全くわからない女心
「ナルニエル様、ごきげんよう」
優雅な礼とともに、涼やかな声が耳に届く。振り返らずとも誰だか分かった。プリストン公爵家のカトリーナだ。
「……ああ、カトリーナ嬢。ごきげんよう」
できるだけ当たり障りのない返事を心がけながら、ナッシュは内心でため息をついた。
(また来た……)
正直なところ、彼女が何を考えているのか、ナッシュにはさっぱり理解できなかった。縁談の打診を断ったのは、一度や二度ではない。父を通して丁重に、しかし明確に「お断りします」と伝えたはずだ。それなのに、社交の場で顔を合わせるたびに、こうして真っ先に声をかけてくる。
「今日はいつもよりお元気そうですね。お仕事の方は落ち着かれましたの?」
「まあ、そこそこには」
「よろしければ少し、庭園の方でお話でも――」
「あー、すみません。今日は少し体調が優れなくて」
とっさに出た言い訳に、我ながら苦しいなと思いつつも、これで引いてくれるだろうと踏んでいた。
だが、カトリーナは眉をひそめるどころか、むしろ目の色を変えて一歩詰め寄ってきた。
「まあ、大変。それは一大事ですわ」
「い、いえ、そこまで深刻なものでは」
「顔色も少し優れないように見えますし……お医者様をお呼びした方がよろしいのでは? 会場の外に控えていただいているはずですから、すぐに手配いたしますわ」
「いや、本当にそこまでのことは」
「でしたら、せめて休憩室までご一緒しましょうか。人の少ない場所で少しお座りになった方が」
予想外の食いつきに、ナッシュは内心で盛大に後悔した。断りやすい言い訳のつもりが、むしろ彼女に付き添う口実を与えてしまったらしい。
「本当に、少し休めば治まるので大丈夫です」
「そう仰らずに。もしこの場で倒れられでもしたら、私が一番後悔しますもの」
きらびやかなご令嬢の圧に、気づけばじりじりと後ずさっていた。
「本当に、大丈夫ですから」
「では、せめてお水だけでも。少々お待ちくださいね」
そう言うが早いか、カトリーナは近くの給仕を捕まえて、てきぱきと水を頼み始めた。
「ありがとうございます……」
差し出されたグラスを受け取りながら、内心ではどう振り解こうか、必死に頭が回っていた。ここまでされて、無下に立ち去るわけにもいかない。
「カトリーナ嬢、少しよろしいですか」
助け舟が入ったのは、そんな時だった。声の主は次兄のラルロだ。氷のように涼しい表情のまま、こちらへ歩み寄ってくる。
「ラルロ様……」
「弟が具合が悪いようなので、こちらで引き取ります。失礼。」
有無を言わせぬ調子でそう言うと、ラルロはナッシュの肩に軽く手を置き、そのまま人混みの方へと引っ張っていく。カトリーナは何か言いたげな顔をしていたが、相手が次男とあっては強く食い下がるわけにもいかないらしく、渋々といった様子で会釈を返した。
十分に距離を取ったところで、ナッシュはようやく大きく息を吐いた。
「兄上、助かりました……」
「見ていられなかっただけだ。あそこまで詰め寄られて、体調不良の言い訳一つまともに通せないとは、笑い話にもならん」
「兄上だったら、もっとうまくかわせたんでしょうね」
「当然だ」
素っ気ない口調でそう言いながらも、ラルロは呆れたようにこちらを一瞥した。
「お前も少しは学べ。ああいう手合いは、逃げ腰の態度が一番付け入る隙を与える」
「分かってますよ、それくらい」
言葉ではそう返しつつも、実際には全くもって自信が持てなかった。
ラルロはそれ以上追及することもなく、そのまま人混みの向こうへと歩いていった。一人残されたナッシュは、改めて考える。
(何がそんなに気に入られてるんだ、俺は)
顔がいいとか、公爵家の三男だとか、宮廷魔術師団の団長だとか、理由になりそうなものはいくつも思いつく。だが、それはあくまで表面的な条件であって、自分という人間そのものを見てもらえているとは、正直あまり思えなかった。
しかも、これだけ何度も断っているのだ。普通ならとうに諦めそうなものを、彼女らはまるで意に介さない様子で、毎回同じように話しかけてくる。その根気強さには、いっそ感心すらしてしまう。
(そこまでの熱意があるなら、他にもっと相応しい相手がいるだろうに)
考えても答えの出ない疑問を頭の隅に追いやりながら、ナッシュはグラスに残った酒を一気に飲み干した。
女心というものが、自分には根本的に理解できないのかもしれない。あるいは、単純にカトリーナの考えが特殊なだけなのか。どちらにせよ、今夜もまた同じやり取りを繰り返すだけの夜になりそうだった。
視界の端で、カトリーナがまだこちらを見ているのが目に入った。ナッシュはそれとなく視線を逸らし、彼女から見えない別の壁まで移動した。今度こそ完全に気配を消すべく、柱の陰へと身を隠した。
やれやれと肩をすくめながら、頭の中では、なぜか場違いなことを考えていた。
(こういう時、あの子は一体どうしてるんだろうな)
薬草に囲まれて、こんなバカみたいに、きらびやかな場所とは無縁の生活を送っているであろう、あの街娘のことを。




