2話『その頬は温かかった』
前半にトラウマの描写があります。
苦手な方はご注意ください。
優輝が目を覚ましたのは、岩がむき出しの何もない場所だった。
(体が軽い……)
肺を潰されたはずなのに痛みがない。折れたはずの指も動く。
「あ、やっと魂が定着した?」
「君は………」
艶やかな黒髪を足元まで伸ばした少女がいた。
耳の上には羊のような角、背中にはコウモリを思わせる皮膜の翼が生えている。
真っ赤な猫目が愛らしい少女は、人形のようにぞっとするほど整った顔立ちをしていた。
外見こそ10歳ほどの少女にしか見えないが、子供のような外見でありながら、成熟した大人の女性の声をしている。
その声に優輝は聞き覚えがあった。
「あの時の悪魔……」
「あくま……って何か知らないけど、私はダンジョン妖精。あなたをダンジョンマスターとして転生させた存在よ」
きょとりとするロリっ子に悪魔という言葉が通じなかったのは、この世界に存在しないからか、もしくは彼女がそれを知らないせいか。
自分をダンジョン妖精と名乗った少女は、「まあいいや」と言わんばかりに、不思議そうな顔を一転、にっこりと笑みを浮かべた。
「ようこそ我がダンジョンマスター。約束通りあなたの望んだ人も転生させたわ。その代わりダンジョンマスターとして……」
「っ!皐月!」
少女が驚いたように瞬いた。
目の前の少女を気遣う余裕などあるはずもなく、一気に覚醒した優輝の頭の中は皐月のことで埋め尽くされる。
「皐月っ、皐月っ、皐月っ!」
どこだと妻の姿を探す。
思い出すのはどれも血を流し、真っ青に血の気を失い、ぐったりとする皐月の姿だけ。
声が聞こえないのはどうしてだと、ほんの一瞬の間に疑問が浮かび、不安が過ぎ、目を瞑った皐月が隣で横たわっているのを見つけた。
「っ……!」
意識のない姿が、ぐったりとする皐月の姿と……一瞬だけ、重なって見えた。
優輝は息を飲み、背筋にぞわりと悪寒が走る。
「皐月!」
優輝は愛する妻に手を伸ばした。
手のひらでそっと覆った頬は、温かかった。
凍えるように冷たく青くなっていた肌は健康的な色を取り戻し、血を流していた紫色の唇は血の気が通った赤に戻っている。
薄く開かれたそこからは静かな呼吸の音が聞こえ、胸元は上下している。
「っ……」
震える手をそっと口元に伸ばせば、静かな呼吸と上下する胸に合わせて息が当たった。
「息、してる……け、怪我は……っ?!」
怪我は無いか、服を捲って腹を確認すれば、夥しく血が流れていたとは思えぬほど、柔らかな腹部に傷一つなかった。
人目を憚らず、袖を捲り、スカートの裾を捲り、傷が全く無いことを確認できて、優輝はやっと……安心できた。
(生きてる……)
皐月の顔を見つめる優輝の目が小刻みに震える。
「生き、てる……」
全身から力が抜け、優輝はその場に座り込んだ。優輝の目にうっすらと膜が張っていく。
優輝は顔をくしゃりとゆがめた。
「皐月っ!」
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
優輝の頬を伝った涙が、皐月の頬に流れ落ちた。
それを拭うように覆って、優輝は額をそっと重ね、目を閉じた。
「っ、皐月っ、……、皐月……っ、ぁ、ぁあ──!!」
優輝の愛する妻は生きている。
生きて、いるのだ。
確かにあの時死んでいたはずの皐月は今、息をして、命あるものの輝きを放ち、生きていた。
◇
「あ、あの……えっと、その……」
泣き叫んでいた優輝がようやく落ち着き始めた頃、少女が優輝にオロオロと声を掛けた。
優輝がどうしてそうなったのかが理解できず、声を掛けていいか迷いながら、遠慮がちに。
その声を聞いて、優輝は自分たち以外の存在がいたことを思い出した。
最後に皐月の頬をひと撫でして、優輝は少女に向き直る。
「悪い、情けないところを見せた」
ひとまず泣き続けて混乱が落ち着き、ようやく働き始めた頭に皐月のこと以外を考える余裕ができて。
「あ……」
優輝は働き始めた頭で、少女の言葉を遮り、あまつさえ放置していた事も思い出す。
「す、すまん!いきなり話を遮って悪かった」
自分が悪いと思ったら年上でも年下でも、年齢不詳の外見が少女のような悪魔でも、素直に謝る主義の優輝は、がばっと清く頭を下げる。
その勢いに面食らった少女はぱちぱちと瞬いて、おずおずと優輝を窺った。
「あ、いや、えっと、大丈夫? その人は、まだ魂が定着して無いから目が覚めるまでもう少し時間がかかると思うわ」
「目覚めないって訳じゃないんだよな?」
「うん、魂が肉体に定着すればちゃんと目を覚ますわ」
優輝は、ほっとした。
優輝があれだけ騒いでいたのに、一向に目を覚ます気配が無かったからもしかしたら……と不安があったがそうではなかったのだ。
「なら、大丈夫だ」
無事だと、そのうち目を覚ましてくれると分かっていれば、優輝はいくらでも待てる。
優輝は少女に改めてもう一度頭を下げた。
「さっきは話を遮って、放置までしてすまなかった。俺は橘優輝だ。えっと、あー……名乗ってくれていたら悪い。君の名前はなんて言うんだ?」
「契約者だからあなたたちの名前は知ってるわ。私はダンジョン妖精よ」
「ん?名乗った、か……?あ、いや確かに最初から俺たちの名前を言っていたな」
眉を寄せて記憶を探った優輝は死に際の記憶を思い出す。
(ダンジョン妖精って、あのダンジョン妖精か?まぁ超常的な存在だし……知っててもおかしくはない、か。ていうか、それ名前なのか……?)
「……ダンジョン妖精っていうのが君の名前なのか?種族名じゃなくて?」
「うーん、種族の名前って言われたらそうかもね。考えたこと無かったもの。あなたが聞きたい名前というのが、個体を識別すると言う意味なら存在しないわ」
「………」
優輝はどんな表情をすればいいのか分からなかった。
「それは……不便じゃないのか?」
「不便?何が?」
少女改め、ダンジョン妖精はキョトンとする。
本当に優輝の言葉の意味が理解できていないらしい。
「ダンジョン妖精同士で会う……かは分からないけど、その時に名前がなかったら相手を呼べないだろ?」
首を傾げていたダンジョン妖精が、「ああ」と納得したように頷く。
「あなたたち人間は名前を呼び合うみたいだけど、私たちダンジョン妖精にはそんな習慣はないの。誰に話しかけても、相手は自分に話しかけられたって分かるから。」
「そうなのか?」
それはまた随分と便利だな、と優輝は思う。
人間は名前を呼ばれても、話しかけられていることに気が付かないこともあるのだ。
そんな能力があったらどれほど対人関係が楽になるか。
(いや、関わりたくない相手に話しかけられた時とか気付かないふりができないし……どっちも一長一短か)
「もし俺たちが名前を考えたいって言ったらどう思う?」
「え?まあダンジョンマスターが居るダンジョン妖精の中には、ダンジョンマスターが付けた名前で呼ばれてる者もいるし、別にいいけど。あんたが考えてくれるの?」
少女のその表情と眼差しは、期待に満ちたというより、興味深げという表現がよく似合う。
優輝は苦笑いして首を振る。
「いや、考えるのは俺じゃなくて皐月だな。俺は名前を考えるセンスが壊滅的だから。ただまあ皐月が目を覚ますまでダンジョン妖精って言うのもあれだし、仮の名前を付けていいか?」
恋人時代に将来子どもが産まれたら、という話で挙げた名前の候補は、ことごとく皐月にも、そしてお互いの両親にも不評だった。
曰く、古風を通り過ぎて古すぎる。
曰く、キラキラしすぎて人の名前じゃない。
優輝の出す名前は両極端なその評価しか無かった。
誰に似たんだか、と言って父をチラ見した母の姿を思い出す。
人の出した名前の評価はできるのに、まったく……と言っていたから、もしかしたら優輝の名付け能力の壊滅さは父親似なのかもしれない。
「ふーん、まぁどっちでも良いけど」
ダンジョン妖精は全くもって興味が無さそうだった。
それを許可が下りたものと受け取って、優輝は彼女に名前を告げる。
「じゃあ、ちみっこ悪魔、で」
「良いわよ」
ちっちゃい子供の悪魔。
だから、ちみっこ悪魔。
一応、優輝は真剣に考えた。
子供悪魔というのはあれだからと捻って、ちみっこ悪魔にしたのだから。
もちろん本決まりではない。皐月が起きるまでの仮称である。それにしても酷いが。
突っ込み役不在のまま、少女改め、ダンジョン妖精の仮の名は『ちみっこ悪魔』に決まってしまった。
そりゃないだろって名前を付けた優輝でした。




