5.僕ん家の最後
お札はまだ、全体の半分も剥がせていない。だが、母はリビングに現れた。
鬼の形相をした母の顔に、心平は手が震えた。
「心平っ!ぼっこちゃんは!?」
床のお札を踏みしめながら、一心不乱に進んでいく。そして、和室へと目を向けた。
座敷童を見た母は、一瞬だけ安堵の表情を見せたが、すぐに険しい顔に戻った。
「お、お母さん、なんでこんな早く帰ってこれたの?電話が切れてからまだ五分も経ってないよ……」
「最初に電話した後、何かおかしいと思って家に向かってたの。あの時から、あなたなんか変だったでしょ!?」
母はぎょろりと目を回し、心平を見た。
「あのね、心平。もし座敷童がいなくなってしまったら、お母さんの会社は倒産だわ。心平も今の学校には行けなくなる。残るのは借金だけよ」
心平の背筋は固くなった。顔も声も、心平の知らない母だった。
「この家には座敷童が必要なの!お願いだから、お札を剥がすとか、もうこんなことは絶対しないで」
「で、でも」
「いいから、わかったわね」
母はため息をついて、座敷童の方へ振り返る。その腕を、心平はためらいもなく強く掴んだ。
もう、止まれなかった。
「僕を見てよ!」
何年も心の中にあって、押し殺してきた言葉が自然と口からこぼれだした。
「僕がいるだろ。今はまだ無理だけど、いっぱい勉強してすごい会社に入って、お母さんが働かなくていいくらいお金もらうから。不幸になんか僕がさせない」
心平はずっと、文句ひとつ言わず座敷童の面倒を見てきた。自分よりも、座敷童のわがままを優先させてきた。それは、母に褒めてほしかったからだ。
仕事やお金や、座敷童しか見ていない母に、少しでも自分を見てほしかったからだ。
母は背中を向けたままだ。握った手に力を込めた。泣きたくなんかないのに、涙が出てくる。
「だから、僕を見てよ。お母さん」
ふと、心平の脳裏に座敷童の顔が浮かんだ。彼女はよくあれだけ、わがままを言っていたものだ。答えを聞くのが、こんなに怖いのに。
ゆっくり、母が心平を見た。何かを言おうとした、その時。
「母さん」
座敷童がつぶやいた。
「六年前に母さんがあるお寺でお願いしたこと、覚えてるかの?」
母は目を見開いた。
「うちはあの時、お寺で暮らしてたんじゃ。その前に住んでいた家で、今と同じように閉じ込められてしまっての。やっとの思いで抜け出して、もう人間の家に住むなんて、まっぴらごめんじゃ!と思っとった。でもある日、母さんがお寺に来たんじゃ」
座敷童は立ち上がり、両手をいっぱいに広げた。
「背中にこーんな大きなリュック背負ってて、びっくりしたわ。右手には小さな男の子を連れてての。母さんはその手を放さないで片手で合掌して、こう言ったんじゃ」
母は黙って前を見ている。
「“どうか、お願いします。夫が死んで、私はこの子を一人で育てなければいけません。精一杯働きます。だから、どうかこの子が幸せになれますように……”」
心平は、母の背中を見つめた。
「その言葉を聞いてなんか気になってのお、二人についていったんじゃ。そしたら、引っ越しの最中だってわかっての。その新しい家の和室が、大きさもさびれ具合もうち好みでのお!気付いたら棲みついとったんじゃ」
座敷童は両手を後ろで組み、笑顔を見せた。そして、和室のヘリに右足を乗せた。
「でも、うちはこの家にもう必要ないみたいじゃの」
座敷童の黒い瞳と目が合った。
心平はおもむろに、残りのお札を床から剥がし始めた。
母は心平を止めなかった。ただ、「ごめんなさい」とつぶやいていた。




