壁の男
会場に足を踏み入れた瞬間から、ナッシュはすでに帰りたくなっていた。
シャンデリアの明かりが眩しいほどに輝き、着飾った令嬢たちの華やかなドレスが会場中を彩っている。楽団の音楽に紛れて、あちこちから扇子で口元を隠した気持ちの悪い笑い声が聞こえてきた。
(何度来ても慣れない……)
壁際に寄りかかり、グラスを片手に、ナッシュはできるだけ目立たないよう息を潜めていた。
「おいおい、そんな端っこで縮こまってどうした」
からかうように声をかけてきたのは、長兄のグランだった。その隣にはアルト第一王子の姿もある。二人とも、涼しい顔で談笑しながらこちらへ近づいてきた。
「兄上たちはいいですよね。適当に受け流すのが上手いから」
「才能というより慣れだな。お前ももう少し愛想笑いの練習をしたらどうだ」
「愛想笑いなんてしたくありません」
むすっとした顔で答えると、アルトが声を上げて笑った。
「相変わらずだな、ナッシュは。俺たちは友人たちと少し話してくる。せいぜい壁の花ならぬ壁の男として頑張れよ」
「他人事だと思って……」
言い返す暇もなく、二人はさっさと人混みの中へと消えていった。
一人取り残されたナッシュは、再び壁際に戻って気配を消すことに専念する。
「団長、こんばんは」
控えめな声に振り返ると、ラビアーニの姿があった。今夜は魔術師団の制服ではなく、淡い色合いのドレスに身を包んでいる。子爵家の令嬢である彼女も、こうした場には出席の義務があるのだろう。
「ああ、ラビアーニも来てたのか」
「はい……家の付き合いで。団長も大変ですね」
「まったくだ」
珍しく本音がこぼれた。ラビアーニは小さく笑うと、遠慮がちにこちらの様子を窺ってくる。
「あの……団長!踊らないんですか?」
何を言い出すかと思えば、気配を消すのに専念しているのに、勘弁してほしい。
「いや…今は知り合いを待ってるからな。君は踊ってくるといい、」
「あ、…はい…あの..…えっと……でも.…あ、はい.…それではまた…」
軽く頷いて返事をすると、ラビアーニは明らかに肩を落としながらパーティーに紛れていった。
あぁ、めんどくさい。申し訳ないがこの一言につきる。
会場を見渡すと、部下たちの姿もちらほら見える。貴族出身の何人かは、それぞれの家の付き合いでこうした夜会に慣れているらしく、要領よく談笑の輪に加わっていた。
(俺もあれくらい器用に立ち回れれば……)
ふと、視界の端に見覚えのある令嬢の姿が映った。プリストン公爵家の娘、カトリーナだ。今夜も一段と気合の入った装いで、周囲に目を光らせている。どうやら俺、ナルニエルに近づこうとする令嬢たちを、それとなく牽制しているようだった。あの視線に気づかれる前に、そっと壁際を移動しておくに限る。
結局この夜も、ナッシュは、大量に近寄って来るご令嬢に辟易しながら、それでもひたすら壁と一体化することに努め、時間が過ぎるのをただじっと待ち続けていたのだった。




