『煙』19.煙の中で溶け合う
19.煙の中で溶け合う
どれほどそうしていただろう。
彼の震えは止まって、その肌にも温かみが戻ってくる。
最初は壊れ物を扱うように触れていた彼の手は、今は私の腰と背中に置かれている。
優しく撫でる手付きが心地よくて段々とふわふわした気分になってくる。
力が抜けていく。
ザクト様に身を凭せ掛けて私は彼の首もとに顔を埋めた。
「くすぐったいよ。ショウエン。」
前髪が掠れてしまったようだ。でもさっきみたいな固い声じゃない。
いつもの愛嬌のある声だった。私は安心して、そのままでいると彼は動いた。
私を持ち上げるように、いや実際に持ち上げる。
「わっ」
全身を柔らかい、羽毛の布団に包まれた。
傍らにあったベッドだ。ザクト様のお母様が使っていたものだ。
10年近く使っていない筈なのに、立つ埃の量が少ない。
こまめに掃除をしているのだろう。
恐らく、部屋の主の事を考えるとザクト様自身が行っているのだろう。
そんなことを考えると天井が目の前に広がった。
仰向けにされたのだと呆然と考えていると、不意に首もとが涼しくなった。
服の襟元のボタンが外されて開いているのが分かった。
それをしているのは勿論。
「ざ、ザクト様!?何をっ」
「んー?何って、君を可愛がろうとしているだけさ。」
「なぜ服を脱がせる必要があるんですか?」
「君に触れたいから。」
胸元が開き、彼の眼下に私の肌が曝された。
彼は眼を細めて私の顔、のど元、鎖骨、そして胸に視線を滑らせる。
この貧弱な身体を見てどこが面白いのかとも思う。彼を見るのも何だか恥ずかしく思い天井に視線をやる。
夥しい数の血痕。
ザクト様の父と母のものだというそれは、死んだ後もこうして混ざり合って現在に残っている。
彼がこの部屋を残しているのも、こうして整えているのも、もしかしたら両親の思い出を残すためなのかもしれない。
だとしたら、今ここに私が居てはいけない。彼の思い出は彼のモノだ。
私がその中に居て良いはずがない。
「ザクト様、ダメです。ここは…」
「なんで?誰も来ないし、ベッドもある。その他の準備もある。」
彼の指が私の膝を撫でる。触れられたことがあまりないそこの刺激に私はくすぐったさを覚えた。
そのまま指は私の太ももをなぞり、スカートの中に伸びる。
駄目、それ以上は。
「駄目なんです。だってここはあなたの大事な場所です。」
後退るように身体を動かして上体を起こす。ずり落ちた服を引っ張ってどうにか胸元を隠すけれど、殆ど意味を成さないだろう。でも露わになった乳房を隠さないほど羞恥心がないわけではない。
「別に、ただ無くす意味も無いから残しているだけだ。気にしないでいい。」
「でも……」
迫ってくる彼を制するために片手で彼の胸を押す。勿論、私の力なんて弱いモノだけど。
最初は笑っていた彼の顔が段々と不機嫌になっていった。でもそれが表面上のモノだというのも直ぐに分かったのだけど。
口を尖らせて文句を言う姿はまるで駄々を捏ねる子供のように見えた。
「…お預けなんて酷いよショウエン。ま、君が嫌がるなら場所を変えるまでさ……ゆっくり出来る場所に、ね。」
悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を更に近づけてくる。
「でも、味見くらいは必要だよ。ショウエン。後で美味しく頂く為にね。」
青灰色の瞳がこれ以上ないほど近付いて、唇に感じたことのない感触が訪れた。
柔らかくて少し湿ったもの。そして少しだけ苦い味。
これは彼の唇だ、と頭の中で冷静に判断する自分がいたがどう反応を返せばいいのか考え倦ねる。
だって、こんなの知らない。こんな風に誰かとキスをするなんて初めてだった。
「はっ」
長い口付けから解放されて私は息を吐く。
緊張と軽い酸欠で少しだけ目眩がする。彼は、相変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべている。
大人の余裕、というものだろうか。
私が呆然としている間に彼は私のはだけた襟元を直し、釦を交い、スカートの皺を伸ばして下さった。
脱げていた靴も、まるでシンデレラにガラスの靴を履かせるが如く優しくゆっくりと戻していく。
「自分で、出来ます。」
「俺がしたいんだ。」
最後に私の膝にキスを一つ乗せて私の手を取って引く。
ふわふわしたベッドから床に降りる。
立っている感覚はあるのに頭の中はまだ浮いているようだ。
リビングに戻る。
窓からの日差しは既にオレンジ色に染まっていて、日は沈み掛けている。
ネオン灯も幾つか瞬き始め、夜の街がその貌を見せ始めいている。
「ここからの風景は、やっぱり変わらないな。でも、ショウエンが言うように俺達が居るべきところではないね。」
そう、あなたが居るべきはあの高い塔の上。この街の中ではなくこの街を見下ろす場所にこそ、あなたはふさわしい。
彼女は俺についてきてくれる。
ただ一人の俺と言う人間に。
悪魔の落とし子。血も涙もない男と人は俺を呼ぶ。
俺の部下でさえ、その瞳の奥には恐怖が覗いている。
父と母でさえ俺を恐れていた。
俺を俺として見ているのは兄と姉、そしてディルだけだった。
だから、ショウエン。
君だけが俺を。
車をタワーに走らせる。
予定ではこの後レストランで食事をとる予定だったが、そんなのはまた後だ。
今は別のものが食べたくて仕方がない。
高級料理よりももっと甘く、食べ堪えのある美味しい美味しいもの。
それは今俺の隣に座っている可愛らしい女の子。
恐らく、まだ男を知らない純潔の乙女。
一息に全てを奪うのは勿体無い気がするが、既に俺の中に抑えようもない劣情が渦を巻いている。
今まで仕舞い込んでいたその情欲が、さっき解かれてしまったのだ。
可哀想な可愛い俺のショウエン。
君は今から悪い男に蹂躙されてしまう。
その柔らかな肌も、しなやかな指も、すらりと伸びた美しい脚も、宝石のような眼も、全て俺が奪う。
逃がしはしない。
車を地下駐車場に停めて、高層階直行のエレベーターに乗り込む。
目的階を押すと、扉が閉まるのも待たずに俺は彼女の唇を奪った。
驚いた彼女は反射的に俺から逃れようとするけど、無駄だ。
体格差のお陰で彼女を壁との間に容易く封じ込めることが出来るし、放すつもりもない。
部屋までの前菜をじっくりと味わうことに決めたのだから、。
「うっ、ざくと、はっ」
言葉を発しようと開いた口に舌をねじ込むと彼女の身体が大きく跳ね上がった。
縮こまり奥に逃げる彼女の舌を絡め取り、撫で上げ、吸い上げる。
息苦しそうな彼女の声にさえ興奮する。
自分で立つのも困難になってきたみたいだから、腰に手を回す。
優しく撫で上げそれとなくスカートをたくし上げていく。
持ち上がった裾から手を差し入れると滑らかなサテンの肌触り。
俺が選んだ下着だ。
今は見ることが出来ないのが残念だが、後で部屋でじっくり見ることにしよう。
下着をなで回しているのにも気付いたらしく、力の入らない指で俺の指を外そうとする。
殆ど意味を成していないが、そろそろ目的の階に着きそうだったので一旦彼女を解放することにした。といっても彼女は自分の力で立つことも困難で俺に寄りかかっている。
膝の裏に腕を回して持ち上げる。背中も支えて胸元まで持ち上げればお姫様だっこの完成だ。
チャイムが鳴って扉が開く。
いつもと変わらない、俺達の住むエリアの廊下だけど、今はめくるめく官能が待ち受ける回廊の様でさえ感じる。
足早に抜けて俺の部屋へ。
ロックを解除するのももどかしい。
開いたら薄暗い部屋の中へ、電気もつけずにひたすら奥へ。
「ザクト様、待って、待ってください。」
腕の中の彼女が俺の胸を押す。ここまで来て待てなんて。
「嫌だ、待たない」
リビングを抜けて、ベッドルームに行こうとしたら更に暴れる。
落としかねない勢いだったから、仕方無しに一旦リビングのソファに下ろしてやることにした。
「わっ」
ぼすん、と柔らかいソファに沈み込んでいったからバランスを取ろうとしたのだろう。
咄嗟に、俺の腕を強く掴む。
「す、すみません」
「いや、良いよ…で、まあ待ったけど何?」
俺は逸る気持ちを何とか抑え込んで彼女に笑みを一つ。ここで恐がらせてしまっては水の泡だ。目の前の彼女は安心したのか、深呼吸をひとつ。
自然に唇に眼が行った。さっきまで貪っていたそこは妖しく水気を纏って、暗い室内でも分かるほど艶を帯びている。
ああ、また貪りたい。
「あの、その…シャワーをお借りしたいんです。汗を、流させてください。」
彼女の顔が段々と下がっていく。声も徐々に小さくなる。
「俺はそのままでも全然構わないよ。」
「ダメです、その…お願いします」
俺としてはショウエンそのものを味わいたい気持ちがあったが、ここは彼女の意見を優先しよう。
だが、一つ気が付く。
それでは、脱がせる楽しみがないではないか。
折角俺好みの服と下着を与えて、この手で脱がせようと思っていたのに。
…いや、考えてみればそれも数時間程度しか着ていない筈だ。
頼めば、いや命令すればまた身に付けてはくれるだろう。
いやいや、でも流石にそれは変態過ぎるか。
最初はやはり彼女の希望に添うようにしよう。
なんと言っても大切な『初体験』というやつだからな。
最高の思い出を演出すべきか。そう考えると、高級レストランからやり直した方が良か。
いや、でも彼女はすでにその気になっているからここで流れを切るのは得策ではない。
よし。
「分かったよ、ショウエン。でも一つだけ頼みがある。」
「はい、何でしょうか…?」
せめてこれくらいは良いだろう。
「俺が先にシャワーにいく。ショウエンは俺の服を脱がせる。良いかい?」
一瞬ポカンと口を開けた彼女は、直ぐに顔を真っ赤にした。
「全部とは言わない、君が出来るところまでで良いよ。」
そうして微笑み一つ。何も言わない彼女の手を引いて、脱衣所兼洗面所に。
鏡に映る自分の顔が気持ち悪いくらい笑っている。
全く、悪い人間だ自分は。
「さ、ショウエン。」
俺は彼女と向き合う。俯いていた彼女は視線を泳がせていたが、やがて意を決したのか俺の顔を見て頷く。
「し、失礼します」
緊張した上ずった声。まずはベストの前をはずす。
ワインレッドの化学繊維布と、黒い貝のボタンに彼女の白い指が滑る。
力が入らないのか釦一つ外すのに随分と時間が掛かっている。
この調子では全て脱ぎきるよりも先に、理性が持たずショウエンを襲ってしまいそうだ。
するり、とベストが腕から落ちる。床に着くよりも前にショウエンが拾い上げて脱衣籠に置く。
「すみません屈んでいただけませんか?」
「良いよ。」
次はシャツだ。だけど身長差がかなり開いているから、俺の首もとの釦を外そうと思うと台を使うか、俺が屈む必要がある。
屈み込むと当然、彼女の顔が近くに来るわけだが、その唇に吸い付くよりも先に釦に手を掛けられてしまった。
彼女の手が邪魔で距離を詰めることができないが、まあ我慢しよう。
さっきよりも手際が良いのは、腹を括ったからだろうか。
「…あ」
しかし手が止まる。理由は、そうこれだろう。
前に裸ですれ違ったときには見えなかったであろう、コレ。
肌に刻まれた刺青。花と翼をモチーフにした幾何学模様。
ともすれば情報基盤の配線にも似た厳つい紋様。
魔術紋も、重なっている。
「ここ、傷が」
でも彼女は気付いた。
脇腹に刻んだ刺青の奥、薄くなっているが皮膚の痕が確かにそこにある。
母が俺を引っ掻いたときのものだ。
これに加えて、かつてはへその横には刃物の、背中には火傷のもの、肩には銃痕とナイフ傷があったが、数年前に再生手術で消したから今は綺麗なもんだ。
今残っているは、ショウエンが見ている脇腹と腹部くらいだ。
「よく見つけたね。昔のものさ。」
「……」
彼女は確かめるようにそれに触れた。
少し熱を帯びた指先がくすぐったい。この弱い刺激だけで、いきり起ちそうな自身に苦笑した。
彼女はそのような意図など無いのに。
「ショウエン、手が止まっているよ。」
「え、あ、はい…」
シャツが取り払われて俺の上半身は完全に裸になった。
さて、次はいよいよ下半身だが
「あの、ザクトさま…」
「ん?」
「その、本当に全部、ですか?」
俺のシャツを抱き締めて上目づかいで聞いてくる。
また耳まで赤くなって、眼も心なし滲んでいて、本当に見ていて飽きない。
「…まあね。でもこれくらいでいいよ。あとは自分でやるからショウエンはリビングで待ってて。」
本当は全部でも良かったけど、既に臨戦状態の自身をベッドに行く前に彼女に晒すのは流石に憚られた。
というか、多分我慢できずに此処で致してしまう。確実に。
「で、では失礼します。」
彼女は律儀に頭を下げて脱兎のごとく勢いで脱衣場を出ていった。
ピシャリを閉められた扉の向こうでは彼女の足跡が聞こえて、止む。
ソファにでも座ったのだろうと判断して、俺はスラックスに手を掛ける。
予想通りというか、やっぱり勃っていた。
これは一回抜いてからのほうが良さそうだ。久々に余裕のない自分に思わず笑ってしまう。
大事にしたい、しかし、壊れるほど愛し、抱きたいのも事実。
焦ってはいけない。時間はまだある。
たっぷりと時間をかけて、俺をその身体に覚え込ませていけばいい。
俺は一通り考えを巡らせると、ボクサーパンツを脱いでバスルームに身を滑り込ませた。
「(下着は、これでいいかな…)」
私は一旦自分の部屋に着替えを取りに戻った。
こいう時にどういう服を着ればいいかわからず考えるけど、結局脱いでしまうのだから一緒だということに気が付く。
では下着はどうだ。
自分のものは全て、既にDの家からこっちに移している。
なるべく新しくて、見た目も見苦しくないものを探すが、どれも子供っぽい様な気がしてきた。
私が今身に付けているものが一番、高価で大人っぽいものだろう。
着てからまだ数時間しか経っていないから、汗の臭いとかは殆どついていない筈だ。
よし、これにしよう。
あとは、その上に羽織るもの。
「…バスローブで良いのかな…」
バスルームに置かれている自分用のものを取り出す。
ふわふわで、いい香りがする白いバスローブだ。
一通り持ち物を揃えて時計を見る。
ザクトさまの部屋を出て15分が経とうとしている。そろそろ戻らなくては。
最後に用を足して、私は自分の部屋を出る。幸い、誰もない。
誰かに会うのは、なんだか恥ずかしい気がするから好都合だ。
恥ずかしい…いや、今からザクト様に身を捧げるのだから、恥ずかしい事は何もない。
そうだ、なにも、ない。
でも、それが一般的に秘められるべき事だという認識が私にあって、だけど未知へのほんの少しの興味も、ある。
そうした好奇心が一般的に厭らしいということも、知っている。
けれど、行為を通じて、私は彼を知りたい。
その行為が単なる生殖活動や欲望ではなく、彼が私を求めているということならば、私は彼の気持ちを受け止めたい。
部屋に戻るとちょうどザクト様が脱衣室から出てきたところだった。
黒いスラックスに裸の上半身、頭から白いバスタオルを被っている。
私の方を振り見るが、なんだか、少し疲れが見える。
昨日の襲撃と、さっきお母上の部屋に行ったことで身体的にも精神的にも疲労が出てきたのかもしれない。
「ザクトさま?お疲れですか?」
「……いいや、大丈夫だ。少しのぼせてしまっただけさ。さあ、入っておいで。」
私の方を見ずに冷蔵庫のあるキッチンに行ってしまった。
私は少しだけ彼の背中を見送った後、脱衣場に入った。
扉を閉めて、バスローブとバスタオルをラックに置いた。脱いだ服は、その下の段の脱衣かごの中に入れていく。
下着、これだけはもう一度着るからバルローブの下に入れ込んだ。
着ている物を全て脱いで、バスルームに入り込む。ザクト様が使った後だからか、湯気が立ち上り室は暖まっている。
一昨日使ったから、大体の使い勝手は分かるが、それでもボディソープやシャンプーを使うのは何だか少し気が引ける。
「…失礼します。」
薔薇の香りがするそれを手に取り、髪の毛に塗り込み泡立てる。
髪の毛の一本一本を清めるように丁寧に洗う。
リンスも付けて、残らないようにすすぐ。
顔、首、肩、脇、上腕、下腕、指の間に爪の間、臍の孔に至るまで私は隅々まで丁寧に洗った。
彼の手が、指がどこに触れるか想像が付かない以上、汚れた場所が在ってはいけない。
最後に足のつま先を擦って、シャワーで泡を流した。
少し張った肌が泡の下から出てくる。
鏡の中には、恐らく年相応よりはやや肉の付いた身体が見えるが、彼からしてみれば子供の貧弱な身体だ。
フィーナ様の様な大人の女性と比べれば、胸も尻も張っていない。
それでも彼は、私に触れたいと言う。
だからせめて清潔で、汚れのない身体を彼に。
髪の毛の水気を切って、脱衣場に出た。
バスタオルを頭から被りまず髪の毛を拭く。耳の後ろ、耳の穴の雫を拭き取りそのまま首と背中、脇を拭く。腕を拭き終わったところで、インナーを身につけた。
ワインレッドの大人っぽいサテンのブラは、身につけるだけで身体が引き締まったような気がする。私が持っている物よりも、体型を補正する力が強いようだ。
腹部と股、臀部、太ももと足先を拭いてパンツも穿いた。
そしてバスローブを羽織って帯をしっかりと結んだ。
「…着替えは、後で取りに来よう…」
髪の毛を右手で吹きながら左手で脱いだ服を脱衣かごの中で整える。
そういえばこれもザクト様が用意して下さった物だ。
肌触りが凄く良い。多分、これもかなり値段が張りそうだ。
着る機会はあまりないかもしれないけれど、大事にしよう。
『ショウエン?』
「!はい!」
ドアの向こうから急に声を掛けられて身体ごと心臓が跳ね上がる。
私は急いでドアに向かい、扉を開けた。
「何でしょうか?」
「ああ、いや。長かったからのぼせているんじゃないかと思ってね。…もう良いのかい?」
彼は上半身はそのままで、表情は先程よりも元気そうだ。
良かった。
「はい、大丈夫です。ですが、何か飲み物を頂けますか?」
「もちろん。ミネラルウォーターでよければ、そこに」
リビングのローテーブルの上に水差しとグラスが二つあった。一つには中程まで水が注がれていてそれはザクト様が使っていたと分かる。
私はそこまで行き、空のグラスに水差しの中身を注いだ。
透明な、冷たそうな水が流れ出て容器を満たす。
ある程度注いで、私はそれを手に取った。ガラス越しに冷たさが指に伝わる。
口をつければ、熱を持った唇が冷えて意識が覚める。
ゆっくりと飲む。
喉から食道、胃に冷水が浸食するかのような感覚を持つ。
急に飲むと苦しくなるから、出来るだけゆっくりと飲み込んだ。
グラスが空になって、口から離して息を吐いた。
「はぁ……ありがとうございます、ザクト様。」
いつの間にか目の前のソファに座っていた彼を見ると、眼があった。
色素の薄い青灰色の瞳が私を捉える。
いや、私が水を飲んでいたときからこちらを見つめていた。
そして彼は無言のまま私に手を伸ばしてきた。
落とさないようにローテーブルにグラスを置いて、私はその手を取った。




