離しないよう混ぜる。

 溶かしバターを刷毛で型に塗り、生地を注いでいく。ぎりぎりいっぱいではなく、生地が膨らむ分だけ差し引いておく。


「もしお母様が贖罪をなさいたいのでしたら、あちらのお二人を交えて、お茶でもいかがでしょうか」

「お茶を……」


 憂鬱そうな素振りで、「そうね」と力なくうなずくオルグレン婦人。


「あの方たちだけでは気詰まりでしょうから、ほかにも人を呼んで催しものをするのはいかがでしょう。たとえば演奏会などで、アンジェリカ王女殿下やエインズワース様を招くことですとか」

「畏れ多いわ」


 オルグレン婦人はまさか、と顔を青くして首を振る。


「アンジェリカ殿下は特に、お母様のことをお気にかけておいででした。アボット侯爵の晩餐会後も変わらず」

「どうして私なんかを」


 オルグレン婦人はますます青ざめ、おそろしげに身を震わせている。


「なるべく目立たぬよう、ひっそりと身を隠すつもりでいたのに、身の程知らずにいつの間にか合唱など楽しんでしまったから……」


 お気に障ってしまったのかしら。ああ、アランにまでお怒りが及ばなければよいのだけれど。

 そんなふうにクヨクヨと思い悩むオルグレン婦人を前に、アンジーの困り顔を思い出す。


 舞踏会後、エインズワース様に招待され、アンジーとエインズワース様とアラン様と。四人でお茶をしたことがあった。

 そのときアンジーは「コールリッジ夫人にばかり肩入れしてしまい、オルグレン婦人は肩身の狭い思いをされたことだろう。申し訳のないことをした」としょんぼりしていた。

 エインズワース様は「そんなことまでアンジーが気にする必要はない」と肩を抱いてなぐさめていたけれど。

 アンジーはエインズワース様との婚約が決まったとはいえ、身位は王女だ。

「王室に属する者として、公平であらねばならん」というアンジーの言葉には、はっとさせられた。


 人並み以上に裕福な家に生まれたとはいえ、商人の娘であるわたし。

 それほど裕福な生活でなかったとはいえ、貴族の娘であるオルグレン婦人。

 気さくな人柄ながらも、この国の頂点に立つ王族の一員であるアンジー。


 高い身分には義務と制限がある。

 それはアラン様の後ろ姿を追う中で感じていたことではあったけれど。アンジーが苦渋をにじませる姿に、改めて思い知らされた。

 王女であるアンジーの声かけひとつで、誰かが取り立てられ、誰かが貶められる。そんな可能性もあるということだ。


 アラン様に嫁ぐにあたって、わたしも弁えなければならないことがあるだろう。

 優しいアラン様は、いつだってわたしの好きなようにさせてくれるけれど、それに甘えるばかりではいけないのだ。


 本来、伯爵夫人がみずから商売をすることなど、認められるはずもない。

 そもそもわたしは貴族ではなく、平民だ。その上、ウォールデンの名は地に落ちた。

 豊かな財政を誇るカドガン伯爵が、悪評塗れの商家の娘を嫁に迎えることで得る利など、なにひとつない。


 けれどもアラン様が、カドガン伯爵領を盛り上げる商機になると、コールリッジ一族に熱心に説いてくれたから。苦手な社交をこなして、上流階級に連なる方々のうち、いくらか柔軟な思想の持ち主たる方々へ、わたしのブティックを売り込んでくれたから。

 王女の位にあるアンジーが、わたしに目をかけてくれたから。

 前カドガン伯爵と真珠姫(はは)の伝手を頼り、ウォールデンと反目していた資産家階級や知識人層へと働きかけることができたから。


 そうして、わたしはわたしの我儘を貫き通している。


「アンジェリカ王女殿下は、悔いておられました」

「悔いて……?」


 じゅうぶんに温まった窯から薪を掻き出す。力仕事ではあるけれど、ふたり同時に行うと危ないので、ひとりで行う。

 オルグレン婦人は「体を動かしたいから」とわたしの申し出を断り、火搔き棒を手に取った。

 薪を掻き出し終えると、オルグレン婦人の小さくとがった鼻には黒い煤汚れがついていた。


「汚れがついていらっしゃいます」


 オルグレン婦人の鼻に布巾を当て、軽くこすると「なんだか立場が逆みたい。私がメアリーさんの子供になったようよ」と笑う。


「お母様が真珠姫に正面切って謝ることが難しいのは、お心持ちだけの問題ではないでしょう。身分がございます」

「言い訳だとわかっているのよ」


 オルグレン婦人が布巾で顔を隠し、恥ずかしそうにうつむくので、わたしは「いいえ」ときっぱり否定した。


「言い訳ではございません。アンジー……アンジェリカ王女殿下がお母様をお気にかけていらしたのも、殿下のご身分が理由です」

「殿下のご身分……王族としての、ということね」


 オルグレン婦人はわたしの言葉に疑問をはさむことなく、うなずいた。

 『身分が理由』という言葉だけで、すぐさま納得できるということこそ、オルグレン婦人が貴族の娘である証。わたしではきっと気づくことができない。


「お母様がお気づきのとおり、アンジェリカ王女殿下は公平であることをご自身に律しておられます。ですから先日の舞踏会で、真珠姫にばかりお声をかけてしまったと」

「……そう。お優しい方なのね」


 オルグレン婦人はレモンケーキの生地を炉床に差し入れながら、かみしめるように言った。


 アンジーがオルグレン婦人を咎人であるかのように忌避してしまえば、世の流れはそのようになってしまう。法で裁かれずとも、王族が発言することで、社会的断罪がなされてしまう。

 男性に従属するしかなく、そのほかに噂に評判という、ふわふわとした実のない装備で武装するだけの女性の身とあっては、特に。

 一度評判が落ちてしまえば、己自身の才覚で立ち直ることが、女性にはとても難しい。


 現時点で社交界に居場所をもたないオルグレン婦人が、さらにその名を落としてしまえば。

 カドガン伯爵であるアラン様ですら、オルグレン婦人がその出自にふさわしい扱いを受けられるよう、救い出すことはできないだろう。

 これまで自領にこもりきりだったアスコット子爵にいたっては、アラン様以上に力添えがかなわない。

 オルグレン婦人と血族であるオルグレン一族当主のアボット侯爵とて、一族の名誉を守るためならば、オルグレン婦人を切り捨てることだろう。


 そうなってしまえば、オルグレン婦人は平民同様に生きていくしかない。ひっそりとお菓子をつくって売って。

 今のオルグレン婦人はそれでもいいのかもしれない。

 しかしそれは、オルグレン婦人の道がひとつ、塞がれてしまうということ。自ら道を選ぶのではなく、ほかの道を選べなかった、となれば。

 ひとつ。またひとつ、と。行き場を失い、わずかな自由の灯が消えていく。


 アンジーはオルグレン婦人の道を塞いでしまうことを望まない。そしてその旨を、オルグレン婦人は言葉にせずとも理解し、受け止めている。


「それから、晩餐会ではせっかく、『薔薇族の男達』楽曲の合唱で盛り上がったのですから、あの日の女性陣主催で演奏会を催したらどうかとおっしゃっていました」


 煉瓦の蓄熱でレモンケーキの焼き色を見守りつつ、使い終えた道具を片付けていく。


「アンジェリカ王女殿下がホストとしてご参加なさることは難しいですが」

「それはそうね。殿下おひとりの主催ではなく主催が雑多なのであれば、ひとつのサロンだけに殿下からご贔屓をいただくことはできないわね」


 アイシング用のレモン果汁と砂糖、それから飾り用のレモンピールを残し、すっかりきれいになった台所で、オルグレン婦人がお茶を入れてくれた。


「ええ。それで演奏会では寄付金を募り、アスコット子爵が理事を担われる予定の勉強小屋へ、その運営資金としたらよいのではということでした」

「まあ、勉強小屋の」


 オルグレン婦人は驚いたように目を瞬いた。


「セシルは喜ぶでしょうね」

「前カドガン伯爵も、もちろん喜ばれるかと思います。前カドガン伯爵が発起なされた事業ですから」

「……ええ。そうかもしれない」


 オルグレン婦人は椅子に腰かけ、ゆっくりとお茶を含んだ。しばらく考えをめぐらせているようだった。


 カップ一杯分。たっぷり時間をかけてから、オルグレン婦人は顔を上げた。


「わかりました。演奏会を企画しましょう」


 窯を覗き込めば、レモンケーキがちょうどいい色に焼き上がっている。


「そうとなれば、お手紙を書かなくてはね。家族や親しい友人以外に送ることなんて、本当にひさしぶり。緊張してしまうわ。手紙のマナーを覚えているかしら」


 窯から焼きあがったケーキを取り出し、オルグレン婦人は不安げに言った。


「メアリーさん、申し訳ないのだけれど、手紙を書き終えたら採点をしてくださる?」

「ええ。わたしでよろしければ」

「頼りない義母でごめんなさいね」

「わたしは今でしたら、ほやほやの学園仕込みですもの。どんとお任せくださいな。すっかり忘れてしまうまえに、お願いいたします」


 オルグレン婦人とわたし。くすくすと笑いながら、厚手の布巾を両手に、ケーキを型から抜き取って、ケーキクーラーの上へのせていく。

 レモンケーキの粗熱をとるあいだ、アイシングをつくる。

 オルグレン婦人は小さなボウルに粉砂糖を入れた。


「アボット侯爵夫人に、アスコット子爵夫人。それから」


 オルグレン婦人は言葉を切って、レモン果汁を数滴垂らした。すぐさま泡だて器でかきまぜる。


「あの方――コールリッジ夫人にも」


 泡だて器を置き、レモン果汁をふたたび加える。

 オルグレン婦人の視線の先は、アイシングをつくるボウルから離れない。泡だて器を手に取り、すばやくかきまぜる。


 コールリッジ夫人。オルグレン婦人はかつて、そのように呼ばれたことがあった。

 オルグレン婦人が前カドガン伯爵と結婚し、前カドガン伯爵が伯爵位を継ぐ前の、ほんのわずかなあいだ。


「あの方はなにか、楽器をなさるのかしら」

「どうでしょう。共に暮らしていた時間が短すぎて」


 はて、と考えをめぐらせてみるも、真珠姫があの居心地最悪なウォールデン分家屋敷で楽器を奏でていた記憶がない。ピアノくらいなら、教養として学んでいるかもしれないけれど。


「あらそうなの」


 アイシングをスプーンですくいあげ、かたさを見る。レモンケーキにかけるのにちょうどいいゆるさだ。

 オルグレン婦人はスプーン片手に、にやりと笑った。


「それでは、ぜひとも楽器を披露いただかなくてはね」

「ホストであれば、当然ですね」

「ピアノ……ではつまらないわ。あの方、絶対にお上手だもの。間違いないわ」


 ひとつひとつ。レモンケーキへていねいにアイシングをかけていく。


「バイオリンをお願いしてみようかしら」

「お母様からのお願いでしたら、たとえ苦手だったとしても、はりきって引き受けるでしょうね」

「苦手でいらっしゃればいいわ」


 オルグレン婦人はふふん、と鼻で笑ったあと、真顔になり、スプーンをことりと静かに置いた。


「本当に。底意地が悪くて醜い。みっともない」


 はらはらと涙をこぼすオルグレン婦人は「ごめんなさいね」と手を振り、背を向けた。


 わたしに向けられたオルグレン婦人の背は、はかなく華奢で。

 けれども今回ばかりは、『同情は無用』と拒んでいるようでもあった。


「あちらのお二人はこちらを顧みることなく、勝手に幸せになっていらっしゃるのですから」


 わたしは両腕をまわして抱きしめることも、背をなでることもせず、アイシングの続きを施していく。仕上げのレモンピールを散らしながら「ちょっとくらいの意地悪くらい、大目に見てくれますわ」と軽口をたたく。


「というより。お母様が気丈に張り合われることを、真珠姫(はは)は喜んでいる節すらありますもの」


 オルグレン婦人はううっと小さく呻いたあと小声で、「実は私もそう思っていたわ」と言った。


「口に出していいものか、わからなかったから黙っていたけれど」


 こちらに向き直り、オルグレン婦人もレモンピールを散らし始める。


「お母様もわたしも、そういうことにしておきましょう」


 わたしのこんな言葉を聞けば、親の心子知らず、だなんて、真珠姫(あのひと)は大げさな身ぶりで嘆くふりをするかもしれない。

 芝居がかった仕草と表情で、いかにも弱々しく前カドガン伯爵にしなだれかかる。そんな真珠姫(産みの母)の姿が目に見えるようで、くすりと笑ってしまった。

 もしそうだとしても、あの人はきっと笑って許してくれるだろう。しかたがないわね、と。


 だって娘というものは、いつだって勝手なもので。

 いつだって母親からの無条件な愛というものを信じているのだから。


 たとえあなたが『愛してる』と口にはしなくとも。

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