第6話100万人記念配信
【祝・登録者100万人突破記念配信】
サムネイルにそう大きく掲げた配信の開始時刻、待機画面のコメント欄は、既に異様な熱気に包まれていた。
『待ってた』
『ついにこの日が来たか』
『100万人おめでとうございます!』
『同接もえげつないことになってる』
『歴史的瞬間に立ち会えて光栄です』
『今日のために有給取った』
冗談とも本気ともつかないコメントが、次々と流れていく。配信開始前だというのに、既に同接の数字は普段の比ではなかった。
配信部屋の椅子に座りながら、叶は小さく深呼吸をした。ここ数日、事務所の件やら何やらで慌ただしかったが、今日だけは、いつもとは違う種類の緊張が体を包んでいた。
登録者数が100万人を超えたと知らされたのは、昨日の夜のことだった。通知を見た瞬間、思わず声が出た。あれほど長い間、同接二桁の時代から見守ってきたはずなのに、いざその瞬間が来ると、実感が全く追いつかなかった。
同期の石井には「今日は残業できないので」とだけ伝え、定時で会社を飛び出してきた。理由を聞かれなかったのは、幸いだった。
(100万人……本当に、ここまで来るとはな)
狂信者としての自分と、中身としての自分。その両方が、同じ感慨を共有していることに、叶は少しだけおかしさを覚えた。
配信開始のカウントダウンが表示された、その時だった。
説明のつかない高揚感が、腹の底からじわりとせり上がってくる。100万人という数字への感慨、これから始まる配信への緊張、視聴者たちへの感謝――様々な感情が綯い交ぜになって、抑えようとする間もなく膨れ上がっていく。
気づけば、指先が白く透き通り始めていた。
(あ――)
驚きはなかった。一度経験した感覚だからか、あの時のような、強制的に上書きされる恐怖感はもうない。二度目だという事実だけで、心のどこかに小さな余裕が生まれていた。
カウントがゼロになる頃には、鏡を見るまでもなく、既にクリムゾフィアの姿になっていることを、叶は確信していた。
配信開始のカウントが、静かにゼロになる。
「――待たせたな、我が民草どもよ」
口を開いた瞬間、いつもの声が、いつも以上に滑らかに出た。緊張は確かにあったはずなのに、いざ配信が始まってしまえば、体の方が勝手に動いてくれる。長年培ってきた「なりきり」の技術が、こういう大舞台でこそ真価を発揮するらしかった。
『来たあああ』
『今日の第一声、いつもより気合入ってる』
『記念すべき日にふさわしい登場』
「今日という日を、我と共に寿ぐがいい。100万という数字――お前たち人間の尺度で言えば、大したものなのだろう」
軽口を叩きながらも、内心では今日一日の配信の構成を必死に思い返していた。特別な演出も、記念のトークテーマも、ここ数日でどうにか用意した。狂信者としての知識の蓄積が、こういう時に限って役に立つ。
『今日は記念配信ってことで、質問コーナーもやるんですか?』
コメントを目にした瞬間、叶は口角を上げた。
「ふむ、良かろう。今日という良き日に免じて、いくらでも答えてやる」
『クリム様の初配信の時の心境教えてください』
『一番印象に残ってる配信は?』
『これから先の目標とかありますか?』
次々と流れてくる質問に、叶は淀みなく答えていった。長年蓄積してきた知識と、いつしか体に染み付いた口調が、今日ばかりは心強い武器だった。
「目標か……ふむ、そうだな。まだまだ、我が力を示す場は尽きぬ。お前たちがついてくる限り、この先も付き合ってやろう」
我ながら、なかなか気の利いた台詞が出たものだと、内心で少しだけ満足した。
配信は、これまでにない熱量で進んでいった。
【スーパーチャット:くろすけ様より 50,000円「三年間、ありがとうございました」】
【スーパーチャット:とある陰陽師様より 15,000円「今日ばかりは素直に祝おう」】
【スーパーチャット:名も無き狂信者様より 100,000円「一生ついていきます」】
【スーパーチャット:新参ですが様より 30,000円「これからもよろしくお願いします」】
通知が流れるたびに、腹の奥の熱が、じわりと膨らんでいく。もはや驚きよりも、その感覚に体が馴染み始めていた。心地よさと苦しさが、渾然一体となって全身を駆け巡る。
「ふ……存分に、貢ぐがいい」
いつもの決め台詞にも、今日は自然と力がこもった。
スパチャの通知は止まることを知らなかった。画面の端には、次から次へと新しいメッセージが流れ込んでくる。
【スーパーチャット:100万人おめでとう1様より 20,000円】
【スーパーチャット:100万人おめでとう2様より 20,000円】
【スーパーチャット:初カキコです様より 10,000円「昔から見てました」】
【スーパーチャット:同担仲間募集中様より 45,000円「みんなで100万人祝おう」】
誰かが音頭を取り始めたのか、まるでリレーのように、次々とスパチャが連なっていく。祝祭のような空気が、画面の向こうにも、叶自身の体の中にも、等しく満ちていった。
(すごい……本当に、すごい)
狂信者としての自分が、この光景に感動している。だが同時に、クリムゾフィアとしての自分の体は、その感動を上回る勢いで、熱に浸されていく。指先の震えを誤魔化すのに、いつも以上の集中力が必要だった。
配信は二時間近くに及んだ。記念すべき日にふさわしく、いつも以上に多くの質問に答え、いつも以上に多くの軽口を叩き、いつも以上に多くのスパチャを受け取った。体の奥の熱は、もはや途切れることなく、絶え間なく流れ込み続けていた。
「今日はここまでだ。この日という日を、忘れるでないぞ」
最後の決め台詞を言い放ち、配信終了のボタンを押す。
画面が暗転した瞬間、叶はいつものように、その場に脱力した。
「はあ……疲れた……でも、楽しかった……」
達成感からか、自然と笑みがこぼれる。全身は熱っぽく、まるで長時間の運動をした後のような、心地よい疲労感に包まれていた。
スマホを確認すると、配信終了直後にもかかわらず、既に感想を呟くファンの投稿がタイムラインに溢れていた。「神回だった」「泣いた」「一生ついていきます」――そんな言葉の一つ一つが、じんわりと胸に染みていく。
(今日は、本当にいい日だった)
一つ一つの感想に目を通しては、思わず頬を緩める。読んでも読んでも、新しい投稿が絶えず流れてくるものだから、気づけば随分と長い時間、その場に座り込んだままだった。
しばらくの間、椅子に深く座り込んだまま、叶は満足感に浸っていた。
いつもなら、この辺りで感情の高ぶりが落ち着き、姿も元に戻るはずだった。だが今日は、いつまで経っても、あの姿のままだった。
(あれ……戻らない?)
訝しく思いながら、手のひらを見つめる。白く透き通るような肌は、いつまで経っても変わる気配がない。いつもなら、興奮が収まるにつれて、じわじわと人間の肌の色が戻ってくるはずなのに。
鏡を覗き込もうと立ち上がった、その足取りにも、妙な違和感があった。まるで、自分の意思とは少しズレた場所に、体の重心があるような感覚。
窓の外はとっくに暗くなっている。時計を見ると、配信を始めてから、既に三時間近くが経過していた。今日一日で受け取ったスパチャの総額を思うと、目眩がしそうだった。
(さすがに、今日は張り切りすぎたか)
そんな暢気なことを考えながら、鏡の前に足を踏み出そうとした、その時だった。
腹の奥に凝縮していた熱が、限界を迎えたかのように、一気に膨れ上がった。
「――っ、な、に――」
全身の血管という血管に、灼けるような感覚が走る。今までの比ではない。まるで、堤防が決壊するかのような、圧倒的な奔流。
これまで何度も感じてきた、スパチャがもたらす小さな高揚感とは、明らかに質が違った。あれが小川のせせらぎだとすれば、今この身に流れ込んでいるのは、堰を切って溢れ出した濁流そのものだった。
視界が、真紅に染まった。
耳の奥で、何かが弾けるような音がした。同時に、部屋の空気そのものが、ぐにゃりと歪んで見えた。壁も、机も、天井も、まるで水面に映る景色のように、輪郭を失っていく。
(これ、まさか――)
直感が、はっきりと告げていた。この感覚には、覚えがある。眠っていたはずが、気づけば配信部屋に立っていた、あの夜と同じ、現実感を根こそぎ奪っていく浮遊感。あの時は自分の部屋から配信部屋へと運ばれただけだったが、今度はもっと遠く、もっと得体の知れない場所へ引きずり込まれようとしている。そんな予感があった。
思えば、この姿でいる間だけ、自分にはできることがいくつもあった。あの声も、あの言葉選びも、本来なら自分のものではないはずのものだ。今この身に起きていることも、きっとその延長線上にあるのだろう。クリムゾフィアという存在の依り代である今の自分だからこそ、許された――あるいは、強いられた現象なのかもしれない。
だが今回は、あの時よりもずっと、強く。ずっと、圧倒的に。まるで、あの夜の出来事が、今日という日のためのただの前触れに過ぎなかったとでも言うように。
「く……ぅ――」
声にならない呻きを上げた瞬間、視界が白く塗り潰された。
最後に感じたのは、体の輪郭が、まるで砂のようにさらさらと崩れていく感覚だった。抗おうにも、抗う術がない。ただ、押し寄せる奔流に身を任せるしかなかった。
配信部屋には、誰もいなくなっていた。
机の上には、まだ温かさの残るコーヒーカップと、点けっぱなしの配信機材だけが、静かに取り残されていた。モニターには、先ほどまでの配信のコメント欄が、まだ余韻を残したまま静かに表示され続けている。
『神回でした!』
『また明日も見ます』
『100万人本当におめでとう』
誰に読まれることもないコメントの数々が、無人の部屋の中で、いつまでも光り続けていた。
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同じ頃、安倍要は、自室で不意に胸を押さえてうずくまっていた。
「――っ、この気配は……」
息が詰まる。今まで感じたどんな妖力とも、比べ物にならない密度だった。まるで、遠くで巨大な扉が開かれたかのような、根源的な圧力。窓の外を思わず見やるが、当然、何が起きているのかを目で確認できるはずもない。
(あの配信者からか。まさか、これほどの……)
これまで感じてきた「禍々しい妖力」は、あくまで断片、残り香のようなものだったのだと、要は今更ながらに思い知った。今この瞬間に放たれたものは、桁が違う。本物の、扉が開く音そのものだった。
冷や汗を拭いながら、要は震える手で、使い慣れた式札を取り出した。この気配の正体を突き止めなければならない。だが同時に、体の奥底では、抗いようのない怖気が走っていた。
(一人で、太刀打ちできる相手なのか……?)
初めて抱いた迷いを、要は誰にも打ち明けられないまま、ただ一人で抱え込んでいた。
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その頃、都心から少し離れた古びたアパートの一室では、一匹の猫が、突如として毛を逆立てて飛び起きていた。
いや、猫のような姿をした、それ。ふさふさとした尻尾の先が、二股に分かれていることに気づく者は、この部屋の中には誰もいない。
「にゃ、にゃんて力だ……!」
人間の言葉でそう漏らすと、その化け猫は、慌てて窓辺に駆け寄った。夜の街の向こう、遥か遠くの方角を見つめる、金色の瞳が細められる。
この街に紛れて、人間のふりをしながら暮らす者は、何も要一人ではなかった。似たような境遇の「モノ」たちが、気づかぬうちに、ひっそりとこの国のあちこちに息づいている。
「これは、報告しといた方がいいかにゃ……いや、でも、関わったら面倒なことになりそうだにゃあ……」
化け猫は、しばらく逡巡した末に、結局、丸くなって毛づくろいを始めた。関わり合いになるのは、面倒だ。今はただ、この不穏な気配が、自分の縄張りにまで及ばないことを祈るばかりだった。
誰も知らない場所で、誰も知らないところで、確かに何かが動き始めていた。




