わからない自分
書類に目を通しているはずなのに、気づけば同じ行を三度も読み返していた。
ナッシュは小さく息を吐いて、書類を机に置いた。窓の外はもう夕暮れに近い。今日も通常通りに、討伐依頼の割り振り、部下の訓練の確認、今日必要な業務はこなしたつもりだ。だがふとした瞬間に思考が横道に逸れている。
(また考えてる……)
紫色の瞳。あの一瞬だけ見えた美しい紫色が、頭の隅にこびりついたまま離れない。
ゲン爺のところの孫娘。シャンティという名前。ロディの口からその名を聞いた時は、ただの街娘だと言われて納得したつもりだった。だが、納得したはずの頭とは裏腹に、どうしても何かが引っかかったままだった。
この国で紫の瞳を持つ者など、聞いたことがない。単なる光の加減で見間違えた、と考える方がよほど自然なはずだ。それなのに、なぜこうも気になってしまうのか。
「団長、まだ残ってたんですか」
声をかけてきたのはルイだった。書類を片付けながら、こちらの様子を窺っている。
「ああ、ちょっとな」
「何か気になることでも? 今日はやけにぼーっとしてましたけど」
図星を突かれ、ナッシュは驚きを隠しながら答えた。
「そんなことはない。ただの書類疲れだ」
「んーそう…ですかぁ? まあ、団長がそう言うならいいですけど。」
「…ああ」
「それではこの書類を第2部隊に提出したら帰りますね」
「ああ、おつかれ」
ルイはさして深く追及することもなく、早く帰りたい気持ちいっぱいに荷物をまとめて退室していった。一人残された執務室で、ナッシュは椅子に深くもたれかかって天井を仰いだ。
考えるまでもない。名のある家の娘でもなければ、貴族でもない。街の鍛冶屋の孫娘だと聞いたのだから、それ以上詮索する理由もないはずだ。それなのに、あの瞬間の光景ばかりが繰り返し頭に浮かんでくる。
(別に、変な意味はない。ただの好奇心だ)
自分にそう言い聞かせながらも、やはり心のどこかで、その言い訳がどうにも薄っぺらく感じられることに自分でも気づいていた。
そんなことを考えつつ邸に戻ると、玄関先で待ち構えていた母のジョリーに捕まった。
普段ならうまく回避できたが…ルイの言うとおり、ということか。
「ナッシュ、聞いたわよ。ロディから縁談のこと頼まれたって?」
「……もう耳に入ってるんですか」
「当たり前でしょう、私が頼んだんだもの」
悪びれる様子もなく笑うジョリーに、ナッシュは肩を落とした。
「母上、俺は本当に急いでいませんから」
「そう言うけど、あなたたち三人とも誰一人結婚してくれないんだもの。お母様、そろそろ本当に心配になってきちゃったのよ?うちの子たちはどうしてこんなにモテないのかしらって。」
「グラン兄上やラルロ兄上にも同じこと言ってるんですか?」
「もちろんよ。順番なんてどうでもいいから、誰か一人でも前向きに決めてくれたら、私はそれだけでも幸せなんだから」
心からの本気の口調で言われ、ナッシュは苦笑するしかなかった。週末の夜会は、結局避けようがなさそうだ。
母上の他の話が始まる前にうまくかわし自室に戻り、ソファーに腰を下ろす。服のボタンをはずしながら、ナッシュは気づけばまたあの日のことを思い返していた。
しかし母上のお願い、のおかげでそれと同時に週末の事も頭をよぎる。夜会に出れば、着飾った令嬢たちが列を成すようにやってくるのだろう。名前も、顔も、大した違いもない彼女たちのくだらない話を一方的にするために。
はぁ。口には出さなくてもため息が出るもんだと少し苦笑いしてしまう。
そんなことよりも…ただ一度すれ違っただけの、名前も知らなかった街娘の顔だけは、やけにはっきりと思い出す。
(本当に、変な意味はない)
またも自分に言い聞かせるように呟いてみても、胸の奥に広がった種火のようなものは、その夜も結局消えることはなかった。




