そんなの、決まってるだろ。
そのように沈み込む様子を見ていた九龍は「そうか」と呟くと、目を伏せ軽く頭を下げる。それが意外に思ったのか、顔を伏せ気味のまま、目をぱちくりさせる胡桃。
「なんで、頭下げてんの?」
ちらりと顔を上げ、その行動の是非を問う彼女に、九龍は顔を指してどこか気に掛けるような語り口で言う。
「気づいてないのか? お前、さっきより顔色が悪くなっているぞ。…流石に嫌なことを思い出させてしまったかと思ってな。」
再び頭を軽く下げる。それが胡桃にとって気持ち悪くて堪らなかった。彼に心配させた、というよりも、嫌いな相手にこうも容易く頭を下げる様子が、腰の低いように見えたからだ。
「…アンタ、なんでそんな風に振る舞えるのよ?」
「? どういうことだ?」
胡桃の口から溜め息がどっと出る。しらばっくれているのか、と彼女は邪推していた。マイナスの感情を一気に吐き出した反動で、普段はきつく踏み込んでいたブレーキも緩くなる。
そんな事にまったく気が回らないほど、胡桃の内から言い知れぬ忌避感がこみ上げてくる。踏み込みの甘いブレーキでは抑えが効かなくなっていた。
「…そうやってキライな相手に、さも当然みたいに頭を下げられるのが、気に入らないって言ってんの。オトナぶってんじゃないわよ。」
目の前の相手への、強い苛立ちを、湧き上がる気持ちの悪いものを、吐き捨てるように言い放つ。それを聞いて九龍は、徐に頭を上げる。
「俺が大人ぶってるだと?」
彼の目を見て、胡桃の背筋に冷たいものが走る。先程まで話していた控えめな口調の少年と、目の前のそれとは別人なのではと錯覚さえしていた。
それほどまでに、青柳九龍の声にはとても強い怒りのようなものが籠っていた。それらを抑え込む為に息を整え、これから述べる言葉を組み立ててから、彼は口を開く。
「悪いが、俺はそんなにお利口さんじゃねぇ。しつこく言うようだがな、俺はお前がどんな目に遭ったって気にしない。俺の用はお前が知っていることだけだ。」
「っ…」
圧され気味の胡桃を前に、九龍は小休止と言わんばかりに、おかわりのブラックコーヒーを飲み干し、ついでに端に置かれていた、時間が経ってグラスが水蒸気で濡れたお冷やを一気飲みしてから、話を再開する。
「…お前と、犯人になんの因果があるかなんてどうでもいい。それは当人同士でけりをつけることだ。よその人間がとやかく口を出すべきじゃない。何度も言っていることだ。」
では、と再び胡桃の方が問う。額には皺が寄り、訝しいという気持ちを隠そうともしない。
「……じゃあ、なんなの。なんでアンタは、わざわざ首を突っ込むのよ?」
「そんなの、決まってるだろ。」
「…何よ?」
簡単だ、という風に言う。その口は、とても雄弁に語る。
「俺は、今の日常が気に入ってる。それを邪魔する、気に食わねぇ野郎が湧いてきたから、そいつをブッ潰したいんだよ。」
また胡桃は自身の目をぱちくりとさせる。彼女が今目にしているその顔は、とても正義感で動くような善良なそれではなく、むしろ自分の領地を侵され怒るマフィアのように映る。
「そんな、理由で…?」
思わずそんな言葉が、彼女の口から溢れ出していた。訊かずにはいられなかった、という心持ちが噴き出す様を鑑みつつ、自らとは対照的な目をした相手に、毅然とした態度のまま応える。
「そうだ。俺は、自分が善しと思った事をしているだけだ。それ以外に意図なんかない。大一、腹芸なんて柄じゃねぇ。」
その目から、逸らす事ができなかった。彼女は、今まで自分が見た覚えの無いものを目の当たりにしていた。
「お前への質問に謝罪するのも、今回好き勝手やってるバカをぶちのめしたいのも、自分の胸の内から湧き上がる、よくわからん衝動を善しと思ったからに過ぎないってだけだ。」
「衝動を、善しとする……。」
徐に胸に手を当てる。薄い胸部越しに、心臓の音が手のひらに伝わる。それは不快な胸騒ぎではなく、憧憬にも似た感情が沸き立たせる、微かな興奮の高鳴りだった。
「あーだこーだ言ったけど、要は気にくわないだけだ。一方的に好き放題やってる、知恵者気取りのアホの面に、思いっきり泥を塗りたくってやる。そして腹の底から笑ってやる。そんだけだ。」
そこまで聞いて、今の今まで圧されっぱなしだった胡桃は、つい笑みを零してしまった。色々と大層な事を言っておいて、結局のところごく個人的な嫌がらせが目的だったと聞かされれば、どうにもおかしくてたまらなかったのだ。
「…アンタ、意外と性格悪いのね。」
「ハッ、いじめっ子には敵わねぇよ。」
皮肉で切り返され、胡桃は「その通りかも」と自嘲ぎみにまたひとつ溜め息を吐く。肺から喉を通り、外へと出る感情は、不思議と気持ち悪さとは異なる、穏やかさが多分に含まれていた。
「…なんか、変なカンジ。アンタみたいなの、トモダチにいなかったからかな。正直言って、青柳ってあたしのキライなタイプ、の筈なんだけど。」
ふと、脳裏に自分の『トモダチ』の顔がいくつか思い浮かべる。学校で交わす他愛のない会話、休日のお出かけ。目の前で三杯めのコーヒーを啜る彼と交わすそれとは、快さでは比べるべくもなかった。
だがしかし、その心には存外、悪いものではないと確信できるものが満ち、自然と口元には微笑が浮かんでいた。
「…でも、考えてみれば、こうやってもやもやした、よくわかんないものを叩きつけられるのも、トモダチにいなかったのよね。」
「…急にしおらしくなるな、気持ち悪い。」
「……うるさいわね、このヤクザ男。」
どこかまんざらでもない、という風に呟くと、彼女は手元のグラスを手に取り、溶けかけの氷ごと口に注ぎ込む。気がつけば、形のない不安感はどこかに消え失せていた。




