第5話初対面
「笹川、悪いんだが、この件、今日中に片付けておいてもらえないか」
終業時刻を過ぎた営業フロアで、上司の雫石がそう切り出したのは、午後六時を回った頃だった。手元の書類を指差しながら、いかにも「軽い頼み事」であるかのような口調で言う。
係長という肩書きにしては、やけに貫禄がある男だった。真面目で責任感が強く、部下の仕事ぶりにも自分の仕事ぶりにも厳しい。その分、額の生え際は年々後退しており、本人はそれをひどく気にしているらしい。おかげで、実際の役職以上に「課長」と呼びたくなるような貫禄を漂わせていた。
いつもの叶なら、間違いなく「分かりました」と即答していたはずだった。断るという選択肢自体が、これまでの人生ではほとんど存在していなかったのだから。
だが今日ばかりは、事情が違った。
「すみません、雫石さん。今日はこの後、どうしても外せない予定がありまして」
自分の口から出た言葉に、叶自身が一番驚いていた。
雫石は、意外そうに片眉を上げた。無理もない。入社以来、笹川叶が「できません」の一言を口にしたところを、雫石はほとんど見たことがなかったはずだ。
「珍しいな、お前が断るなんて」
値踏みするような視線を、ほんの一瞬だけ寄越す。だが、それ以上深く追及してくることはなかった。
「まあ、いい。うちはそこまで無茶させる会社じゃないからな。今日のところは俺がやっておく」
あっさりと引き下がった雫石に、拍子抜けするような感覚さえあった。真面目で責任感の強い上司だからこそ、部下の「今日だけは無理です」という一言も、無下にはしない。そういう会社であることに、叶は今更ながら、少しだけ感謝の念を抱いた。
(断れた……俺、今、断れたのか)
小さな達成感が、じんわりと胸に広がる。それが、これから向かう場所への緊張とは別の意味で、叶の心を少しだけ軽くしていた。
定時から少し遅れてオフィスを出て、待ち合わせのカフェへと急ぐ。時刻はもうすぐ十九時になろうとしていた。
待ち合わせのカフェは、駅前の喧騒から少し離れた、静かな路地裏にあった。
叶は約束の五分前に到着していたが、既に心臓は痛いくらいに脈打っていた。今更ながら、なぜあんなメールを送ってしまったのか、後悔が押し寄せてくる。
(「中の人です」なんて、よくもまあ言ったな、俺……)
あの夜、追い詰められた末に打った文面を、何度も思い返す。噓ではない。だが、真実の輪郭をぼかしただけの、危うい言葉だった。もし桐生という人物が、想像以上に鋭い相手だったら――そう考えるだけで、胃の奥がきりきりと痛んだ。
店の前で、もう一度深呼吸を繰り返す。周りを歩く人々は、誰一人としてこちらを気にも留めていない。それが少しだけ、救いだった。
スマホの待ち受け画面には、通知が一件届いていた。石井からの何気ないメッセージだ。「今日残業?」――それだけの一文に、思わず頬が緩む。何も知らない日常の断片が、今の緊張をわずかに和らげてくれた。
深呼吸を一つして、店のドアを開けた。
「あの、笹川と申します。桐生様とお約束を――」
「あ、笹川様ですね!お待ちしておりました」
奥の席から、はきはきとした声で立ち上がったのは、三十代半ばと思しきスーツ姿の女性だった。名刺を差し出しながら、桐生と名乗る。想像していたよりも遥かに気さくな雰囲気に、叶は少しだけ肩の力を抜いた。
差し出された名刺には『コスプレイヤー事務所 Alter Ego マネージャー 桐生』という文字が並んでいる。改めて活字で見ると、自分が今、とんでもない世界に足を踏み入れていることを実感させられた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。メールを拝見して、本当に驚きました。まさかご本人――中の人様だったとは」
「あ、はい……お恥ずかしい話ですが」
「中の人」という言葉が、他人の口から発せられるのを聞くと、妙な現実感があった。噓は言っていないはずなのに、どこか後ろめたい気持ちが拭えない。まるで薄い氷の上に立って、相手の出方を窺っているような感覚だった。
注文したコーヒーが運ばれてくるまでの短い間、桐生はにこやかに世間話を振ってきたが、叶はほとんど上の空で相槌を打つことしかできなかった。
「率直に伺いたいのですが、あの再現度は、一体どのようにされているのでしょうか。特殊メイクですか?それとも、シリコン製のパーツか何か?」
叶は言葉に詰まった。
(そこを聞かれると、一番困る……)
「えっと……その、企業秘密、といいますか」
「もちろん、無理に伺うつもりはありません。ですが弊社としましても、業務提携という形でご一緒するのであれば、技術の再現性や継続性について、多少なりとも把握させていただく必要がありまして。例えば、天候や体調によって再現度に変化はございますか?衣装の準備にはどれくらいのお時間を?」
立て続けの質問に、叶はますます追い詰められていった。答えようがない質問ばかりだ。天候で変わるわけがない。準備時間など、感情が高ぶった瞬間に決まる話であって、自分の意思でコントロールできるものではないのだから。
桐生の口調はあくまで穏やかだったが、その分だけ、逃げ場のない正論だった。叶は内心で冷や汗をかきながら、必死に言葉を探した。
こういう時、いつもの自分ならどう振る舞うだろうか。営業として、無理な要求を柔らかく躱すことには慣れているはずだった。だが今回ばかりは、躱すべき質問の核心が、あまりにも常識の埒外にありすぎた。
「その、特殊な……体質、といいますか。長年、あのキャラクターに感情移入しすぎた結果と言いますか……」
我ながら支離滅裂な説明だと思いながらも、口が止まらなかった。言葉を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っている自覚はあった。だが、これ以上まともな説明を用意する余裕など、今の叶にはなかった。
「体質、ですか」
桐生の目が、わずかに細められた。値踏みするような視線に、叶はますます居心地が悪くなる。
「実演していただくことは、可能でしょうか?」
「――え」
心臓が跳ねた。
「もちろん、今すぐにとは申しません。ですが、いずれ機会があれば、ぜひこの目で拝見したいと思っておりまして」
叶は乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。
(実演って……そんなの、感情が高ぶらないとできないのに)
喜怒哀楽の激情がなければ変身できない、などとは口が裂けても言えない。かといって、この場を誤魔化す術も思いつかない。頭の中で、あらゆる言い訳が浮かんでは消えていく。「体調が万全でないと難しい」「専用の道具が必要」――どれも、いずれ嘘だとバレそうな理屈ばかりだった。
「そ、その辺りは、追い追い、という形で……」
「承知しました。それでは、まずは業務提携の詳細をお伝えしますね」
桐生はそう言うと、鞄から資料を取り出した。話題が逸れたことに、叶はほっと胸を撫で下ろした。だが油断はできない。この人は、想像していたよりもずっと粘り強い。次に同じ話題を振られた時、今度こそ何と答えればいいのか、まるで見当がつかなかった。
「率直に申し上げます。先日の配信を拝見して、あの造形と、何よりあの空気感に感銘を受けました。中の人様ご本人が、あそこまで見事に再現される――正直、業界でも前例のないケースだと思います」
「あ、いや、そんな、恐縮です……」
「弊社としましては、笹川様を『クリムゾフィア公式再現モデル』として、定期的にお仕事をお願いできればと考えております。もちろん、活動の主軸は配信者としての笹川様にあると存じておりますので、無理のない範囲で」
桐生は資料をめくりながら、具体的な内容を一つずつ挙げていった。
「まず一つ目は、弊社が展開するコスプレ関連グッズの撮影モデルです。アクリルスタンドや缶バッジ、カレンダーなど、いわゆるグッズ展開用の素材撮影ですね。スタジオでの撮影になりますので、日程さえ合わせていただければ、比較的融通が利く形にできます」
スタジオでの撮影――つまり、事前に日取りを決められる。それなら、少なくとも突発的に呼び出される心配はなさそうだ。叶は内心、少しだけ胸を撫で下ろした。
「二つ目は、企業様とのタイアップ案件です。ゲームやアニメ作品とのコラボ企画で、コスプレモデルとしてビジュアルを提供する、といったお仕事ですね。こちらも撮影ベースが基本になります」
ここまでは、まだ何とかなりそうだった。事前に日程を組める撮影であれば、感情を高ぶらせるタイミングを、ある程度自分でコントロールできるかもしれない。
「そして三つ目が――」
桐生は資料から顔を上げ、まっすぐに叶を見た。
「イベントへのご出演です。コスプレイベントや即売会などで、来場者の前に実際に立っていただく形になります。こちらは、弊社としても特に力を入れたいと考えている部分でして」
叶の心臓が、大きく跳ねた。
(イベント出演……それって、決まった日時に、決まった場所で、絶対に姿を見せなきゃいけないってことだよな)
撮影であれば、多少の融通が利く。だが、大勢の観客を前にしたイベントとなれば話は別だ。会場に立つその瞬間まで、変身できるかどうか、自分でもまるで確信が持てない。
「あの……イベント出演というのは、必須になりますでしょうか」
声が微かに震えた。誤魔化すように、慌てて言葉を継ぐ。
「その、体質的に、コンディションの波が結構ありまして。確約できるかというと、少し自信がなく……」
「もちろん、無理強いするつもりはございません。まずは撮影のお仕事から、少しずつ慣れていただければと思っております」
桐生の答えは穏やかだったが、その言葉の端に、「いずれは」という含みが確かに滲んでいるのを、叶は感じ取っていた。
「それと、報酬についてなのですが」
桐生は資料の一枚を、叶の方へとそっと差し出した。並んだ数字に、叶は思わず息を呑んだ。
撮影一回あたりの金額が、想像していたよりも一桁多い。
(え、これ本当に……?)
目を疑いながら、何度も数字を数え直す。
正直なところ、懐事情は火の車だった。推し活には湯水のようにお金をつぎ込み、仕事関係の飲み会は断れず、自炊をする時間も気力もないから外食とコンビニ弁当ばかり。給料日前になると、通帳の残高を見るのが怖くなる、そんな生活を何年も続けてきた。貯金など、ここ数年まともにできた試しがない。
その状態で、目の前に提示された金額は――正直に言えば、喉から手が出るほど魅力的だった。
(いや、待て。落ち着け。金のためにこんな危険な仕事を受けるとか、冷静に考えたらおかしいだろ)
頭の片隅では、そう自分を戒める声がある。だが、財布の中身を思い浮かべると、その声はどうしても弱々しくなってしまう。
揺れる天秤の片方には「バレたら人生が終わる」という恐怖が、もう片方には「これで少しは生活が楽になるかもしれない」という現実的な誘惑が乗っていた。そして今、天秤は思いのほか、後者に傾きかけている自分がいた。
叶は資料に目を落としながら、断る理由を必死に探していた。だが、探せば探すほど、断らない理由の方が多く見つかってしまう。相手は誠実で、条件も悪くない。何より、これを断ったところで、変身の秘密が守られるわけでもない。
「その……前向きに、検討させていただければと」
口からこぼれたのは、結局そんな言葉だった。
「ありがとうございます!」
桐生は嬉しそうに笑った。その笑顔に噓はないように見える。だが、資料を挟んだファイルを閉じながら、彼女はふと目を細めて、こう付け加えた。
「――それと、いつか実演していただける日を、楽しみにしております」
その一言に、叶は背筋がひやりとするのを感じた。
その後もしばらく雑談じみたやり取りが続いたが、叶の頭の中では、先ほどの一言がずっと反響していた。桐生は、ただの熱心な事務所担当者では終わらない何かを、既に感じ取っているのかもしれない。そう思うと、和やかな会話にも、どこか薄氷を踏むような緊張感が纏わりついた。
会計を済ませ、店を出る段になって、桐生は最後にもう一度、叶の顔をじっと見つめてきた。
「笹川様。今日は本当にありがとうございました。また改めて、詳細のご連絡をさせていただきますね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
深々と頭を下げて店を出る。ドアが閉まる直前、背中越しに、桐生の小さな呟きが聞こえた気がした。
「――やっぱり、只者じゃないわね」
聞き間違いだろうか。振り返る勇気はなかった。
カフェを出た後、叶はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(実演って言われても、無理なもんは無理なんだよ……)
冷や汗が背中を伝う。あの人は、決して食い下がるのをやめないタイプだ。いつか本当に「見せてほしい」と迫られたら、その時はどう誤魔化せばいいのか、見当もつかなかった。
一方その頃、店内に残った桐生は、手帳に小さくメモを書き込んでいた。
『笹川叶様。体質、との説明。詳細不明。要継続確認』
そう記した文字の横に、彼女は小さく、こう付け加えた。
『いずれ、本当のことを話してくれる日が来るといいのだけれど』
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夕暮れの路地裏を歩きながら、叶はスマホを取り出し、何気なくクリムゾフィアの過去の配信アーカイブを開いた。こんな時でも、結局この人の姿を見てしまう自分に、少しだけ苦笑した。
今日一日を思い返す。事務所からの提案、実演を求められた緊張、そして「中の人」だと名乗ってしまった自分。目まぐるしい変化に、頭がまだついていっていない気がした。
それでも、と叶は思う。悪くない一日だった。少なくとも、誰かに認められた実感だけは、確かに残っている。
夕焼けに染まった路地を、行き交う通行人たちが、何も知らずに歩いていく。その中の一人であるはずの自分が、今はひどく遠い存在のように感じられた。




