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ヤオヨロズ──中道録  作者: 隼理史幸
信頼という木と、恨みという根
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……私は、『可哀想』なんだって。

 病院を出て、薄暗く茜色が差す街並みを歩く男女。ふたりのうち、守凪琥珀の表情は現在の空模様のように沈んでいた。


「…その、今日はごめんなさい」


 ほぼほぼ90度に頭を下げて謝罪をする琥珀。それを受けて九龍はかえって申し訳ないという気持ちに駆られ、普段のそれに戻るよう促す。


「…大丈夫だよ。なんだ、急に?」


 気にしてはいないふうに振る舞うが、実のところ九龍も気掛かりではあった。平時の穏やかな語りからは想像しにくい、棘のある物言いの根底がなにがあるか、少なからず疑問を抱いていた。


「…わたし、病院にはあまりいい思い出がなくて。それで、いつになくカリカリと…」


 溜め息混じりに語る琥珀。その心持ちには影が差しており、その暗さは面持ちにも誰が見てもわかるほどに反映されていた。


 ふと、琥珀のうつむいた顔を見て、彼女の身の上を思い出す。自分と変わらない年代であるが、学年は下。


 初対面の折に話したその内容を、彼は敢えて触れないでいたが、今日の過敏なまでの反応を見れば、それが憚りなく話せる内容でないことをいっそう明らかにしていた。


「…そういえば、琥珀さんが一年後輩なのって……」

「…はい。そういう、コトです」


 俯き加減のまま、彼女は普段の話し方とはうって変わって、呟くような、それこそ街往く雑踏でかき消えそうな声で答える。俯き加減の琥珀の面持ちと漂う空気の重さに耐えかね、頬をかきながら言う。


「…すまない。言いにくいよな」

「…いえ。その、心配してくれてありがとうございます」


 気を遣われていることを理解した上で、軽い深呼吸で呼吸を整えてから続きを話し始めようとする。


「ちゃんと、話します」


 道すがらふと通りがかった公園に立ち寄り、ふたり揃ってベンチに腰掛けようとする。これから話さんとする内容は立ち話で繰り広げるには些か長くなりそうだと双方が理解したためである。


「ほい。これ飲め」


 そう言って、いつの間にか近場の自動販売機から買ってきたスポーツドリンクを渡す。


「え…でも」と受け取ることを躊躇する琥珀に、九龍は肩を竦めると、彼女の鼻先に指を突きつけて言う。


「…そんな張り詰めた顔で話されてもこっちが辛い」


 指摘を受けて、徐に琥珀は自分で顔の筋肉に触れる。固まった顔をあらためて認識すると、スポーツドリンクを受け取り、ペットボトルのキャップを回し口をつける。


 余程喉が乾いていたのか、自身でも驚くほど素早く中身を喉に流し込む。あっという間に中身を飲み干すと、ドリンクの冷たさが身体に染み渡る感覚を確かめる。


「……ふうっ」


 陽が暮れてきたとはいえ、既に7月も中旬を迎えようとする時期であった。少々帰路を歩くだけでも汗がしばしば流れる。そんな身体にはスポーツドリンクがこの上なく効果的だった。


「すみません、わざわざ」

「気にするな。今から話すのは、あまり触れてほしくないことだろうし。」


 一息、安心の意図を籠めて吐く。冷えた飲み物が偏った方へ向かう思考を正し、自分がこれから説く事柄の再定義を促す。


 その前に、といって琥珀は鞄の中から自分の財布を取り出そうとする。九龍はそれを制止し、微笑を浮かべて言う。


「いいよ。奢りだ」


 抑揚の小さい語りではあるが、一方で何処か穏やかさがある九龍の言葉に、つられて笑みが溢れる。


「…ふふ、以前とは逆ですね」


 一瞬、九龍はピンと来ない様子の顔を見せたが、すぐにその意味に思い至ると、つい可笑しく思って、ピンと張った顔がほころぶ。


「そういえば、そうだな」


 流れる空気がにわかに和らいだ、と感じ入りつつ、それを今から壊す事を残念がる気持ちを抑えながら、予防線を張るように言う。


「…あんまり面白い話じゃないですよ」

「…わかってる。大丈夫だよ」


 深呼吸をひとつする。琥珀はこの動作で、心の奥にある見えないスイッチを意識的に切り替える。視界もにわかにクリアになることを確かめると、制服のリボンを取り払い、首元のボタンをはずす。


「ちょっ、何を…!?」

「──いいから、黙って見てて」


 真剣な面持ちのまま、彼女は襟元を引っ張り首から胸元までを見せる。微かに見える白い下着と形のいい胸に気取られ、頬を赤くして反射的に唾を呑む九龍。


 思わず身体を引いてしまう九龍を捕まえて、距離を保つ。目を逸らそうとする頭を無理やり固定させる。その視線の先には、外気に晒された肌が映っていた。


「……っ!」


 九龍はまたしても唾を呑む。今度は、慄く形で。鎖骨の辺りからを起点に、きめの細かい肌には不似合いな斜め一文字に大きな縫い跡が刻まれていた。


「ここだけじゃなくて、背中にもありますけど。見ますか?」


 とても自嘲ぎみに、半ば挑発的に問う。九龍はその問いに、迷いなく頭を横に振り答える。


「…やめとく。そういうのはよくない」


 女子の柔肌を目の当たりにする恥ずかしさよりも、傷跡のから来る痛々しさの方が勝った故の行為。見たくない、のではなく見せないほうがいい、というニュアンスの言葉に、琥珀は密かに感謝を抱く。


 ボタンを閉じると、九龍は緊張で肺に詰まっていた空気が一斉に吐き出す。息と共ににわかにリセットされた空気のなか、琥珀は再び問う。


「…今更ですけど、本当に、聞きますか?」

「…知りたい、って気持ちもある。けれど、」


 けれど? と琥珀が小首を傾げる。すっかり熱が落ち着いた九龍は、その眼差しを外さずに息を吸い込む。


「話して、ちょっとは楽になるなら、とも思ってる」

「…まるでカウンセラーみたいですね」


 苦笑する琥珀。どうにもくすぐったくて仕方ない、と言いたげに肩の力を緩める姿を受けて、今度は九龍が小さく首を傾げる。


 にわかに和らいだ空気のなか、琥珀は深呼吸を行い身と心も換気する。これから口にする事柄は、彼女もあまり平静を保っていられる自信がなく、自分なりのスイッチの切り替えを必要とした。


「…私が事故に遭ったのは、今から三年前です。」


 開口一番、語り口は重々しく、聞き手に回っていた九龍も自然と面持ちが堅いものに変わって、唇の動きを注視していた。


「…何が起こったかは、正直よくわかりません。気がついたら、私は血だるまで地面に転がってました」

「……ッ」


 九龍は脳裏に過る、目の前の少女のショッキングな姿を幻視する。一瞬目を伏せる様を見て、頭を振り大丈夫だと告げる。


「少し大袈裟ですよ。骨は折れて、何かの破片が身体を切り裂いてましたけど、出血が酷かったくらいで命に別状はありませんでした。」


 十二分に重体じゃないか、と言いかけた口をつぐんで、九龍は先を待つ。


「当然、入院待ったなしです。意識も、丸一週間目覚めなかったそうです。…起きたら、それくらい寝てたのかー、程度の認識でした。」


 琥珀の口振りは軽い。しかし、敢えてそう言い放ってはいるのでは、と汲み取っていた九龍は、無意識の内に下唇を噛み締めていた。


「でも、それからはキツかったですね。お医者さまや看護士さんしか入ってこない、真っ白な鳥籠。……不安で、不安で。正直、とても怖かった。」

「怖い…? 不安で、じゃなくてか?」

「確かに、不安ではありました。けど、それ以上に誰もいないのが、あんなにアタマがおかしくなりそうになるのが怖かった。自分がこんなに寂しがりで、ちっぽけだったのか、って。」

「……」


 九龍はただ沈黙し、耳を傾けるしかできなかった。安易な同意は、否定よりも鋭い刃に変わる事を理解しているからだ。


「一年経って、リハビリも終わって。いざ学校に復帰したら、私は少しだけ歳上だった。…みんな、興味津々だったなぁ……」


 そう語る琥珀には喜びなど微塵もなく、むしろ刺すような疎外感が、口伝される九月の胸にも深く染み渡っていた。


「…『興味』はあっても『理解』はされない。みんな頭いいんですから、ちょっと踏み込みすぎると空気が重くなるのをわかってるんです。」


 まあ、私は別に気にしないんですが。と語る琥珀。それを口にする直前、目線を足下に落としていたことを、九龍は見落としてはいなかった。


「…ああ、今は大丈夫ですよ。クラスにも、ちゃんと接することができる間柄の人は何人もいます。その、普通にノート見せあったり、おしゃべりしたり、ご飯食べたり、クラスメートとしては受け入れられてます」


 九龍も視線を自然とやや下に落とす。『クラスメート』としては受け入れられた、と聞き安心よりも別の感情が湧き胸に渦巻いていた。


「でも、夢枕に、たまに思い出してしまうんです」

「…何を、だ?」

「……私は、『可哀想』なんだって」


 その一言を告げる彼女の瞳から、見えない滴が落ちていた。

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