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第8話主のためならば



「――道を開けよ!」


 鋭く、よく通る声が響いた。人垣が慌てて左右に分かれ、そこを割るようにして、一人の男が駆けてくる。


 漆黒の礼装。血のように赤い瞳。白皙の肌に、夜そのものを纏ったような静けさ。人ならざる者と、一目で知れる佇まいだった。


 男は叶の前で足を止めるなり、流れるような所作で片膝をつき、胸に手を当てた。


「クリムゾフィア様!」


 声には、隠しようのない歓喜が滲んでいた。


「従者筆頭、ゼルギウス。まかり越しましてございます。まさか、このような場所に御自らお渡りになるとは……。この報せを受けた時、心の臓が止まるかと思いました」


 名乗りとともに、深く頭を垂れる。その所作の隅々にまで、長年染み付いた作法の美しさが滲んでいた。顔を上げたゼルギウスは、まるで長い不在から帰ってきた恋人にでも向けるような、蕩けきった眼差しを叶へと向けた。口の端が僅かに持ち上がった拍子に、犬歯だけが不自然なほど長く、鋭く覗く。


 真昼の陽射しの下だというのに、ゼルギウスの肌は日焼けひとつなく、作り物めいて白い。それでいて、まるで熱を持たない蝋人形のような静けさで、その場に立っていた。歩み寄ってくる所作は優雅だが、目にも留まらぬ速さで人垣を割ったことを思えば、あの一瞬だけ、彼は人の速さを超えていたのだろう。


(この人が、従者筆頭……。吸血鬼、なんだよな、やっぱり)


 叶は内心で身構えながら、なんとか鷹揚な頷きを返す。


「うむ。心配をかけたな」


「いいえ、いいえ! クリムゾフィア様がご無事であられれば、それだけで我が一族、これに勝る喜びはございません」


 大袈裟なほどの物言いだったが、目の奥に宿る光は本物だった。ただの追従ではない。骨の髄まで染み込んだ、疑いようのない忠誠。


 ゼルギウスは立ち上がると、周囲にまだ膝をついたままの民衆へ、静かに、しかしよく通る声で告げた。


「皆の者、大儀であった。面を上げるがよい。此度のこと、他言は無用にな」


 その一声で、ざわめきが潮の引くように収まっていく。人々は次々と立ち上がり、それでも名残惜しそうな視線だけは、叶の方へと注がれ続けていた。


 ゼルギウスが、改めて叶へと向き直る。その顔に、ふと一瞬だけ、翳りのようなものがよぎった。


「――しかし、解せませぬ。転移の座は、本来、王城の召喚の間に定められているはず。それが、このような町中に……。魔法陣の紋様に、何か狂いでも生じましたか」


 鋭い指摘だった。叶の背筋に、冷たいものが走る。


(まずい。まさか、私が中に入っているせいで――なんて、言えるわけがない)


「……さて。我にも、判然とせぬ」


 なんとか、それらしい素っ気なさで受け流す。喉の奥が引き攣りそうになるのを、必死に押し殺しながら。


 ゼルギウスは、しばし考え込むように黙り込んだ。だが、それも長くは続かなかった。すぐに、憑き物が落ちたような、晴れやかな表情に変わる。


「――いや。詮無きことでございますな。クリムゾフィア様のなさることに、間違いなどあろうはずがございません。きっと、何か深い思し召しがあってのことでございましょう」


 あっさりと、しかし完全な信頼をもって、そう結論づけてしまう。叶は、内心で複雑な安堵を覚えた。(助かった……いや、助かったのか、これ……?)


 ゼルギウスに促されるまま、叶は歩き出した。石畳を踏むゼルギウスの足音は、驚くほど静かだった。まるで重さを持たないもののように、影さえも薄く、道の端に落ちる叶自身の影と比べると、心なしか輪郭が滲んで見える。通りを抜け、城下の大路へと足を向ける。石畳の両脇には、収穫祭の飾りつけが続き、道行く人々が皆、恭しく頭を垂れていく。


 だが、その頭を垂れる仕草の端々に、単なる敬意だけではない、何か別の色が滲んでいるのを、叶は感じ取っていた。


「クリムゾフィア様がいらしたのなら……」

「まさか、あの噂を聞きつけて……?」

「森の件、きっと今度こそ……」


 通り過ぎざまに漏れ聞こえる囁きは、どれも歯切れが悪く、しかしその奥に、確かな期待の色を孕んでいた。すがるようで、それでいて疑うことを知らない、まっすぐな信頼。誰も彼もが、当然のようにこう思っている。――クリムゾフィア様がいらしたのなら、あの厄介事も、きっとどうにかしてくださる、と。


 その視線の重みに、叶の胃の腑が、じわりと冷えていくのが分かった。(何も知らないのに。何もできないのに、こんなに期待されて……)


 しばらく歩いたところで、前方から、一人の初老の男が、急ぎ足で近づいてくるのが見えた。


 仕立てのよい、しかし過度に飾り立てられてはいない衣。手には書類の束を抱え、白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけている。その髪の合間から、小さく巻いた二本の角が控えめに覗いていた。年経た魔族に特有の、灰がかった白皙の肌。糸のように細い瞳孔を持つ双眸は、琥珀色の光をたたえ、人のそれとは明らかに異なる輝きを放っている。文官然とした佇まいだが、その足取りには、隠しきれない焦りが滲んでいた。


「クリムゾフィア様!」


 男は叶の前まで来ると、深々と一礼した。


「この街の代官を務めております、オズヴァルドにございます。まさか本日、御自らお越しになるとは、露ほども存じ上げず……」


「うむ、面を上げよ」


 叶が短く返すと、オズヴァルドは顔を上げ、どこか目を細めるようにして叶を見つめた。


「……いや、失礼を。こうしてお姿を拝見する度に、思うのです。あの小さかったクリムゾフィア様が、よくぞここまでご立派になられて、と」


 その言葉には、ゼルギウスのそれとは違う、もっと穏やかな、長い年月を見守ってきた者だけが持つ温かさがあった。叶は、なんと答えていいか分からず、ただ曖昧に頷くしかなかった。


「時に、オズヴァルド」ゼルギウスが横から口を挟む。「何やら急いておるようだが」


「ああ、はい……。実は、少々、困った話がございまして」


 オズヴァルドは、書類の束をぱらぱらと捲りながら、困惑気味に眉を寄せた。切羽詰まった様子ではない。だが、明らかに、頭を悩ませている風だった。


「北の森に、この時期には珍しく、大型の魔物が居着いてしまったようでして。人的な被害こそまだございませんが、木こりや猟師たちが、恐れて森に近づけずにおるのです。折悪しく、収穫祭を控えたこの時期に……」


 その言葉に、叶の脳裏に、先の町で、ある老爺が漏らしていた一言が蘇る。――森の魔物の噂さえなければ、な。


「本来であれば、討伐隊を組んで対処すべきところなのですが、なにぶん、相手の大きさが尋常ではないとの報告で……。手をこまねいておりました」


 オズヴァルドは、そう言って、深く息を吐いた。縋りつくような様子ではない。ただ、本当に、困り果てているのだという空気だけが伝わってくる。


「クリムゾフィア様に、このような些事でお手を煩わせるのは、本来あってはならぬことと重々承知しております。……ですが」


 言葉を濁したオズヴァルドの視線が、ちらりと叶の方へ向く。何かを期待するような、それでいて、無理を承知しているような、複雑な色を湛えて。


 叶は、その視線を受け止めながら、内心で悲鳴を上げていた。


(いや、無理だから。私、魔法の使い方どころか、魔力の出し方すら分からないから……!)


 だが、周りを見渡せば、通りすがりの住民たちまでもが、いつの間にか足を止め、こちらの様子を窺っている。困り果てた代官。不安げな領民たち。そして、それを一身に受け止める「クリムゾフィア」という存在。


 断れるはずがなかった。もとより、断るという選択肢が、自分の中に存在しないことを、叶自身が一番よく知っていた。


「……わかった」


 我ながら、随分と堂々とした声が出たものだと思う。


「その森とやらへ、案内せよ」


 オズヴァルドの顔に、安堵と、それ以上の感激が広がっていく。傍らのゼルギウスは、当然のことだと言わんばかりに、誇らしげに頷いていた。


「さすがはクリムゾフィア様……!」


(いや、そんな期待に応えられる自信、微塵もないんだけど……)


 その場に居合わせた住民たちの間からも、堰を切ったように歓声が上がった。


「クリムゾフィア様が、直々に……!」

「これで、収穫祭も無事に迎えられる……!」

「さすが我らが領主様だ、頼りになる!」


 誰もが皆、疑いの欠片もない笑顔で、こちらを見つめている。子どもたちは手を叩いて喜び、老いた女は涙ぐみながら両手を合わせていた。その期待の眼差しの一つ一つが、叶の背に、重く、しかし確かにのしかかってくる。


(こんなに喜ばれて、今更「やっぱり無理です」なんて、言えるわけがない……)


 内心で崩れ落ちそうになりながら、叶は、北へと続く道へと足を向けた。遠く、森の稜線が、静かにこちらを見下ろしていた。

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