第10話満たされない器
森を抜け、街道を戻る頃には、日はすっかり西に傾いていた。
腕の中の子猫は、行きとは打って変わって、すっかり寝入っている。時折、小さく前脚を動かしては、また丸くなる。その温もりが、叶の胸の奥に、じんわりと染み込んでいくようだった。
街の門が見えてくると、待ち構えていたように、人々がわっと駆け寄ってきた。
「クリムゾフィア様!」
「ご無事で……! 森の魔物は、いかがなりましたか!」
叶が答えるより早く、傍らのオズヴァルドが、誇らしげに声を張り上げた。
「クリムゾフィア様が、見事に手懐けられた! これで、収穫祭も憂いなく迎えられよう!」
その一言に、通りが沸いた。歓声が、波のように広がっていく。誰かが笑い、誰かが涙ぐみ、誰かが両手を合わせて拝むように頭を垂れる。子どもたちは飛び跳ねながら、腕の中の子猫を覗き込もうと群がってきた。
「わあ、ねこ! クリムさまがつかまえたの?」
「そう見えるが、実際は……いや、まあ、そうだな」
曖昧に答えながら、叶は、押し寄せる人々の顔を、一人一人、見るともなく見ていた。
露店の主人が、飛び切りの果実を摘み出し、「どうぞ、これは店からのお礼です」と押し付けてくる。老いた男が、震える手で杖を突きながら近づき、「これでもう、森に近づけますな」と、安堵に胸を撫で下ろすように何度も頭を下げた。井戸端にいた女たちは、揃って手を叩き、「さすが我らが領主様!」と口々に声を上げている。
誰の顔にも、作り物めいた愛想笑いなど、どこにもなかった。ただ純粋に、安堵し、喜び、感謝している。その感情の一つ一つが、叶の胸の奥深くへと、否応なく染み渡っていく。
(これ……)
喉の奥に、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
現代で、叶はずっと「いい人」であろうとしてきた。頼まれれば断らず、求められれば応え、誰かのために動き続けてきた。だが、その先にあったのは、感謝どころか、当たり前のように扱われる日々だった。尽くせば尽くすほど、すり減っていく自分。誰も、その労力の重さになど、気づきもしなかった。上司も、同僚も、かつての恋人でさえも。
それなのに、ここでは――たった一匹の魔物を手懐けただけで、これほどまでに。
「本当に、ありがとうございます、クリムゾフィア様」
先ほど森へ向かう道すがら、荷物を拾ってやった女性が、目に涙を溜めながら、深く頭を下げてくる。
「うちの子も、この街も……クリムゾフィア様がいらっしゃらなければ、どうなっていたことか」
「……いや」
答えようとした声が、思いのほか掠れた。
「大したことは、しておらぬ」
それは、謙遜のつもりで言ったわけではなかった。本当に、大したことなどしていない。ただ、必死に「クリムゾフィア」を演じただけだ。それなのに、こんなにも真っ直ぐな感謝を向けられて、叶は、自分でも制御しきれない何かが、胸の中で膨らんでいくのを感じていた。
(こんな顔、久しく見せてもらったことなかったな……)
鼻の奥がつんとするのを、叶は必死にこらえた。今、涙などこぼしたら、それこそ「クリムゾフィア」らしくない。分かっていながらも、抑えきれない感情の揺れが、胸の中でいつまでも渦を巻いていた。
通りの喧騒が一段落した頃、傍らのゼルギウスが、ふと何かに気づいたように、顔を上げた。
「――しまった」
「どうした」
「クリムゾフィア様。すっかり失念しておりました。本日、王城より登城の命が下っておりました。五大家の会合が、間もなく始まる刻限にございます」
その言葉に、叶の背筋が、すっと冷えた。
(五大家の……会合)
オズヴァルドから話には聞いていた。だが、実際にその瞬間が迫っていると告げられると、途端に現実味を帯びて迫ってくる。
「他の御当主様方も、既に王城へ向かわれているとの由。急ぎませぬと」
ゼルギウスの声には、僅かな焦りが滲んでいた。
「わかった。急ごう」
努めて平静を装いながら、叶は頷いた。オズヴァルドが、深々と一礼する。
「クリムゾフィア様。此度のご恩、この街の者、生涯忘れませぬ。どうか、良き会合になりますよう」
オズヴァルドの目尻には、うっすらと涙の膜が張っていた。長く生きてきた文官が、それでもなお、こんな些細なことに心を動かされている。その姿を見て、叶の胸に、また熱いものがこみ上げてくる。
「うむ。……世話になった」
短い一言に、収まりきらないほどの感情を押し込めながら、叶は頭を下げた。クリムゾフィアらしからぬ仕草だったかもしれない。だが、今はそれでいいと思えた。
周囲に集まった住民たちも、口々に別れの言葉を投げかけてくる。
「またいらしてください、クリムゾフィア様!」
「収穫祭には、必ず……!」
その声の一つ一つに小さく頷き返しながら、叶はゼルギウスとともに、街の門へと足を向けた。
腕の中の子猫が、ふと目を覚まし、小さくあくびをする。そして、するりと腕から抜け出すと、当然のように叶の肩へとよじ登り、そこに落ち着いてしまった。
「お前……」
まるで、最初からそこが自分の居場所だと言わんばかりの、迷いのない仕草だった。ゼルギウスが、それを見て小さく笑う。
「見事に懐いておりますな。クリムゾフィア様の器の大きさに、獣もまた惹かれるのでございましょう」
「いや、そんな大層なものでは……」
肩の上で丸くなった子猫の重みを感じながら、叶は、王城へと続く道を見据えた。
街を抜け、遠く霞む城壁の向こうに、五大家の当主たちが、既に集っているはずだった。
(これから、私は何を演じればいい……)
高揚と不安が、胸の中でない交ぜになったまま、叶の足は、しかし止まることなく、前へと進んでいった。




