…だから、少しムカッときたんです。
──空気が重くのし掛かる。にわかに染み入る暑さに、膝へ滴り落ちる汗に気がつくまで暫しの時を要する程に、九龍はこの沈殿する空気に呑まれていた。
「…だから、少しムカッときたんです」
「…ムカッと?」
九龍はすっとんきょうな返しをしてしまう。つい腰を低くして身構えていた彼からすれば、これまでの空気にはやや似つかわしくないワードが飛び出たことによって、つい鸚鵡返しで訊いてしまったのだ。
一方の琥珀は、徐に立ち上がり、先程受け取ったものと同じ飲料水を自販機から購入すると、それを一気にらっぱ飲みする。
あっという間に中身を半分程吸い上げ、一息吐いて小休止を終えると、再びベンチへ腰を降ろし、心配そうに面持ちを伺う九龍へと向き直る。
彼との間に流れる、重苦しい空気など知ったことか、と言わんばかりに息を吸い込んで、肺の、腹の奥から抱え込んでいたモノをぶちまける。
「そうですよ。本出さんでしたっけ? 何ですかあの子! 冷たいんですよ! なんかひと目でピンときましたよ。いやーな奴って!」
先程までの、鉛のような重い雰囲気は完全になぎ払われた。琥珀の語りはいつになく、それこそ九龍は今まで見たことのない、拗ねた子供のような言い回しに変わる。
「だいたい、友達を名乗るなら、言うべきコトあるでしょうが!あんなに落ち込んでる子に、なんか、安心できるような一言を言ってあげなよ。って思うわけですよ!」
「…そ、そうだな」
「そうですよ! あーいうのは大抵同窓会には絶対に出ないタイプです。対人関係はうすーくひろーくを地で行く、自分中心に世界が廻ってるって思ってる、勘違い女ですよ!」
「お、おう…」
「そのくせ、あーいうのをやれ『ミステリアス』だの『クール』と勘違いする輩の多いこと! あれは『はくじょーもの』って言うんです!」
琥珀は一言一言を、有り余る力を込めて発し、その度に顔を寄せ、九龍は退き、その繰り返しで彼女の力説にただただ圧倒されるのみであった。
一旦勢いをセーブするために、琥珀は残りのペットボトルの中身を飲み干してクールダウンする。そして、先程よりは落ち着きのある口調で続ける。
「…さっきも言ったかもですけど、あーいうのに身を置かれると、途端に人の本性っていうのがまざまざとわかるんですよ」
「あーいうの…本出胡桃の、今の状況だよな?」
琥珀は深く、それでいて忌々しげとも取れるように頷いてみせる。実体験に基づくその態度に、九龍もひとまずは聞き手に徹する。
「はい。本性、なんて偉そうに言いますが、だいたい同じ反応です。どうしたらいいかわからないから、まずは同情的に振る舞うんです」
「…同情、か」
「可哀想、って大体の人は思いますよ。それは、まあ仕方ないです。人の痛みなんて、口で言ったって100%伝わりません。極論他人にはわからないですから」
その言葉に、九龍は否定を述べようとする。しかし、彼女の目がそれを許さなかった。不用意に触れていいものではないと、無言で告げていた。
琥珀の方も、言葉を呑み込んだ事に少なからず感謝していた。言葉だけの慰めや気休めは、言われる側にはかえって毒になる場合がある、と彼女はその身で思い知っている。
無意識の内に、衣越しに傷跡を細い指でなぞりながら、また琥珀は胸中に渦巻くものを吐き出す。
「…彼女、本出さんはウソ吐いてます」
「…ウソ?」
「お見舞いなんて行ってないんですよ」
その言葉につい首を傾げる九龍。いきなり嘘を吐いていると言われ、そしてそれが正しいと仮定した場合、嘘など吐いていったいなんのメリットがあるのかを掴みかねていた。
「ウソなんて吐いてどうしようって?」
「そんなのはわかりません。けど、会わなかったってことは、少なからず胡桃さんと何かあったんでしょうね」
「何かって、何さ?」
「…なんとも言えません。少なくとも、何かを隠して、その上であの娘はお気楽なキャラを前に出してる。…気取ってるんですよ。裏表があって、その落差が激しいタイプです」
いつになく剣呑な雰囲気でまくし立てながらも、滑舌よく言葉を紡いでいく琥珀。言い分に耳を傾ける九龍も、言われてみればといった様子でつい頷いてしまう。
「よくそこまでわかったな。俺には、ちょっと様子が変なくらいしか」
「恥ずかしながら、相手がウソ吐いてると肌が妙にピリピリするといいますか」
「…女のカン、ってヤツか?」
「経験則も、ですよ。兎に角、それ含めて、今年イチ腹が立っているんですよ、私!」
またにわかに熱が籠る。熱帯夜の予報の出た今日の外気も合間って、手のひらに汗が溜まる。
「私には、今の胡桃さんの気持ちが痛いほど伝わります。友達の顔を見るだけでも、それは大分和らぐんです。だから、友達を名乗りながら、ああいう態度を取られたのが心底受け入れられなかった…って訳なんです」
「……そうか」
顎に指を添えて、どこか納得がいったふうに頷く。琥珀が何に、どうして怒りを露にしていたのか。その根源を掴むと、自然と口元が緩む。
「…どうして笑うんですか?」
九龍の態度を怪訝に思い、琥珀は唇を尖らせる。手を振って否定しながら、九龍は一呼吸置いてから話し始める。
「いや、違うんだ。なんていうか…、優しいんだな、琥珀さんは」
一瞬、目をぱちくりとさせる琥珀。が、すぐにその目を細める。
「…今口説きますか?」
一瞬、琥珀が何を言っているのか理解しかね、九龍の表情は固まる。が、瞬きひとつする間にその意図を把握した途端に顔が上気し、動揺のあまり僅かに後ずさる。
「違っ…! んなつもりは…」
「…冗談ですよ。続けてください」
微妙に茶々を入れられて、今度は九龍が唇を尖らせる。軽い咳払いで雰囲気を整えると、彼はあらためて言葉を紡ぐ。
「…その、俺は琥珀さんは何であんなに怒ってたのか。ちょっとわからなかったんだ。でも、さっきのでようやくわかった。他人のために怒ってたんだな、って」
──柄にもないことを言っている、と九龍は言葉を話し終えた後に内心自嘲する。琥珀も、目の前の歳下の先輩の、普段とは異なる言動にむず痒くなるものを覚えていた。
「…いえ、やっぱり自分のためです。単純に、ムカついただけです」
そう語る彼女の面持ちは蟻が列をなす地面に向けられ、今一つスッキリとしたふうではなかった。むしろ、小さく燻る恥ずかしさが、表情に微かな影を生んでいた。




