1話『死別の夜。寒い中で、一人にしたくなかった』
後半に事故や、死、流血表現があります。
苦手な方はご注意ください。
フロントガラスの向こうで、白い雪がヘッドライトに照らされて流れていく。
十二月二十九日。大晦日を二日後に控えた午後。
日本最長の高速道路と言われる東北自動車道は、帰省と旅行の車両で混み合っていた。
「次のサービスエリア寄れる?」
その渋滞に巻き込まれてしまった若い夫婦がいた。
助手席でブランケットに包まりながら座る妻の声に、優輝は視線を前方に固定したまま頷いた。
「いいよ。トイレ?」
「んー、それもあるけど……甘酒飲みたい」
「……さっきカフェラテ飲んでなかった?」
「甘酒は別腹なのです」
ふふん、と得意げに胸を張る妻、皐月の姿が視界の端に映り、優輝は思わず笑う。
「別腹は万能説じゃないからな?」
「でも旅行中ってカロリーゼロよ?」
「その理論、この前健康診断で否定されてたろ」
「もうっ現実見せないで」
むう、と頬を膨らませる皐月が可愛くて、優輝は口元を緩める。
チラッと、前方の車列が動かないことを確認し、優輝は助手席側へ少しだけ視線をずらす。
薄いベージュのマフラーに顔を埋める皐月の姿が助手席にはある。
サラサラと長い黒髪はマフラーによって少し膨らみ、おっとりとした印象を与えるタレ目は眠たげだ。
(美人は三日で飽きるなんて言うけど……)
優輝は大学の頃から10年近く一緒にいるのに、全く見慣れない。
綺麗だな、と毎日思って見惚れてしまう。
「……そんなに見ないで、恥ずかしい……」
「そんなに見てた?」
「……見てた」
微かに頬を染めながら笑う妻に諦めた優輝は、こっそりではなく堂々と見ることにした。
「いや、……今日も綺麗だなって。服も似合ってる」
そして堂々と褒めると、ますますマフラーに顔を埋めた皐月が、上目で優輝を見上げる。
「ほんと?」
「うん」
「ふふふ」
皐月は恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔を見るだけで、年末まで続いた地獄のような残業の記憶が吹き飛ぶようだ。
この旅行のためにと頑張った甲斐はあった。
代わりに普段分担していた家事の負担が皐月に向かってしまい、こうして眠そうにしているわけだが。
その忙しさも年始は多少は落ち着く。
予約した旅館は、客室露天風呂付きの山奥にある小さな秘湯だ。
皐月が何ヶ月も前から楽しみにしていた場所でもある。
「着いたらまず温泉入る?運転して疲れたでしょ?」
「うん、入ろう。長距離は本当に肩凝る」
「じゃあ温泉から上がったら肩揉んであげる」
「んじゃ、俺はその代わり髪乾かすかな」
「ありがとう」
ドライヤーは使わず、タオルでゆっくり髪を乾かす時間は、夫婦にとって大切なふれあいの時間だ。
優輝は皐月の綺麗な髪に触れる、このひとときが好きだった。
皐月もまた、穏やかな時間が流れるその触れ合いが大好きだった。
当たり前のように穏やかな会話が交わされる。
結婚して三年目。新婚夫婦というには少し長く過ごし、でも熟年夫婦と言うにはまだ足りない。
しかし恋人時代も含めればそれなりに長く過ごしてきた中で、一度だって妻といる時間に飽きたことなどなかった。
むしろ年々想いを募らせている気さえする。
(惚れた方が負けとは言うけど……)
「……優」
優輝の愛称が静かで落ち着いた声で呼ばれた。今は亡き両親と、妻だけが呼ぶ名だ。
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
唐突なお礼に首をかしげる。
「忙しかったのに、お休み取ってくれて」
「そりゃ取るよ。皐月との旅行なんだから」
お互いの両親が亡くなってから毎年続けている年末年始の温泉旅行だ。
多少無理をしてでも休みを取るのは優輝にとっては当たり前のことだった。
ふふふっと笑う皐月の顔は本当に幸せそうだ。
シートに身を預ける皐月に、つい片手を伸ばす。
優輝の手より華奢な手が伸ばし返され、指先が触れた。
そっと握り込むと、きゅううっとその目が嬉しそうに細められる。
ぱっちりと合った目に穏やかな愛情が灯る。幸せで胸がいっぱいだった。
暖房の熱で温まった車内に、穏やかな沈黙が落ちる。
カーオーディオからはゆったりとした音楽が小さく流れている。
そのすべてが心地良かった。
その何気ない時間が、どうしようもなく愛おしかった。
少しずつ車両が進み、電光掲示板の渋滞情報の影が見えてきた。
しかし、一瞬だけ強まった風でホワイトアウトが起こり、文字が見えない。
「……ん?」
視界が晴れる。
──3km先で事故 渋滞16km 120分以上
「全然進まないって思ったら事故かよ……」
「日が沈むまでに着けるかしら……」
「う~ん、どうだろうなぁ……」
(この雪だしスリップした車でもいたのかな)
優輝がそんなのんきなことを考えていた時、後方から嫌な音が聞こえた。
心臓がどくりと嫌な音を立てる。
隣の皐月を見ると、こわばった顔に不安を浮かべて優輝を見ていた。
「ゆ、優……この音、なに……?」
クラクションが鳴った気がした。
異様に長く、そして強く感じる甲高い音に、嫌な汗が背中を伝った。
優輝は反射的にルームミラーを見て……
「――ッ!?」
血の気が引いた。
優輝たちの車の後ろには数台の普通車と軽自動車。
その更に後ろから大型トラックが迫ってきていた。
しかし減速する様子はなく、トラック運転手の顔に焦りが見える。
「――皐月ッ!!」
考えるより先に体が動き、助手席へと手を伸ばす。
皐月が驚いたように目を見開く。
その手が皐月に届く前に──
──凄まじい衝撃が優輝を襲った。
耳をつんざく破壊音。
視界が激しく回転する。
エアバッグが炸裂し、肺の空気が一気に押し出された。
骨が砕けるような嫌な音が、体の奥で響く。
何かが砕け散る音がして……
──静寂が訪れた。
◇
ピーポー、ピーポー。
ウーウーウー――。
救急車のサイレンが響き、パトカーの赤色灯が雪を照らし、消防車の警告音が混乱を塗り潰す。
年末年始の帰省ラッシュで混み合う東北自動車道で、大規模な玉突き事故が発生していた。
雪による視界不良。
その中で起きたスリップによる横転事故で起きた渋滞。
そこへ突っ込んだ大型トラック。
いくつもの車が無残に押し潰され、折り重なるように雪の中へ沈んでいた。
「さ、つき……」
ひしゃげた車の中に、二人がいた。
けほっと優輝は真っ赤な血を吐き出す。
肺が潰れているのか、呼吸のたびに、こひゅーっこひゅーっと湿った音が鳴る。
(な、にが……)
何が起きたのか、今どんな状況に置かれているのか。
「さつ……き……?」
視界は白く潰れ、ガンガンと激しい耳鳴りが響く。
頭が混乱して何も分からない。
軋む体を動かし顔を上げる。
「……っ、き」
皐月を呼ぶ声がかすれ、代わりに喉からせり上がった鮮血が溢れ出る。
潰れたエアバッグの向こう側で……
「さ……つ、き」
──皐月の返事は、なかった。
助手席の皐月は、動かない。
破裂したエアバッグとひしゃげた車体に押しつぶされていた。
呼吸は止まり、胸は動かず、優輝の声に反応しない。
青白い顔、その口元からは血がぽたぽたと流れていた。
胴体からはあふれ出した夥しい量の血液が、先ほど優輝が褒めた衣服を真っ赤に染め上げる。
どれだけ呼んでも、もう返事はない。
優輝は虚ろな目で息のない妻を見つめ、力が入らず震える手を伸ばす。
その指先はあり得ない方向に曲がっていた。
それでもかまわず手を伸ばす。
ただ、もう一度だけ触れたかった。
お互いに両親を亡くし、天涯孤独の身となっても、隣にいてくれた人。
苦しい時も悲しい時も、決して離れず傍で支えてくれた人。
大事にすると誓って、幸せにすると誓って、結ばれたはずの最愛の妻が…………──
──目の前で冷たくなっている。
(その、最後が……これ、なのか………)
数時間前まで笑っていたはずなのに。
温泉が楽しみだと話していたはずなのに。
その笑みは、楽しそうな姿は……もう、ない。
さっきのパーキングエリアで、もう少し休めば良かった。皐月が疲れを心配してくれていたのに。
無理に遠出なんてしなければ良かった。
温泉に行くならもっと近場もあったのに。
次々と浮かぶ後悔が鋭く胸を刺す。
もしも、ああしていれば。
もしも、こうしていれば。
もしも――
考えても意味のない言葉ばかりが浮かぶ。
視界が霞む。
出血多量か、それとも内臓のどこかが機能を停止したか。
どんどん頭が回らなくなる。
優輝は己の死期が刻一刻と近づいていることを理解した。
体の感覚が薄れていく。
割れたフロントガラスから吹雪が吹き付ける。
凍えるほどに寒いはずだった。その寒さすら感じない。
(せめて、最後だけは……)
優輝は最後にたった一つ願う。
(寒さの中で、一人にしたくない)
エンジンも止まり、凍えるような寒さの中で優輝は妻を抱きしめようと手を伸ばす。
触れた頬は、まるで降り積もる雪のように冷たくて、柔らかく笑っていた顔に表情はない。
せめて苦しそうな表情がなかったことに優輝は安堵した。
苦しみながら死んだわけではないということだけが、ほんの少しだけ救いだった。
(ごめん……)
冷たい妻を、既に死後硬直が始まった妻を抱きしめる。
(ごめんな……)
涙が優輝の頬を伝う。
「さ、つき……ご、め」
何度も。
何度も何度も何度も、優輝は妻への謝罪を繰り返す。
また、優輝は真っ赤な鮮血を吐き出した。
大学で出会った日。
同じ趣味で意気投合して、気づけば毎日一緒にいた日々。
想いを告白し、恋人となった日。
大切な人たちと何気ない日常の中で笑い合った幸せな日々。
両親を亡くし、二人で泣き明かし、決して離れないと約束した夜。
プロポーズをし、涙を流しながら喜んでくれた笑顔を見た日。
たくさんの人が祝ってくれた結婚式の日。
特別なことなど無い何気ない毎日。
幸せだった記憶が、思い出の一つ一つが次々と浮かび上がる。
これが走馬灯なのだろうかと思いながら、優輝は悲しみと悔しさに歯を噛み締めた。
二人の人生と、続くはずだった何の変哲もない幸せな日々。
その突然の終わりを抵抗なく受け入れるには……優輝は、まだ若かった。
生に執着し、歩むはずだった未来に未練を抱くのは当然だった。
まだ生きたい。
もっと幸せに笑う皐月の姿を見ていたかった。
もっと皐月を幸せにしたかった。
もっと皐月と笑い合っていたかった。
もっと――。
外は雪だけが降っていた。
高く大きく響いているはずのサイレンの音が遠い。
微かに冷たい頬の固さを感じていた指先の感覚も、もうほとんどない。
世界がゆっくりと闇に沈んでいく。
『──見つけた。』
女の嬉しそうな声が、朦朧とする意識の中ではっきりと聞き取れた。
『あなたが私のマスターの資格を持つものね』
その未練を見出されたのは偶然か、それとも必然か。
『まだ生きたいのでしょう?なら私の手を取りなさい。』
それは未練が生み出した幻聴か、あるいは悪魔や邪神か、優輝には分からない。
それでも縋らずにはいられなかった。
「お、れの…つま、も……さつき…も、一緒、なら……」
『えっ?!そ、それはちょっと……』
「……なら……こと、わる」
失った妻を想って泣き伏し、後悔ばかりを抱き続ける未来が目に浮かぶ。
愛する妻を失った世界で、たった一人生きていく勇気はなかった。
『ちょ、ちょっ、ちょっと待って!!分かった!分かったから!!えーっと、二人連れていくのはちょっと消費ポイントが高くなっちゃうけど……あ、け、眷属!!もう一人をダンジョンマスターにするのは難しいけど、あんたの眷属としてなら連れていけるわ!!』
「どう!? どう!?」と騒ぐ女の声は騒がしい。
これが悪魔か邪神なんだろうか、と優輝はぼんやり疑問に思った。もっと恐ろしい存在を想像していたのに。
「……分か……っ……た」
どのような形であれ、皐月がともにあるなら優輝も文句はない。
『よし!あっ、んんっごほんっごほんっ。えー、契約はなった。私は橘優輝を我がダンジョンのダンジョンマスターとして、橘皐月をダンジョンマスターの眷属として迎え入れるわ。』
これが幻覚でもいい。
でも、願わくば──
死の間際に見た夢でも、幻覚でもなく。
たとえ悪魔との契約でも構わない。
訪れる代償や咎は全て引き受けよう。
だから……どうか。
──愛する妻には、笑っていて欲しい。
遠のく意識の中で、優輝はご機嫌に笑う少女の姿を見た。
(ああ………)
あれは、悪魔だったのか。
───ある日の日本の午後。
多くの人にとっては年末年始を控え、どこか華やいだ空気に包まれた変哲のない日常で。
しかし、一部の人にとっては日常が壊れた日。
死の間際に死よりも、妻と共にある未来を選び、人知れず悪魔の手を取った男は、静かに永遠の眠りについた………
──筈だった。
「ようこそ我がダンジョンマスター。約束通りあなたの望んだ人も転生させたわ。その代わりダンジョンマスターとして……」
しかしその眠りは妨げられる。
静かに、強引に。
まるで、運命を書き換えるように。
──とある異世界の、とあるダンジョンの妖精によって。
初めまして、皆様。
毎週 金曜日・土曜日・日曜日・月曜日の22:00に更新を行います。
どうぞよろしくお願いします。




