第11話それぞれの視点
◆オズヴァルド
森の入り口でクリムゾフィア様たちを見送った後も、オズヴァルドはしばらくその場を動けずにいた。骨の髄まで染み渡るような、あの重い唸り声の余韻が、まだ耳から離れない。老いて久しい体は、もはや脈打つこともなく、心臓の高鳴りすら感じないはずだったが、それでも今は、どこか落ち着かない心地がしていた。
木こりたちから聞いていた話でも、あそこまでとは思っていなかった。地を這うような唸り声、若木をへし折る尻尾の一振り――正直なところ、頼んでおきながら、内心では生きた心地がしなかった。
(やはり、無理を申し上げてしまったか……)
書類の束を抱えたまま、何度も同じ問いを己に投げかける。騎士団を差し向ける余力さえない、この地の懐事情。誰かに頼らねばならぬのなら、結局はあの御方に縋るしかない。分かってはいたが、それでもなお、胸の内には拭いきれない後ろめたさがあった。
だが、クリムゾフィア様は、いつものように「否」とは仰らなかった。あの方は、いつだってそうだ。困り事を差し出せば、たとえ無謀に思えることでも、決して見過ごさない。まだ幼かった頃、小さな体で必死に統治の学問と向き合っていた姿を、オズヴァルドは今もよく覚えている。あの頃から、この方の本質は何一つ変わっていない。
剣を抜こうとしたゼルギウスを片手で制し、たった一言、名乗りを上げただけであの巨躯を跪かせた姿を目にした時、オズヴァルドは思わず息を呑んだ。長くこの地を見守ってきたつもりでいたが、あの御方の底知れなさには、未だに驚かされてばかりだ。
(この分なら、収穫祭も無事に迎えられよう)
白い子猫を抱えて森を出るクリムゾフィア様の後ろ姿を見つめながら、オズヴァルドは胸の裡で、静かに安堵の息をついていた。同時に、また一つ、あの方に借りを作ってしまったという思いも、拭いきれずにいた。
(せめて、この重荷に見合うだけの実りを、この地にもたらさねば)
街道に戻る道すがら、オズヴァルドは腹案を一つ、また一つと練り始めていた。収穫祭の折には、討伐の顛末を包み隠さず民に伝え、あの御方の威光をより一層知らしめる好機とすることもできよう。文官としての性か、危機が去った途端に、頭は早くも次の算段へと動き出していた。
わずかに軽くなった足取りで、オズヴァルドは帰路についた。空を見上げれば、日はまだ随分と高く、木々の梢の向こうに、穏やかな光が降り注いでいた。
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◆ゼルギウス
剣の柄に手をかけた瞬間、体は勝手に動いていた。牙の奥が、じん、と疼く。危機を前にした時だけ疼くこの感覚は、吸血鬼の血に刻まれた、抗いようのない本能だった。
主の御前に立ち塞がる魔物――その巨躯を目にした刹那、頭の中にあったのは、ただ一つ。この身に代えても、主を守る。それだけだった。
(我が命など、いくらでも差し出そう。主のためならば)
それは、生まれ落ちたその日から、ゼルギウスの血に刻まれてきた掟だった。一族の誓約。血脈を通じて代々受け継がれてきた、絶対の主従。だが、掟だからというだけでは、とうに説明のつかないものへと変わっていた。
幼い頃、まだ右も左も分からなかった自分に、初めて優しい言葉をかけてくれたのは、他ならぬクリムゾフィア様だった。従者としてではなく、一人の存在として、まっすぐに向き合ってくれた。他の貴族の子弟たちが、従者を道具のように扱う中で、あの御方だけは違った。あの時の温もりを、ゼルギウスは今も忘れていない。
だからこそ、剣を振るおうとしたその手を、主自らに止められた瞬間には、僅かな戸惑いがあった。
(何故、止められる。私如きが出しゃばるまでもないと、そう仰るか)
抜きかけた剣が、宙で止まる。屈辱にも似た感情が、一瞬だけ胸をよぎった。だが、続く光景を目にして、その戸惑いは、すぐさま畏敬へと塗り替えられた。
言葉のみで、あれほどの魔物を跪かせる。武においては何人にも劣らぬはずのゼルギウスでさえ、あの威圧の前では、ただ立ち尽くすことしかできなかった。声を荒らげるでもなく、ただ静かに名乗りを上げただけで、森全体の気配が塗り替えられていく様を、この目でしかと見た。
(やはり、主に不可能などない)
確信は、また一つ、深まった。同時に、いつか自分もあのように、力に頼らず何かを成し遂げられる日が来るのだろうかと、柄にもない憧れが胸の奥にちらついた。
もふもふとした毛並みを撫でるクリムゾフィア様の横顔を見つめながら、ゼルギウスは静かに、剣を鞘へと納めた。
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◆手懐けられた魔物
――久方ぶりに感じる「格」だった。
この森に棲みついてから、幾度となく、己より弱き者たちの怯えを見てきた。人間も、獣も、皆一様に、目を合わせることすら億劫がって逃げていく。それに慣れきっていた。牙を剥けば逃げ、唸れば伏す。それが、この森における秩序の全てだった。
だから、真正面から歩み寄ってくる小さな影に、最初は苛立ちしか覚えなかった。踏み潰してやろうか、とさえ思った。傍らに控える二匹――剣を提げた者と、書類を抱えた者――など、歯牙にもかけていなかった。
だが、声を聞いた瞬間、全身の毛が逆立った。
それは、久しく忘れていた感覚だった。上位者の気配。抗うことすら許されぬと、本能が理解してしまう類の重み。かつて、この森の外れで一度だけ感じたことのある、途方もない存在感の残響。
(この者……何者だ)
姿形は、取るに足らぬ人間の一つに過ぎない。だというのに、纏う気配だけは、まるで別物だった。何かが、ちぐはぐだった。上位者の威圧の奥に、ほんの僅かに――怯えにも似た、不慣れな揺らぎが滲んでいる。それに、内心では誰よりも戸惑っているようにも思えた。まるで、その力の使い方すら、手探りであるかのように。
それでも、跪くしかなかった。理屈ではない。もっと根源的な部分が、そう命じていた。四肢の力が、勝手に抜けていく。
温かな手が、毛並みを撫でる。悪くない、と思った。この者になら、しばらく付き従ってもいい。そんな気まぐれを、久方ぶりに抱いた。身の内に渦巻いていた獣性が、まるで潮が引くように静まっていくのを、己自身、どこか他人事のように感じていた。
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◆四大貴族
「――なあ、今の感じたか」
ライハルトが、円卓に広げていた地図から顔を上げた。窓の外はまだ明るく、穏やかな昼下がりだったはずだ。だというのに、室内の空気は一瞬にして張り詰めていた。
「ええ。エーレンフルト方面から、見慣れぬ揺らぎが」
ヨナスが、静かに応じる。手元の水晶が、これまで見たことのない曇り方をしていた。彼はそれを指先で軽く撫でながら、眉間に微かな皺を寄せる。長い耳が、思案するようにぴくりと動いた。
「イレギュラーな転移なんて、初めてじゃないか。クリムの身に、何かあったのかい」
ヴィオラが、珍しく笑みを引っ込めて、僅かに眉を寄せる。普段の飄々とした調子が鳴りを潜め、代わりに硬質な緊張が滲んでいた。その瞳が、微かに金色を帯びる。
「大事ないといいのですけれど……」
エリーゼだけが、他の三人よりも幾分か沈んだ声で呟いた。彼女の指先が、無意識に胸元を押さえている。背中のあたりが、ほんの僅かに、淡く発光していた。神事を司る一族の血が、何かを察知しているのかもしれない。
「心配しすぎだって、エリーゼ。あいつがどうにかなるわけないだろ」
ライハルトが、豪快に笑い飛ばす。だが、その額には、うっすらと紋様のような痕が浮かんでいた。笑みの奥に隠しきれない案じる色が滲んでいるのは、誰の目にも明らかだった。
「まあ、実際、これまで一度たりとも取り乱したところなど見たことがありませんし」
ヴィオラの言葉に、ヨナスが小さく頷く。だが、その相槌にも、どこか言い含めるような響きがあった。
「ですが……近頃、あの方の気配に、僅かながら見慣れぬ揺らぎを感じることがあります。気のせいであればよいのですが」
その一言に、束の間、円卓に沈黙が落ちた。窓の外を、一羽の鳥が横切っていく。
「――まあ、なんにせよ。会合の日には戻ってくるだろうさ」
ライハルトが、努めて明るくそう締めくくる。だが、誰もその言葉に、心から頷くことはできなかった。
四人はそれぞれの胸に、拭いきれない小さな懸念を抱えたまま、迫りくる会合の刻限を待つことになった。




