義母とのレモンケーキづくり 1
『42 向かい合う恋人たち』と『最終話』の間に入るお話です。
「メアリーさん、レモンの皮をむいてくださる?」
お母様――わたしの育ての母であり、義母でもあるオルグレン婦人は、籠いっぱいのレモンを両手に抱えてやってきた。
「ええ、もちろんですわ」
壁にかけてあるわたし専用のエプロンを手に取り、すばやく身に着ける。
「本日はお店を休まれていらっしゃるのですか?」
そういうわたしも、今日はポリーブティックをお休みしている。
オルグレン婦人が彼女の営む菓子屋をしばらく休業すると、父から聞いたためだ。
これまでは週に一度、それから建国祭の翌日、年末年始の一週間といった、規則正しいお休みを設けるだけだった。
それがここにきて、いったいどういった心境の変化だろう。オルグレン婦人になにかあったのだろうか、と。
わたしも父も、差し出がましいことは承知で、気になってしまった。
「ええ。といっても、今日だけではないのよ。二週間ほど休むわ」
オルグレン夫人は最初、趣味のお菓子作りが高じて、縁のあった菓子屋の片隅に手作り菓子を委託販売していた。それが今では、自身の店を開いている。
評判も上々。オルグレン婦人も、それまで以上に生き生きとして菓子作りに精を出していた。そのはずなのだが。
「開店なされてから本日まで、あまりお休みになられませんでしたから。ゆっくりお休みになる、いい機会ですね」
開店にあたっては、アラン様と父と。それから前カドガン伯爵と真珠姫もこっそり、一枚噛んでいる。
別れた夫である前カドガン伯爵と、その不倫相手であった真珠姫の関与について、オルグレン婦人は知っていて知らぬ顔を通している。
オルグレン婦人の胸中で、彼らに対するわだかまりがいっさい消えたかといえば、そうではないのだろう。長年積もり積もった複雑な感情は、そう容易に消せはしまい。
「そうねえ。私としては、長い休みとなると特にやることもなくて。手持ち無沙汰になってしまうのだけど」
レモンのぎっしり詰まった重たそうな籠を、オルグレン婦人がテーブルにどすんと置く。無意識だろう「よいしょ」というかけ声が、いつまでも若々しく妖精のような姿とちぐはぐで、それがいっそうお可愛らしい。
「売り子を任せているひとりが、ご家族から縁談を持ち掛けられたらしくて。絶対に断ってやるって息巻いていたから、おうちに帰って戦っていらっしゃいなって送り出したの」
なるほど。
オルグレン婦人が何かしらの問題を抱えているというわけではないらしい。
突然の長期休暇に、歯切れの悪い調子でもぞもぞと心配を口にしていた父。
オルグレン婦人とは商売仲間であるとはいえ、身分違いだ。
そのためか、どうにも踏み込めずにいたらしく、「なにか悩みを抱えているようなら、それとなく聞いてきてほしい」と頼まれた。
細やかな気配りをする父のことだから、商売人としては赤子同然のオルグレン婦人のことが気がかりだったのだろう。
今日中にでも父に伝えて、安心させてあげたい。ついでにレモンケーキも包んで届けよう。
これからオルグレン婦人秘伝のレシピで焼きあげる予定だ。
石窯ではすでに焼き床の上に燃えた薪が並べられ、窯はじゅうぶんに温まっている。
「ちょうどいいから、ほかの子たちにもお休みをあげようかと思って」
オルグレン婦人はレモンをひとつ取り上げ、果物ナイフを皮に滑らせた。とたん、爽やかなレモンの香りが鼻腔をかすめ、口の中でじゅわっと唾液がわきあがる。
「いつもいっしょうけんめい働いてくれているから、たまには長いお休みがあってもいいでしょう」
いたずらっぽく「恋人と旅行にでも行ってきたら? って、ほんのすこしだけれどお小遣いも渡したのよ。みんな喜んでくれたわ」とほほえむオルグレン婦人は、恋の話に盛り上がる若い娘のようでもあり。おせっかいな年上女性のようでもあり。
「それは素敵なことをなさいましたね」
オルグレン婦人にならって、わたしもレモンの皮をむき、細かく刻んでいく。
「そうでしょう」
すっかり剥きおえて丸裸になったレモンを満足げに眺めてから、オルグレン婦人は「でもね」とくちびるをとがらせた。
「ニックが、お小遣いまでやるのは『やりすぎだ』って言うのよ」
「ニッ――お父様が?」
父がそんなことを言い出したということにも驚きだが、ニック? いつからオルグレン婦人はわたしの父のことをニックと呼ぶようになったのだろう。
動揺から思わずナイフを持つ手がすべり、指先を切ってしまう。
「いたっ」
「あらあらまあまあ」
オルグレン婦人は絞りかけのレモンを置き、私の手からそっと果物ナイフを抜き取った。
「メアリーさんにしては珍しいこと」
台の隅に置かれていた清潔な布巾をわたしの指先に押し当て、「このまま抑えていてちょうだいな」と、オルグレン婦人は止血用のガーゼを探しに行く。
「ご面倒をおかけしてしまって……」
布巾の上から指をぎゅっとおさえながら、申し訳なさと恥ずかしさで身が縮んでしまう。
ナイフで指を切るだなんて。オルグレン婦人から初めてお菓子作りを教わった八つのころだって、こんな失敗はしたことがなかったのに。
「なにを言うの。失敗なんて誰にでもあることよ」
オルグレン婦人は大判のガーゼをはさみで適当な大きさに切ってから、ジンを銀のトレイに注いだ。
消毒用のジンとティースプーン、リボン状のガーゼを三本。
止血道具を手にオルグレン婦人が戻ってくる。
「メアリーさんは昔からご自分に厳しすぎるわ」
オルグレン婦人は「さあ、手を出してちょうだいな」と指先を抑えていた布巾を外し、銀のティースプーンでジンを一滴、指先に落とす。
ぴりっとした痛みが指先に走り、わずかに眉が寄る。
「――なんて、私が言えた義理ではないわね」
憂いのにじむ声にはっとして顔をあげれば、オルグレン婦人は眉尻を下げ、せつなげにほほえんでいる。
「そんなこと――」
「いいえ。メアリーさんがご自分に厳しくならざるをえなかったのは、私達が不甲斐なかったせいに間違いないわ。ええそう、私達。幼いメアリーさんとアランを慈しみ守るべきだった私達全員が」
オルグレン婦人はたまに、こうして後悔の念を伝えてくることがあるので、その都度わたしは、オルグレン婦人の優しさに救われてきたこと。オルグレン婦人はわたしの『育ての母』に他ならないことを訴えているのだけれど。
もし、それだけでは足りないというのなら。
「お母様はもしかすると、真珠姫や前カドガン伯爵への罪悪感を、いまだお持ちですか?」
オルグレン婦人ははっと顔をあげ「そんなことは」と言いかけた。
けれどもすぐに目を伏せ、小さくたたんだガーゼをわたしの指先――ぷっくりと血の玉が浮かぶ傷口に押し当てる。その上からガーゼの帯をぐるりと巻き、しっかりと結び目をつくった。
ゆっくりと手をおろしてから、オルグレン婦人はわずかな吐息を漏らす。
「そうかもしれないわね」
小声でつぶやくオルグレン婦人の、その赤みがかった淡い金のまつ毛が震えている。
「真珠姫は婚約者のいる前カドガン伯爵ではなく、誰か別の――地位や権力を持つ有識者に助けを求めればよかった。その誰かが男性である必要すらなかったのでは?」
「え?」
わたしが唐突に切り出すと、オルグレン婦人は顔をあげた。
わたしの真意が読めないのか、戸惑うように、こちらの出方を探っている。
「ウォールデンの家から逃げ出すにあたって、アスコット子爵という協力者との縁が絶たれ」
真珠姫の立場から見れば『裏切られた』と評するのだろうけれど、アスコット子爵の姉であるオルグレン婦人の手前、あまり強い言葉は使いたくない。
今はオルグレン婦人を責めたいわけではなく、むしろその罪悪感をどうにか減らしたい一心なのだから。オルグレン婦人の罪を糾弾したいのであれば、それは真珠姫本人がすればいいこと。
とはいえ。
「ウォールデンの魔物たちから屈辱を受けたあとの真珠姫がどれほど苦しんだのか。それはわたしも女として、もちろん同情を禁じえません」
血のつながった娘として一言もないとなれば、真珠姫があまりに気の毒でもあるかと、断りをいれる。
とたん、オルグレン婦人の顔がみるみるうちに真っ青になり、細い指がわななく。
「それでも、です」
オルグレン婦人の手を取れば、凍えるように冷たい。
「真珠姫が苦しみ、暗闇の底で助けを求めてもがく中。救いの手としてわざわざ前カドガン伯爵の手を選んだことには、お母様への意趣返しといった狙いが多分に含まれていたのではないでしょうか」
「それは……でも、あの方がそのように思われても当然のことだわ」
そうかもしれない。
けれど。
「『お姫様を助け出す王子様』の役は女性では不可能で、男性でなければいけなかったとしても。それでもやはり、前カドガン伯爵でなければならないという理由にはなりません。
ですから前カドガン伯爵をお母様から奪うことで、真珠姫からお母様への報復はすでに終わっているということです」
「そう、なのかしら」
オルグレン婦人は不安げに視線をさまよわせた。
真珠姫自身が胸中どのように考えているのか。
それはわたしにはわからない。
けれど少なくとも表面上は、オルグレン婦人をからかいながらも、それなりに良好な関係を保とうとしているように見える。
オルグレン婦人が手掛けた店への支援もそのひとつだ。
「復讐でないのなら、婚約者のいない方に助けを求めればよかったのです。不埒な下心を抱くことのない誠実な方や、あの人の力になりたいと求愛する男性は他にもいたのでしょうから」
わざとらしく片眉を吊りあげ、「当時は社交界きっての美姫だの才媛だのと持て囃されては、いい気になっていたと伺っていますし」と嫌味を付け加えてみる。
「いい気になっていたのかは……。でもたしかに、あの方が当時助けを求められていらしたら、救世主にならんとする貴公子が『我こそは』と、たくさんたくさん……、数えきれないほどに名乗りをあげていらしたでしょうね」
オルグレン婦人は小さく笑って「散々な評判しか持たない私では、難しかったでしょうけれど」と首を傾げた。
オルグレン婦人とアスコット子爵。
姉弟二人の振る舞いは、当時の社交界で眉を顰められていたと聞く。
わたしが否定できることでもなく、かといってオルグレン婦人の矜持を貶めたいのでもない。となれば、話の矛先を変えるしか術はない。
「真珠姫だけではなく、前カドガン伯爵への罪悪感も、お母様はもうお捨てになってよろしいのでは」
「ギルへも?」
オルグレン婦人はすがるようにわたしを見た。
真珠姫に対する罪の意識以上に、前カドガン伯爵への贖罪に囚われているのかもしれない。深く深く、愛した人なのだから。
「一番初めに、前カドガン伯爵がお母様に婚約解消を打ち明けられたときのことです。その後のなりゆきがどうであれ、あの時点では真珠姫から助けを求められたからといって、お母様に婚約解消を求める必要はなかったはずです。
そもそもアスコット子爵からお母様との婚約を解消するよう持ち掛けられたとき、婚約解消を断ったのはほかの誰でもない、前カドガン伯爵なのですから」
事実、無責任だろう。
周囲が懸念を示す中、オルグレン婦人との婚約を継続すると決断したのは、前カドガン伯爵ご自身だ。
気の毒な身の上の哀れな女に恋をしたからといって、あまりにひどい手のひら返しではないのか。
「前カドガン伯爵の地位や伝手を使い、別の者に真珠姫を救わせることだってできたはず。やはりあの二人は、理から外れて己の欲を通しただけです」
「そんなことを言わないで。私は……」
オルグレン婦人は顔を両手で覆い、肩を震わせた。
「私は醜いの。メアリーさんがなぐさめてくださって、安心しているの。『ああ、やっぱり私は悪くないんだわ』って。そう感じてしまうの。あれほどひどいことをしたのに。なんの罪もないメアリーさんやアランを、勝手に巻き込んで傷つけて。それでいて私は、いまだに悲劇のヒロインを装ってばかりだわ。なんて醜い――」
オルグレン婦人の華奢な背に、腕をそっと回せば、レモンの香りがふわりと立ち上る。
「誰かを真剣に愛してしまえば、綺麗なばっかりではいられませんわ。わたしだってそうです」
嗚咽の止まらないオルグレン婦人の背をなで、「最近、アラン様は苦手でいらした社交に力を入れていらっしゃいます。これまででしたらお言葉を交わそうともしなかったご令嬢、ご婦人方と談笑なされたり」と、これまで胸に秘めていた愚痴をぽつりぽつり、吐き出してみる。
「皆様、とてもお美しい方々ばかりで。それだけでなく、ウォールデンという汚れた名に塗れた私と違い、出自も確か」
「アランはメアリーさんしか見ていないわ!」
がばりと顔をあげ、オルグレン婦人は必死の形相でわたしに訴えてくる。
「ええ、わかっております。けれどもやっぱり、わたしではなくもっとアラン様につり合った――なんて考えてしまうのです。そしてそれをこうして打ち明けることで、『アラン様のお母様』から否定してほしい。他の美しい令嬢ではなく、わたしの味方になってほしい。わたし自身を肯定してほしい、と願ってしまう」
にこりと笑いかければ、オルグレン婦人もほほえみ返してくれる。
「わたしもお母様とおなじです。同情がほしいですわ。じくじくと痛む心には、寄り添ってもらいたい。『あなたはそれでいいのよ』って言ってほしい」
「メアリーさんは……メアリーさんしか、アランの相手はつとまらないわ。アランは当然、メアリーさんしか見ていないし、私だって、メアリーさん以外の誰も、娘として認めないわ。どれほど高貴な方であったとしても、メアリーさん以上の方なんていないわ!」
言い募るうち、だんだんと力がこもって感情的になったオルグレン婦人。
はたと冷静になったところで、目と目が合い、ふたりで笑い合った。




