マジで苛つくから。
「あっ」
「あーっ」
九龍との話を終え、いつものようにバスに乗り込んだ胡桃を、意外な顔ぶれが出迎える。
「リンゴがバスなんてねぇ。隣、いい?」
「うん、いいよ。ちこうよれ」
「んじゃ、お言葉に甘えて」
同じように小さく手を挙げて振り挨拶を交わす。やや閑散としたなか、胡桃は自らの知人の腰掛けている出入口近くの座席のとなりに座る。
「どうしたの、リンゴ? バスなんて珍しいじゃない?」
「ちょっと会瀬にね」
「…会瀬?」
「デートよ、デート」
「ちぇーっ、羨ましい」
したり顔の友人を前にして、冗談混じりに肩を叩く胡桃。
「おっ、来た来た。ナニナニ~?」
嬉しさで指が弾む本出。胡桃はその仕草を、羨望とは別にさも意外そうに見ていた。彼女のキャラクターの持つイメージとは、やや離れているふうに映ったからだ。
「カレシ? 歳上イケメンだっけ? 勝ち組よね~?」
「そこまでじゃないよ。けっこう甘い所あるし、アッチのほうも草食だから、今日だってわたしがリードしなきゃダメだし」
「……アッチってドッチ? ボール?」
目をぱちくりさせて、邪推なしに訊ねる胡桃。それを受けた本出は一瞬きょとんとした顔をし、次の瞬間には呆れを多分に含んだ溜め息を漏らす。
「…わかんないならいいや」
「…よくわかんないけどむかつく」
風船のように頬を膨らませる胡桃。そんな彼女をあしらいつつ、手のひらの振動に目を配らせる。
「っとと、もう一通。忘れずに…と」
話している最中に本出が視線をすぐに手元に戻す様を見れば、胡桃はやや不機嫌な心持ちになり唇を尖らせる。
「ちょっとー、人と話すときくらいケータイ見るのやめなよ?」
「ちょっ、画面見ないでよスケベ~」
「よいではないかよいではないか~」
冗談めかしつつも、胡桃は手に握られた四角の機械を没収しようとする。本出は抵抗するも、やがて彼女の携帯端末に指先が触れ、画面を覗こうと身を寄せられると、流れるおちゃらけた雰囲気が一転する。
「──ホントにやめて」
じゃれ合いのそれではない、本気の拒絶。親愛の情が輪郭すら窺えない、氷のような眼を見れば、その度合いを厭でも理解してしまう。
「…ご、ごめん」
停車する度に流れ込む、息苦しさを覚えるような外のぬるい空気を忘れさせる程の冷たさに触れ、握り拳二つ分は距離を離し、おずおずと頭を下げる。
「…あんましつこくしないでよ? マジで苛つくから」
吐息はさながら吹雪のように、耳にする者の心に震えを覚えさせる。流れる空気が冷えきると、外の景色を一瞥した本出は席を立つ。
「…そろそろみたい。先、降りるね」
席の近くに設置されたボタンを押し、次に降りると伝える。
「…あの、リンゴ…」
「じゃあね」
にわかに胸中へ侵食する罪悪感を抱えたまま、何とか本出を引き止めようとする胡桃。しかし、彼女は振り向くことなく、バスが止まるまでを待たずに席を立つ。
「…っ、とと」
停車の際生じた揺れに、本出の足元がふらつく。近くにあった手すりを掴み姿勢を保つ。が、もう片方の手に収められた携帯端末がするりと落ちていく。
「…っ!」
本出の携帯は、まるでスケートリンクの上にいるように、車内を滑り落ちていく。やがて運転席脇に止まると、同じタイミングでバスの扉が開かれる。
「携帯、落ちましたよ?」
脇に落ちていたそれを拾い上げたのは、彼女らが乗っていたバスを運転していた、初老の男性だった。
「画面が割れなくてよかった」
柔和な笑みを浮かべ、皺だらけの手で落ちた携帯を渡す。対して艶のある肌の手は、それを半ばふんだくるように受け取ると、運転手の目と携帯の液晶を交互に観察する。
「…? どうかしたかい?」
明かりが点いたままの携帯端末と、きょとんとした顔の運転手。疑心暗鬼の眼を解くことなく、彼女は腰を上げる。
「──どうも」
礼を述べるようでいて、その声色から汲み取れる本出の態度は、とても感謝の意が見えない刺々しいものだった。彼女はそのまま開いたドアから飛び降りるようにバスから去っていった。
「どうしたんだろ、リンゴ…?」
遠ざかっていく後ろ姿を、胡桃は胸の奥の不快なざわめきを覚えながらも、それを黙って眺めることしか出来なかった。
(…携帯に、何が映ってたんだろ?)
答えを訊こうにも、相手がその場にいない。仕方なく、チャットでメッセージを送るも、既読は着かず彼女は項垂れるのみであった。
バスの発車する様を隠れて見届けると、本出林檎はいてもたっていられずその場に踞ってしまう。
「──っ!!」
──見られた。はっきりと見られた。二人にも。反芻するミスと、強烈な動揺と羞恥、後悔。あらゆるマイナスの感情が濁流となって襲い掛かり、目の焦点がぶれにぶれて吐き気すら催す。
「ホントに見られた? アレを? ワタシの、アタシの、アレを!?」
一人称すら定まらないほど、彼女の脳内は混乱に満ちていた。直後、チャットの通知が届けられる。他でもない、仏味胡桃からだった。
本来ならば、その内容を見て一安心するところである。しかし、今の彼女は沸き立つ熱によって頭の正常さを容赦なく奪われ、取るべき行動の道筋を誤らせる。
「嘘つけー! あの娘は嘘がヘタクソなのよ! んな気遣いしてる時点でアウトだよ!!」
真っ暗になりつつあるバス停近くで、悲鳴が木霊する。
「…見られてませんように、見られてませんように……!」
神頼みすら躊躇しない、その悲惨なまでの混乱の坩堝に落とされた彼女の姿は、まばらな足並みにも奇異の目を受けることは避けられなかった。
一人の紳士が、その姿を心配して声をかけようと歩み寄る。
「あの、お嬢さん? 踞って、だい──」
「ダイジョウブです!!」
心臓を破らんとする勢いで叫ばれ、紳士は生返事でその場を後にする。あまりに異常に映る手合いに、関り合いを持とうとしないことは別段不思議でもない。
本出自身も、それを多少なりとも把握できる程度には落ち着きを取り戻していた。噎せ返るほどの深呼吸で無理やり平静を取り戻すと、ばっと立ち上がる。
「……帰ろう。明日、ちゃんと話しておかないと」
帰路に着くその足取りは駆け足ぎみで、一刻も早く家のドアを開けて落ち着きたい、という気持ちが加速を生んでいた。
「相談、しないと。あの人にも……」
徐に、画面を視界に映す。そこには、一件のメールと、添付された画像が映し出されていた。
自分と、もう一人。若い男性のツーショット。そして、もう一枚の添付された画像は、本出林檎自身の、蕩けたような顔を写した一枚だった。




