勇者ってのも悪くないよなぁ
「イリスゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……!」
イリスの背後からの怒鳴り声に思わず振り返ると、荷台の幌の中から銀髪の男が凄まじい形相で躍り出てきた。
男はそのままイリスに体当たりし、イリスとともに倒れ込んだ。鈍い音がイリスの身体の中から聞こえてきた。
「お前、ヴィル……ごぼっ……」
イリスの口から大量の血が流れ出た。男の手には刃渡り20センチにもなろうかというナイフが握りしめられており、それがイリスの腹に深々と刺さっていたからだ。
男はそれを引き抜き、倒れて動けないイリスの上に馬乗りになってさらに血まみれのナイフを突き刺そうとしてきた。
その瞬間、黒い影が横から飛んできて男は大きく吹き飛ばされた。ミャーリーだ。
「ひひ、ひひひひ……。やった、やったぞ! 俺はついにイリスを倒したんだ! 俺がナンバーワンだ。俺が一番強いんだぁぁぁぁ……あ、ぁ……」
男は街道の上でそんなことを叫んだ後、動かなくなった。
痩せ細り、顔はやつれ、髪はくすみ、目の下には隠しようのない隈ができていたが、その男はかつての第1勇者・ヴィルヘルムだった。魔王リリムによって能力のすべてを奪われた後、戦争終結によって赦免され、その後他の勇者たちとともに自由の身になっていた。
「やべ……体が……うごかねぇ……」
体からはどんどん力と体温が抜けている感じがした。おそらく、血が流れているのだろう。おかげで頭があまり働かない。
幸いにも、痛みは全く感じられなかった。もしかすると、もう痛みを感じることすらできなくなっているのかもしれなかったが、イリス本人はそこに考えが至ることはなかった。
黒い影がイリスに寄り添って腹を押さえていた。大声で何か叫んでいるが、耳の中で反響して何を言っているのかわからない。
「ミャリア! 早く来るにゃ! 勇ミャが大変なことになってるにゃ! どうして……どうして止まらないにゃ……!」
ミャーリーだ。彼女はメイド服が赤く汚れることも厭わずイリスの腹に手を当てている。止血しようとしているのかもしれない。そんなことをしても無駄だと言ってやりたかったが、もう唇すら動かない。
「勇者さん、しっかりするの。きっと助かるから、気を確かに持つの。お願いなの……!」
気がつけば上体が起こされていた。デルフィニウムが意識を失いかけているイリスに必死に呼びかけている。しかし、その声はもうろうとするイリスにはほとんど届いていなかった。
そこにメリアが駆けつけてきた。メリアは跪くやいなや、傷口を押さえているミャーリーの手の上から治癒魔法を使った。淡い光がイリスの全身を包む。
しかし……。
「だめ……魔法が効いてない……! 傷が深すぎて、私の魔法では……!」
「そんにゃ!? 何とかならないのかにゃ?」
「やってます……! 全力を尽くしてます……! でも……」
そうしている間にもミャーリの手の間からどんどん赤い血が流れ出ていく。それはさながら、イリスの命が失われていくように思えて――
「ああっ、お願いなの! 勇者さん、死なないでなの! 一生のお願いなの!」
「神様、お願いにゃ! ミャーの命をあげるから、勇ミャを連れていかないで欲しいにゃ! ミャーが代わりに行くにゃ……!」
「勇者さま、生きてください! お願いです!」
「勇者さん……!」
「勇ミャー!」
気がつけば上も下も真っ白の世界の中にイリスは立っていた。上も下も真っ白なのに、どういうわけか上下はよく認識できる。
イリスは自分の手を握り、広げ、上下左右を見渡してみた。次いで自分の身体をぺたぺたと触って慣れたこの十歳の身体を確認してみた。
手も足も動くし、腹からは血も出ていない。まるでさっきまでの出来事は夢だったかのようだった。
「なんか、あったけーな」
それまでの寒さから一転、イリスは心地良い温かさに包まれていた。ふわふわと心地良い多幸感がイリスを包み込んでいて、我知らず笑顔になる。
それは、あるいは仲間たちの想いだったのかもしれない。
この世界に勇者として召喚されてから今日この日までずっと、イリスは常に自分は異邦人で、この世界にとっては異物なのではないかと思っていた。
しかしこの瞬間に至り、自分はようやくこの世界の一員になれたのだとしっかり自覚した。
「まあ……勇者ってのも悪くないよなぁ」
最初はゲームみたいだと思っていたが、いつしか魔王を倒し、この世界に平和をもたらすことに真剣に取り組んでいた。それは思わぬ形でもたらされたが、何はともあれ使命は果たされたのだ。
「ゲーム……?」
イリスは右手を目の前に持ってきた。そして人差し指をスッと下に下げるジェスチャーをする。久しく忘れていたが、これは一般的なVRMMOゲームにおいてコマンドを出すしぐさだ。
今このタイミングならログアウトできないか試してみたのだが……。
「やっぱ、出ないよなぁ。まあそうだよな」
イリスは薄く笑うと、そのまま真っ白な大地の地平に向かってあてどもなく歩いて行った。
それは奇しくも、第999勇者イリスがこの世界に召喚されてちょうど一年後の春の出来事であった。




