75話日常の欠片
大会の熱気も落ち着き、叶の生活は、少しずつ穏やかな日常を取り戻していった。
会社では、久しぶりに落ち着いたペースで仕事に向き合えていた。溜まっていた書類を片付け、取引先への挨拶回りをこなす。忙しさの質が、大会期間中とはまるで違っていた。
朝一番、叶は自席でパソコンを立ち上げ、溜まっていたメールに目を通した。大会期間中、後回しにしていた案件がいくつか残っていたが、一つひとつ丁寧に処理していく余裕が、今の自分にはあった。
「――さて、今日はどこから片付けるか」
独り言ちながら、優先順位をつけていく。かつては目の前の業務に追われるばかりだったが、この一ヶ月で培った索敵と采配の感覚が、思わぬところで仕事にも活きているような気がした。
「笹川、例の案件の見積もり、確認しといてくれ」
係長の雫石から声をかけられ、叶は素直に頷いた。
「はい、午後には出せると思います」
「頼むぞ。……お前、最近調子良さそうだな」
雫石の何気ない一言に、叶は少し驚いた。上司からもそう見えるほど、自分の変化は分かりやすいものになっているらしい。
「そうですか? 特に変わったつもりはないんですが」
「いや、目に力あるし、報告書も前より簡潔で分かりやすくなった。良いことだ」
雫石は愛猫家らしく、机の端に小さな猫の写真立てを置いている。その視線がふと写真に向いたのを見て、叶は思わず口元を緩めた。自分にも、似たような存在がいることを思いながら。
「雫石さんのところの猫、元気ですか?」
叶がふと尋ねると、雫石の表情がぱっと明るくなった。
「ああ、元気元気。最近、新しいおもちゃにドハマりしてな」
それから雫石は、しばらく愛猫の近況を嬉しそうに語り続けた。普段は寡黙な係長のこの一面を見るたび、叶はどこか親近感を覚えずにはいられなかった。
昼休み、いつものように缶コーヒーを片手にやってきた石井が、しみじみとそう言った。
「なあ叶、最近また表情柔らかくなったよな」
「そうか?」
「そうだよ。前も似たようなこと言った気がするけど、また一段階、雰囲気変わった感じがする」
叶は苦笑しながら、曖昧に頷いた。石井には詳しい事情を話せないが、こうして変化に気づいてもらえることが、素直に嬉しかった。
「まあ、色々あってな」
「まーた、その言い方かよ。いつか詳しく聞かせろよな」
石井の軽口に、叶は思わず笑ってしまった。
「そういえば、部長がまた今度、部署の飲み会企画してるらしいぞ」
石井の言葉に、叶は少し身構えた。永峰部長の飲み会は、いつも豪快で、気づけば思わぬ大人数になっていることが多い。
「――また随分と、太っ腹な話だな」
「だろ? 永峰さんらしいっちゃらしいけど」
そんな他愛のない話に花を咲かせながら、叶は久しぶりに、何の気負いもない昼休みを味わっていた。大会期間中は、こうした何気ない時間すら惜しむほどに忙しかった。改めて、今のこの穏やかさが、どれだけ貴重なものかを実感する。
午後の仕事も、思いのほか順調に進んだ。取引先との電話対応、書類のチェック、後輩への簡単な指導――どれも、これまでと変わらない日常の一コマだった。だが、そのありふれた一つひとつが、今の叶には、不思議と愛おしく感じられた。
夕方、後輩の一人が、書類の書き方について相談を持ちかけてきた。
「笹川さん、この報告書、ちょっと見てもらえますか?」
「ああ、いいぞ」
叶は丁寧に目を通し、改善点をいくつか指摘した。かつては自分自身、こうした基本的な部分でつまずいていたことを思い出す。
「――要点を先に書くと、読み手にも伝わりやすくなる。細部はその後で補足すればいい」
「なるほど、ありがとうございます!」
後輩が嬉しそうに頷く姿に、叶も自然と笑みがこぼれた。誰かの力になれるということが、これほど心地よいものだとは、改めて実感させられる瞬間だった。
定時になり、叶は帰り支度を始めた。窓の外はすでに夕暮れに染まり、オフィスの喧騒も少しずつ落ち着きを見せている。
夜、自室に戻ると、叶はいつものように配信の準備を始めた。今日は特に大きな企画もない、ただの雑談配信だ。
「――さて、今夜は何を話そうか」
膝の上でラヴィが丸くなる中、叶はゆったりとした気持ちで配信を開始した。
「今日は、特に予定もない、のんびりとした配信にしようと思う」
『珍しい、まったり回だ』
『こういうのも良いよね』
『大会、お疲れ様でした』
コメント欄には、温かい労いの言葉が並んだ。叶はそれを一つひとつ噛み締めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「この一ヶ月、色々なことがあった。大会という大きな挑戦、新しい仲間との出会い――どれも、これまでの自分では経験できなかったことばかりだ」
叶は、膝の上のラヴィの背をそっと撫でながら続けた。
「だが、こうしてただの日常を過ごせることも、同じくらい大切なことなのだと、改めて感じている」
『クリム様、しみじみしてる』
『大会の後だからこそ響く言葉だ』
『ゆっくり休んでくださいね』
視聴者たちの温かい反応に、叶は静かに微笑んだ。
配信の途中、ラヴィがふと大きな欠伸をして、画面の前をゆっくりと横切った。「にゃあ」と一声鳴くと、そのまま画面端に丸くなる。
『ラヴィちゃん久しぶり!』
『相変わらず可愛い』
『まったり配信にラヴィちゃんは反則』
ラヴィは、そんな反応など我関せずといった様子で、叶の膝の上で大きく伸びをすると、再び丸くなった。
「相変わらず、マイペースな奴だ」
叶が苦笑すると、コメント欄がまた温かく沸いた。
ふと、配信画面の隅に表示されている登録者数が目に留まった。何気なく確認したその数字に、叶は思わず目を疑った。
「――え、待て」
表示されていたのは、「200万人」という数字だった。
「いつの間に……」
驚きのあまり、思わず素の言葉が漏れる。大会前後の慌ただしさに追われ、正直なところ、登録者数の推移をまともに確認する余裕すらなかった。気づけば、大きな節目をとうに超えていたらしい。
『え、200万人突破してたのか!?』
『気づいてなかったんだ、クリム様w』
『おめでとうございます!!』
『これは記念配信待ったなし』
コメント欄が、一気に祝福ムードに包まれた。叶は、しばらく呆然と数字を見つめたあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「――皆、ありがとう。正直、気づいていなかった自分が情けないが……こんなにも多くの者に見守ってもらえていたとはな」
胸の奥に、じんわりとした温かさが広がっていく。100万人という節目を超えた時のことを、叶はふと思い出した。あの日から今日まで、本当に色々なことがあった。
「――よし、決めた」
叶は、静かに、しかし力強く続けた。
「次の配信では、きちんと日を改めて、200万人記念の枠を取ろうと思う。今日はまだ心の準備ができていないのでな」
『準備不足でも良いから今すぐやってほしいまであるw』
『記念配信楽しみにしてます!』
『気づいてなかったの含めてクリム様らしい』
コメント欄の温かい反応に、叶は照れくささを覚えながらも、静かに頷いた。
「――ゆっくりと、良い記念配信にできるよう考えておく。皆も、楽しみにしていてくれ」
配信の終わり、叶は静かに締めの言葉を紡いだ。
「今日は、特に大きな話をするつもりはなかった。ただ、皆にも――この穏やかな時間を、少しでも共有できていたら嬉しい」
配信を終えたあと、叶はラヴィを抱き上げながら、窓の外を見つめた。夜空には、いくつかの星が瞬いている。
「――大会の次は、何が待っているんだろうな」
答えのない問いを呟きながら、叶はラヴィの温もりを、静かに感じていた。特別な出来事のない、ただの日常。それでも、この時間こそが、これからの物語を支える確かな土台になるのだと、叶は静かに実感していた。
膝の上で丸くなったラヴィが、小さく寝息を立て始める。その規則正しい呼吸のリズムに耳を傾けながら、叶はしばらく、そのまま動かずにいた。
明日もまた、いつも通りの一日が始まる。会社に行き、仕事をこなし、夜には配信をする。特別なことは何もないかもしれない。それでも、こうした積み重ねの先に、次の記念配信が、そしてまだ見ぬ未来が待っているのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「――さて、そろそろ寝るとするか」
小さく呟き、叶はラヴィを抱いたまま、静かに寝室へと向かった。今日という一日の終わりが、明日への確かな一歩になることを、叶は静かに信じていた。




