第9話気まぐれな獣
街を出て、北へと向かう道すがら、叶は終始、内心で冷や汗をかき続けていた。
隣を歩くゼルギウスは、まるで散歩にでも出かけるかのような涼しい顔をしている。少し後ろからついてくるオズヴァルドは、書類の束を小脇に抱えたまま、時折、心配げにこちらの様子を窺っていた。
(二人とも、私が本物のクリム様だって、微塵も疑ってない……)
その信頼の重さが、今更ながらに肩へとのしかかってくる。
森の入り口が見えてきた頃には、日は随分と高く昇っていた。木々の合間から漏れる光が、地面に細かな網目模様を落としている。表面上は、静かな森だった。だが、鳥の声ひとつしない、その静けさこそが、何かの気配を物語っているようにも思えた。
「クリムゾフィア様、どうか、くれぐれもお気をつけて」
オズヴァルドが、そう言いながら深々と頭を下げる。その声には、心底からの案じる響きがあった。
「案ずるな。……多分」
最後の一言は、思わず本音が漏れてしまったものだった。オズヴァルドが目を瞬かせるのを見て、叶は慌てて咳払いをする。
「多分、なんとかなろう」
誤魔化すように言い直したものの、ゼルギウスは特に気にした様子もなく、むしろ誇らしげに頷いていた。
「当然にございます。クリムゾフィア様に、不可能などございません」
(いや、その全幅の信頼、地味にプレッシャーなんだけど……)
三人は木々の間を分け入るようにして、森の奥へと進んでいった。しばらく歩くと、急に視界が開け、大きな窪地に出た。
そこに、それはいた。
最初に目に入ったのは、圧倒的な質量だった。体高は叶の背丈をゆうに超え、四肢の一本一本が、大樹の幹ほどもある太さで大地を踏みしめている。踏み込むたびに、地面がずしりと揺れ、足元の小石がぱらぱらと転がり落ちた。
全身を覆う真っ白な毛並みは、恐ろしさよりもむしろ質感に見惚れてしまいそうになるほど豊かだったが、その下に隠しきれない筋肉の隆起が、動くたびに波打つように蠢いている。大きく裂けた口からは、成人の腕ほどもある鋭い牙が覗き、こちらに気づくなり、地を這うような低い唸り声を上げた。空気そのものがびりびりと震えるほどの重低音が、腹の底まで響いてくる。
黄金色に光る双眸が、真っ直ぐに叶を捉える。その視線だけで、射抜かれたような錯覚を覚えた。もふもふとした尻尾が、苛立たしげに地面を打ち据える。その一振りだけで、傍らの若木が、根元からへし折れて倒れた。
「――!」
ゼルギウスが、瞬時に叶の前へと躍り出た。腰の剣が、鞘を滑る音を立てる。抜き放たれた刃が、白刃の光を纏いながら、魔物へと振り下ろされようとしていた。
(え、待って、本当に斬る気だ――)
叶は反射的に、その動きを片手で制した。
(待って。待って待って。ここで斬り伏せたら、絶対「お優しいクリム様」のイメージと違う……!)
だが、それ以上に叶の頭を占めていたのは、もっと切実な計算だった。
(もし今、ゼルギウスが返り討ちに遭ったら――次にあれと向き合うのは、私だ)
念のため、と心の中で何度も念じてみる。――出ろ、火の玉。出ろ、光線。何でもいいから、それらしい力を。
だが、指先からは何も出なかった。当然だ。魔力の出し方どころか、その存在すら、実感したことがない。配信で見てきた「クリムゾフィアの力」は、あくまで演出としての知識でしかなく、実際にどう扱えばいいのか、叶には皆目見当もつかなかった。
(無理。絶対無理。武力行使とか、そういうの一切できない。……だったら)
せめて、話し合いで済ませられないだろうか。あの牙も爪も使わせずに、穏便に、平和的に。――我ながら情けない願いだと思いながらも、叶はそれにすがるしかなかった。
脳裏に蘇るのは、幾百時間と繰り返し観てきた配信の記憶だった。クリムゾフィアが配信の中で、生き物と接するときに見せる、あの独特の間合い。威圧するでもなく、媚びるでもない、ただ静かに「格上」であることを疑わない佇まい。
「控えよ、ゼルギウス」
なんとか、それらしい声で告げる。ゼルギウスは戸惑いながらも、剣の柄から手を離した。
叶は一歩、また一歩と、ゆっくり魔物へ歩み寄っていく。目は逸らさず、しかし睨みつけもしない。背後で、オズヴァルドが息を呑む気配がした。
肺の底から、ゆっくりと息を吸い込む。腹の奥に、意識を落とし込むように。
――威圧するのではない。ただ、疑いようもなく「上」に立つ者として、そこに在るだけでいい。
「そう気を立てるな」
喉の奥から絞り出すように、覚えのある声色を再現する。声を張り上げたわけではなかった。むしろ低く、静かに。だが、その一言だけで、森全体の空気が、ぴたりと押し黙ったような気がした。木々の葉擦れさえも、束の間、鳴りを潜めたように。
「我が名はクリムゾフィア」
名乗るその瞬間、叶は無意識のうちに、背筋を、肩を、顎を、幾度となく目にしてきた「彼」のそれへと重ねていた。悪魔の貴族としての矜持。何百年と、この地に君臨してきた者だけが纏いうる、揺るぎない重み。
「この地に住まう者の主だ。お前が腹を空かせているのなら、それを満たしてやろう。だが――」
一拍、間を置く。魔物の唸り声が、わずかに揺らいだ。
「これ以上、我が民を脅かすことは、許さぬ」
最後の一言に、ほんの僅かに、力を込める。声量ではない。ただの一言に、有無を言わせぬ確かさを乗せるように。
――配信の中で、幾度となく繰り返されてきたはずの台詞だった。実際に効果があるかどうかなど、叶自身にも分からない。ただ、他にどうしていいか分からなかっただけだ。それでも今、この瞬間だけは、自分が本当に「クリムゾフィア」であるかのような錯覚に、叶自身が囚われていた。
魔物は牙を剥いたまま、しばし低く唸り続けていた。距離はもう、二歩と離れていない。
巨躯がぐっと沈み込む。まるで飛びかかる寸前の、獣の重心の落とし方だった。背後で、ゼルギウスが再び剣の柄に手を伸ばしかけるのが、気配だけで分かる。
(来る――?)
叶の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。だが、ここで一歩でも退けば、きっとすべてが崩れる。クリムゾフィアは、決して退かない。少なくとも、叶がこれまで見てきた「彼」は、一度たりとも。
震えそうになる足に、力を込める。視線だけは、逸らさない。
(これ、本当に大丈夫なやつ? ねえ、大丈夫だよね……?)
内心の悲鳴とは裏腹に、叶は表情ひとつ変えず、ただじっと魔物の目を見つめ続けた。数瞬が、ひどく長く感じられた。木の葉一枚、落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂。
やがて、魔物はふいと鼻先を近づけ、くん、と匂いを嗅いだ。そして――尻尾の動きが、心なしか穏やかになる。
「……あ」
魔物は、大きな図体をゆっくりと折りたたむようにして、叶の足元に伏せた。
拍子抜けするほどあっけない結末に、叶自身が一番驚いていた。
「さすがはクリムゾフィア様……! 言葉のみで魔物を従えるとは……!」
ゼルギウスが、感極まったように声を震わせる。オズヴァルドも、安堵と驚嘆の入り混じった表情で、何度も頷いていた。
(いや、たまたまだから。多分、今の、ノリで乗り切っただけだから……!)
内心で叫びつつも、叶はもふもふとした毛並みに恐る恐る手を伸ばした。触れてみると、思っていた以上に温かく、柔らかい。
そのまま毛並みを撫でていると、魔物の体が、ふと淡い光に包まれ始めた。
「な――」
驚いて手を止める間もなく、光はみるみる収縮していき、あれほど大きかった体躯が、見る見るうちに小さくなっていく。牙も、鋭い爪も、いつの間にか姿を消していた。
光が収まったあとに残っていたのは――両手に収まるほどの、小さな白い子猫だった。
「……猫?」
呆然と呟く叶の足元で、子猫はくるりと丸まり、満足げに喉を鳴らし始めた。
「これは……」ゼルギウスが、興味深げに目を細める。「魔物の中には、己より格上と認めた相手の前でのみ、そのように姿を縮める性質を持つものがおると聞いたことがございます。まさか、これほど見事に懐くとは」
「格上と、認めた……」
叶は、腕の中で丸くなる子猫を見下ろした。真っ白な毛並みに、つぶらな瞳。先ほどまでの威圧感が嘘のような、あどけない姿だった。
オズヴァルドが、深々と頭を下げる。
「クリムゾフィア様のお力、改めて拝見いたしました。これで、収穫祭も無事に迎えられましょう」
その言葉に、木こりや猟師たちの安堵する顔が、頭の中に浮かんでは消えていった。叶は、腕の中の温もりを抱え直しながら、ほう、と小さく息をつく。
(なんとか、なった……。なったんだよな、これ)
実感の湧かないまま、しかし確かに一つの重荷を下ろせたことに、叶は静かな安堵を覚えていた。膝から力が抜けそうになるのを、なんとか堪える。表向きは堂々と、内側では今にも崩れ落ちそうな、綱渡りのような時間だった。
「して、クリムゾフィア様。この者、いかがなさいますか」
ゼルギウスが、興味深げに子猫を覗き込みながら尋ねてくる。飼うのか、それとも森へ帰すのか、という含みだった。
叶は、腕の中で丸くなる白い毛玉を見下ろした。先ほどまでの、地面を揺らすほどの威圧感が嘘のような、あどけない寝顔。ここで「いらない」と突き放すのは、なんだか違う気がした。
「……しばらくは、我が手元に置こう」
我ながら、随分とあっさり口をついて出た決断だった。オズヴァルドが、目を細めて微笑む。
「それは重畳。この者も、良き主に恵まれたようですな」
木々の合間から差し込む光が、ちらちらと三人と一匹を照らしている。腕の中の子猫は、すでにすっかり寝入っているようだった。




