苛立ち
邸に戻ってからというもの、ナッシュはずっと苛立ちを抱えたまま過ごしていた。
根も葉もない噂だけで、一人の人間が罰を受けようとしている。いや、既に受けたも同然だった。今、この時間も離れた港町の牢に囚われている、その事実がそれを何より物語っている。
自分が迎えに行こうとも何度も考えたが、それが何かを好転させるとは、到底思えなかったのだ。
散々考えた末、居ても立っても居られず、父の書斎を訪ねてみる。
扉の前で軽くため息を吐き、扉をたたく。まだ仕事中であろう父は少し驚いたような声で、ナッシュを部屋の中に招いた。
「父上、少しよろしいですか」
「珍しいな、お前がこの時間に来るとは」
書類仕事の手を止め、バードナが顔を上げる。目線をしっかり合わせ、努めて冷静な声で切り出した。
「例の、紫の瞳の件です。今、どうなっているのか、父上ならご存知ではないかと」
バードナは一瞬、探るような目でナッシュを見た。それから、静かに息を吐く。
「詳しいことは、まだ話せる段階にない。だが……」
少し言葉を選ぶように間を置いてから、バードナは続けた。
「あの記事の出所には、いくつか不審な点がある。裏で誰かが糸を引いている可能性が高い」
「不審な点、というのは」
「それ以上は、今の時点では言えん」
きっぱりとそう告げるバードナの態度に、ナッシュは奥歯を噛み締めた。それでも、こんな状況の中でも冷静さを崩さない父の姿に、内心では感嘆せざるを得なかった。
「いずれ、片は付く」
バードナは静かにそう言うと、再び書類に視線を落とそうとした。
だが、ナッシュはそこで踏みとどまった。どうしても、抑えられない気持ちがあった。
「父上」
「まだ何かあるのか」
「その……紫の瞳の彼女とは、俺は、個人的に知り合いなんです」
その一言に、バードナの手が、ぴたりと止まった。
「ゲンさんという鍛冶屋の孫娘で、名前はシャンティといいます。」
言葉を続けようとしたところで、バードナが顔を上げた。その表情には、これまでにない、何かに気づいたような色が浮かんでいた。
「……ナッシュ」
「はい」
「お前が言っている、その娘は――もしかして、おまえの.…」
「はい…その……お付き合いをしています。」
その一言に父としては嬉しいのか、少し表情をゆるめた。そしてバードナは何かが繋がったとでも言うように、深く息を吸い込んだ。
「なるほど、そういうことか……」
独り言のようにそう呟いたバードナに、ナッシュは思わず身を乗り出した。
「父上、何か分かったんですか」
バードナは、しばしの沈黙の後、真剣な眼差しをナッシュへと向けた。
「やはり今言えることはない。それからその彼女を迎えに行ったり、余計なことはしないように」
「しかし父上!」
「いいな、ナッシュ。たまには父の言うことを聞きなさい、」
父に優しい言葉で強く諭されると、いつもなにも言えなくなってしまう。
とりあえず父が動いてくれているという事実だけが、ほんの少し苛立ちを抑えてくれるのだった。




