第4話問い合わせフォーム
翌朝、叶はいつも通りの時間に目を覚ました。
いや、正確には「いつも通り」ではなかった。スマホを開くのが怖くて、布団の中で三十分近く格闘した末に、ようやく画面をつけたのだから。
昨夜の出来事が、夢だったらどれほど良かったか。だが布団の中でどれだけ願っても、現実は変わってくれない。むしろ願えば願うほど、あの配信の光景が鮮明に蘇ってくるだけだった。
洗面所に立ち、恐る恐る鏡を覗き込む。映っていたのは、見慣れた自分の顔――あの神秘的な赤い瞳でも、額の角でもない、ただの笹川叶の顔だった。
「……戻ってる、よな」
安堵とも、微かな寂しさとも取れる感情が、胸の奥をよぎった。あの姿は、あくまで一時的なものだったらしい。それは分かっていたことのはずなのに、いざ普段の自分の顔を見ると、妙に現実感が薄く感じられた。
鏡の中の自分は、どこにでもいる、少し疲れた顔の会社員だった。昨夜、あれほど堂々と振る舞っていた存在と同一人物だとは、自分でもにわかには信じられない。あの高揚感も、あの言葉の切れ味も、今の自分の中には見当たらなかった。
通知欄には、見慣れない数のメンションと、フォロー通知が並んでいた。指が震えたが、確認しないわけにもいかない。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
配信アカウントのフォロワー数は、昨日の朝と比べて、ほとんど倍近くに膨れ上がっていた。タイムラインには、昨夜の切り抜き動画への言及が延々と流れてくる。
(これ、まずいやつだ……)
仕事に行く支度をしながらも、頭の中はずっと昨夜のことでいっぱいだった。
通勤電車の中、隣に立っていたスーツ姿の女性が、何気なくスマホを開いた。画面に映っていたのは――紛れもなく、クリムゾフィアの切り抜き動画だった。
叶は思わず目を逸らした。心臓が跳ねる。まさかこんな場所にまで、と思うと同時に、どこかで妙な高揚感も湧いていた。自分の――いや、クリムゾフィアの存在が、こんなにも多くの人の目に触れている。狂信者としての自分は、それを素直に誇らしく思ってしまっている。
だが同時に、ひやりとする感覚もあった。もし誰かに、この顔がクリムゾフィアの素顔と同一人物だと気づかれたら――。
いや、そんなことはあり得ない。あり得てたまるか。自分の顔とクリムゾフィアの顔は、似ているようでいて、どこか違う。少なくとも自分ではそう思いたかった。実際のところ、その境界線がどこにあるのか、叶自身にもよく分かっていなかったのだが。
電車が駅に着くたびに、乗客の何人かがスマホを覗き込んでいるのが目に入る。その中の何人が、あの映像を見ているのだろう。考え始めると、キリがなかった。
ふと、車内アナウンスの声すら、いつもより大きく耳に響く気がした。何もかもが普段通りのはずなのに、自分の内側だけが、昨日とはまるで違う場所に立っているような感覚があった。
自分に言い聞かせながら、叶は職場へと足を向けた。
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「叶、なんか今日ぼーっとしてない?」
昼休み、向かいの席から石井春樹が声をかけてきた。同期入社以来の付き合いで、叶の私生活のあれこれを一番よく知っている男だ。
「いや、別に。ちょっと寝不足なだけ」
「またそれか。お前、無理してるとすぐそう言うよな」
石井は呆れたように笑いながら、コンビニ弁当の蓋を開けた。付き合いの長さゆえか、こういう時の石井の勘は妙に鋭い。深追いはしてこないが、だからこそ余計に、隠し事をしている後ろめたさが募る。
「そういや、お前が推してるVTuberのやつ、なんかバズってなかった?昨日、うちの後輩が騒いでたぞ。『クリムなんとかって奴の配信が凄いことになってる』って」
叶は箸を止めた。
「……見たのか?」
「いや、見てはないけど。お前ああいうの好きだったよな。良かったじゃん、推しがバズって」
何の他意もなく笑う石井を前に、叶は曖昧に頷くことしかできなかった。良かった、で片付けられる話ではないのだが、それを説明する術も、する気力もなかった。
良かった、という言葉が、思いのほか胸に残った。石井は何も知らない。ただ純粋に、友人が好きなものが評価されたことを喜んでくれている。その善意が、今の叶には少しだけ重かった。もし本当のことを話したら、この善意はどんな顔に変わるのだろう。
「まあ……うん。嬉しいよ、それは」
それだけは、噓ではなかった。ただ、その「嬉しさ」の中に、どれだけの後ろめたさが混ざっているか、それを石井に知られるわけにはいかなかった。
昼休みが終わり、石井が席を立った後も、叶はしばらく箸を止めたまま、空になった弁当の容器を見つめていた。
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その夜、配信活動用に使っているメールアドレスに、一件の通知が届いた。
普段はファンレターめいた感想か、企業からの型通りの営業メールくらいしか届かないアドレスだ。だが今回のメールは、件名からして毛色が違った。
布団の中でスマホを操作していた叶は、通知の文字列を見た瞬間、一気に目が覚めた。今日一日、ずっと気を張り詰めていた分、意識だけがやけに冴えていく。
『【ご提案】コスプレモデルとしてのお仕事について』
送り主は、聞いたことのないコスプレイヤー事務所の名前だった。
恐る恐る本文を開く。
『はじめまして。突然のご連絡失礼いたします。先日のクリムゾフィア様の配信を拝見し、あまりの造形と再現度の高さに驚き、ぜひ一度お話しさせていただきたく、ご連絡いたしました。
私自身、長年コスプレ業界に携わってまいりましたが、あそこまで作り込まれた表現には、正直に申し上げてなかなかお目にかかれません。もし専属、または業務提携という形でご興味がございましたら、詳細な条件も含めてご相談させていただければ幸いです。
末筆ながら、貴殿のご活躍を陰ながら応援しております。』
文面の端々から、送り主の熱量がひしひしと伝わってくる。事務的な営業メールにありがちな薄っぺらさはなく、むしろ本気で「あの造形」を評価しているのが伝わってきて、それが余計に叶を追い詰めた。
(え、待って。本気だ、これ)
画面を二度見した。冗談か何かかと思ったが、文面は至って丁寧で、真剣そのものだった。
叶は頭を抱えた。
(いや、無理だろ。だってこれ、コスプレじゃないし。俺そもそも、コスプレなんて技術、何一つ持ってないし)
どう考えても、これは受けてはいけない話だ。技術も知識もない自分が、コスプレの専門家として仕事を受けるなど、詐欺のようなものではないか。冷静に考えれば考えるほど、断るべき理由はいくらでも浮かんでくる。
断ろう。そう決めて、返信画面を開く。指がキーボードの上を彷徨う。
『大変光栄なお話ですが――』
そこまで打って、手が止まった。
断る理由を、どう書けばいいのか分からなかった。かといって、無下に断れば、せっかく評価してくれた相手の厚意を踏みにじることになる。相手はわざわざ丁寧な文章を書いて、時間をかけて連絡をくれたのだ。それを「興味がありません」の一言で切り捨てるのは、いくらなんでも薄情すぎる気がした。
石井の「良かったじゃん」という言葉が、頭の中でこだました。
良かった、のだろうか。分からない。だが少なくとも、自分の――クリムゾフィアの姿を、誰かがこんなにも真剣に評価してくれている。それを無下にするのは、何だか申し訳ない気がしてしまう。
(でも、コスプレの技術云々を聞かれたら、絶対にボロが出る。だったら――)
頭の中で、いくつもの選択肢がせめぎ合っていた。技術がないことを認めて断る。当たり障りのない理由で誤魔化す。あるいは――。
考えれば考えるほど、行き着く先は一つしかなかった。技術を偽るのは、いずれ必ず綻びが出る。だが、「本人である」という事実そのものを盾にすれば、少なくとも技術面の追及だけは躱せるかもしれない。もちろん、それは真実のほんの一部分でしかない。「クリムゾフィアの中の人」という言葉の裏に、まさか「文字通り、あの姿そのものになる」という真実が隠れているとは、誰も想像しないだろう。
それに、と叶は思う。これまでずっと、誰にも打ち明けられずにいた。狂信者として愛してきた存在と、こんな形で繋がってしまったことを。せめて一つだけでも、誰かに「関係がある」と認めてもらえたら――そんな、まるで子供じみた願望が、胸の奥底に確かにあった。
噓をつくことへの罪悪感と、誰かに少しだけ本当のことを知ってほしいという願望。その二つが綱引きをした結果、叶の指は、後者へとわずかに傾いていった。
迷った末に、叶の指はある一線を越えることを選んだ。技術がないことを誤魔化すよりも、いっそ本当のことに近い立場を名乗ってしまう方が、まだ辻褄が合う気がしたのだ。もちろん、本当の本当のことは、口が裂けても言えないが。
気づけば、指はまったく違う文面を打ち込んでいた。
『ご連絡ありがとうございます。実は、私はクリムゾフィアの――いわゆる「中の人」にあたります。普段はこうして素顔で活動しておりますが、コスプレをいたしますと、本人と瓜二つの姿になれる、という次第でして。突然のこと、驚かれたかもしれませんが、もしそれでもご興味をお持ちいただけるようでしたら、ぜひ一度お話を伺わせていただければと思います』
書き終えた瞬間、全身から冷や汗が噴き出した。噓は言っていない。だが、真実そのものでもない。この曖昧な境界線の上に、自分は今、片足を乗せてしまった。
もし桐生という人物が、この曖昧さの奥にある本当の真実まで見抜いてしまったら。想像するだけで、指先が冷たくなる。だが同時に、後悔だけではない何かが、胸の奥にじんわりと広がっているのも感じていた。誰かに「クリムゾフィアと関係がある」と、初めて認めることができた。それがたとえ、事実の半分にも満たない告白だったとしても。
送信ボタンを押した瞬間、叶は深く長いため息をついた。
(また、やってしまった)
断れない自分に呆れながらも、どこかでこの展開を面白がっている自分もいる。矛盾した感情を抱えたまま、叶はスマホの画面を暗くして、布団に潜り込んだ。
思えば、これまでの人生もずっとこうだった。頼まれれば断れず、期待されれば応えようとし、その結果いつも、自分の意思とは関係のないところで物事が進んでいく。今回もまた、同じパターンをなぞっているだけなのかもしれない。
それでも、と叶は思う。今回だけは、これまでと少しだけ違う手触りがあった。断れなかった理由が、義務感や気遣いだけではなく、自分自身の中にある「誰かに認められた嬉しさ」だったからだ。それが良いことなのか悪いことなのか、今の叶にはまだ判断がつかなかった。
窓の外では、まだ知らぬ誰かが、クリムゾフィアの切り抜きを何度目かの再生をしていた。




