第7話我が名は轟いているらしい
目を開けた瞬間、叶が最初に覚えたのは、耳の奥に残る静寂だった。
いつもなら、意識が浮上する瞬間には、まだコメント欄の通知音や、配信ソフトのファンの回る音が微かに耳に残っているものだ。だが今は、何もない。あるのは、風の音と、遠くでかすかに響く鳥の声、それから――誰かの話し声。
背中に感じるのは、フローリングの硬さではなかった。ひんやりとした石畳。指先でそっと撫でてみると、長い年月を経て角の丸くなった、無骨だが確かな手触りが返ってくる。
頬を撫でる風も違う。エアコンの効いた配信部屋の、あの均された空気ではない。乾いていて、わずかに土と、それから何か――香辛料のような、干し草のような、複雑な匂いを孕んでいる。
「……え」
声に出してから、その声が普段の自分のものより随分と低く、よく通ることに気づいた。慌てて自分の手のひらを見る。白磁のような肌に、長い指。
――クリムゾフィアの手だった。
ゆっくりと身を起こす。視界に飛び込んできたのは、見慣れたクロス天井ではなかった。抜けるように青い空。そこに縁取られるようにして、見たこともない意匠の三角屋根が、通りの両側にずらりと並んでいる。
石造りの壁に、蔦が這う軒先。窓辺には、干された薬草らしきものの束が吊るされ、風に揺れるたびに、ほのかに甘い香りを振りまいていた。通りの向こうには露店が並び、見たこともない果物や、青白く発光する石のようなものが無造作に籠に盛られている。荷を引く獣は、馬にしては角が生えすぎている。
――ゲームでも配信でも、これほど克明な「異世界」を目にしたことはなかった。
ふと、露店の籠に山と積まれた、見慣れない紅色の果実が目に留まった。表皮に細かな棘のような突起があり、割ると中から蜜のような香りがする、と――そう、確かに聞いたことがある。
(待って。これ、知ってる)
配信の合間、クリムゾフィアがぽつりぽつりと漏らしていた雑談。統治する地について尋ねられるたびに、彼は決して多くは語らなかったが、ふとした拍子に、こんな言葉をこぼしていた。「我が地の実りは、刺々しいくせに甘い」「収穫の季節には、町中がその香りに包まれる」――当時は聞き流していたはずの、他愛のない雑談の断片が、今になって鮮やかに蘇ってくる。
そして、その果実の名を、確か「エーレンベリー」と呼んでいた。エーレンベリーの産地といえば――
「ここは……エーレンフルトか」
思わず口をついて出た地名に、叶自身が一番驚いていた。単なる知識のつもりだった。信者としての、ただの記憶の断片のつもりだった。それが、こんな形で役に立つとは。
「本物、なんだ……」
思わず漏れた呟きに、叶自身が驚いた。頭のどこかでは、ずっと「作られた設定」として処理していたのかもしれない。スパチャが魔力になる。異世界がある。クリム様は本物の貴族である。――そのすべてを、面白い世界観だと、どこかで消費者として楽しんでいた自分がいたことに、今更ながら気づかされる。
膝に力を込め、なんとか立ち上がる。慣れない体、慣れない重心。それでも、幾度となく夢想してきた「クリム様として振る舞う」ことへの憧れが、体の奥からじわりと滲み出てくるのが分かった。
(落ち着け。落ち着け、私。今、私はクリム様の姿をしている。だったら、クリム様らしく――)
深く息を吸う。背筋を伸ばす。顎を軽く引き、視線を少しだけ遠くへ投げる。配信で幾度となく目にしてきた「クリムゾフィアの佇まい」を、必死になぞる。
そのとき、通りの向こうから、籠を抱えた若い女性が歩いてくるのが見えた。
彼女は何気なくこちらへ視線を向け――そのまま、足を止めた。
目を、大きく見開いている。
「あ――クリムゾフィア様!?」
驚きの声のあとに続いたのは、意外なほど気安い響きだった。
「先月の巡察の折には、うちの子がすっかりお世話になって……。あの、こんな往来で、失礼を承知で申し上げますが、お元気そうで何よりです」
叶は、内心で凍りついた。
(先月の、巡察……? うちの子……? 何、それ。知らない、そんなの知らない――)
クリムゾフィアが定期的にこの地を巡っているという話は、確かに知識としては知っていた。だが、それはあくまで「設定」だった。実際にこうして、具体的な思い出を携えた「顔見知り」として話しかけられるとは、想像もしていなかった。
「あ、ああ……。うむ、変わりないぞ」
当たり障りのない相槌を、なんとか絞り出す。喉の奥が引き攣りそうになるのを、必死に押し殺しながら。
女性は、それだけで満足げに微笑んだ。名前を尋ねられるでもなく、彼女の側では「いつものクリムゾフィア様」との、ごく自然なやりとりのつもりなのだろう。だからこそ、叶の側の空白が際立った。
そのやりとりを、通りかかった老爺が目にして、足を止める。露店の主人が、品物を並べる手を止める。井戸端で談笑していた女たちが、声をひそめる。
そして――次々と、膝をついていく。
「クリムゾフィア様が……」
「本当に、御自ら……」
「ああ、なんという僥倖……」
小さな呟きが、さざなみのように通りへ広がっていった。恐怖の色は、どこにもない。むしろその瞳に浮かんでいるのは、崇めるような、それでいてどこか懐かしむような、深い敬愛だった。
(いやいやいやいや)
叶は内心で悲鳴を上げた。(待って、待って。これ絶対まずい。中身が違う人間だって、バレたら――)
だが、誰一人として疑う素振りを見せない。当然だ。彼らが目にしているのは、生涯仰いできた領主その人の「姿」であり、しかも多くの者にとっては、実際に顔を合わせたことのある相手なのだ。中身が入れ替わっているなどと、想像する余地すらないのだろう。
膝をついたまま動かない人々を前に、叶はどうすればいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた。(何か言うべき? でも、何を? クリム様なら、こういう時、どうしてたっけ……)
脳内の配信アーカイブを、必死に漁る。
――ふと、先ほど声をかけてきた女性の抱えていた籠が、少し傾いて中身がこぼれかけているのに気づいた。叶は、ほとんど無意識に、屈み込んでそれを支えた。
「そのままでは、こぼれてしまうぞ」
言ってから、しまった、と思う。クリム様らしい威厳ある物言いのつもりが、ただの世話焼きのような台詞になってしまった。
だが、女性は驚いたように顔を上げ、それから、涙ぐむように微笑んだ。
「クリムゾフィア様は……お噂通り、と言いますか、いつも通り……本当にお優しい」
(いや、そんな深い意味はなくて、ただ反射的に――)
弁明の言葉を飲み込む。今はただ、クリム様であり続けるしかない。
傍らでは、幼い子どもが母親の袖を引きながら、こちらをじっと見上げていた。怖がっている様子はなく、むしろ興味津々といった顔で。
「あ、このまえのクリムさまだ! また来てくれたの?」
その一言に、叶の心臓が跳ねる。(このまえ……この子も、面識があるのか……!)
母親が慌てて子どもの口を塞ごうとするのを、叶は片手で制した。
「ああ。また来た」
できる限り、優しく、しかし堂々と。声が上ずりそうになるのを、なんとか抑え込みながら。何が「また」なのか、皆目見当もつかないまま。
子どもは目を輝かせ、母親の背に隠れながらも、嬉しそうに何度も頷いていた。
通りの奥では、軒先に色とりどりの布が渡され、樽が積み上げられている。よく見れば、家々の戸口にはエーレンベリーを模した飾りが吊るされていた。準備の最中らしい。
「もうすぐ収穫祭か」
半ば独り言のつもりで漏らした一言だったが、傍らで膝をついていた白髪の老爺が、驚いたように顔を上げた。
「よくぞお気づきに……。今年は例年より早う支度を始めております故、クリムゾフィア様にはご不便をおかけするやもしれませぬ」
老爺の声には、深い労いと、それ以上の敬慕が滲んでいた。
「いや、構わぬ。……励め」
なんとかそれらしく返しながら、叶は内心で冷や汗をかいていた。(収穫祭がある、ということしか知らない。時期が例年より早いも遅いも、そんなことまでは分からない)
それでも、老爺は満足げに頷き、再び深く頭を垂れた。
「今年こそは、豊かな祭りになりますように。……森の魔物の噂さえなければ、な」
ぽつりと付け加えられた言葉に、叶の耳が反応する。魔物。森。だが、それが何を意味するのか、今の叶にはまだ分からなかった。老爺はそれ以上多くを語らず、ただ静かに目を伏せている。
通りに漂う気配は、崇敬だけではなかった。どこかに、拭いきれない不安の色も滲んでいる。叶はそのわずかな違和感を、胸の内にそっと留め置いた。
ざわめきは、いつまでも収まらない。通りに膝をつく人々の輪は、むしろ少しずつ広がっていくようだった。誰もが皆、単なる伝説の存在としてではなく、幾度となく顔を合わせてきた「自分たちの領主様」として、叶――否、クリムゾフィアを見つめている。
その重みが、叶の肩に、じわりとのしかかってきた。
叶は、その只中で、ただひたすらに――「クリムゾフィア」であり続けようと、必死に自分を保っていた。
そのとき、遠く通りの向こうから、やけに速い足音が近づいてくるのが聞こえた。
複数の視線が、一斉にその方向へ向く。
「――道を開けよ!」
鋭く、よく通る声だった。人々がざわめきながらも、慌ててその場を空けていく。
誰かが、こちらへ向かって駆けてくる。




