74話ラヴィと神社
「――今日は、少し遠出をしてみるか」
休日の朝、叶はふと思い立って、ラヴィをキャリーバッグに入れることにした。特に用事があるわけではなかったが、たまには外の空気を吸わせてやりたいと考えたのだ。
「大人しくしていてくれよ、ラヴィ」
キャリーバッグに入れられたラヴィは、最初こそ落ち着かない様子で鳴いていたが、しばらくすると諦めたのか、大人しく丸くなった。
電車に揺られながら、叶はふと不安を覚えた。ラヴィはただの猫ではない。異世界から渡ってきた、正体不明の存在だ。人混みの中で何か異変が起きないか、内心では気を張っていた。
だが、少し考えてみると、その不安は次第に薄れていった。
(――そもそも、世の中に猫は何匹いるんだろうな)
白い猫など、探せばいくらでもいるはずだ。仮に配信で「ラヴィ」という猫の存在をちらりと語ったことがあったとしても、それを見た誰かが、街中で偶然すれ違った一匹の白猫を見て「これがあの猫だ」と特定できる可能性は、限りなくゼロに近いだろう。無数の白猫の中から、たった一匹を言い当てることなど、常識的に考えて不可能に近い。
(それに――)
叶は、自分自身の姿にも思い至った。今の自分は、変身していない、ただの笹川叶だ。クリムゾフィアの姿とは似ても似つかない。連れている猫がどれだけ特別な存在であろうと、それを見て「これはクリムゾフィアの飼い猫だ」と結びつけられる人間など、いるはずもなかった。
(――考えすぎていたな、俺は)
そう結論づけると、肩の力がすっと抜けていくのを感じた。これからは、もう少し気楽に、ラヴィを外に連れ出してやってもいいのかもしれない。そんな前向きな気持ちが、胸の中に静かに広がっていった。
だが、そんな心配をよそに、ラヴィはキャリーバッグの中で静かにしていた。時折、外の音に耳をぴくりと動かす以外は、ただの大人しい白猫にしか見えない。
電車を降り、叶はまず、駅前にあるペットショップに立ち寄ることにした。ラヴィの首輪が、そろそろくたびれてきていたのだ。
「新しいのを見繕ってやろう」
キャリーバッグの隙間からラヴィを覗かせながら、店内を回る。カラフルな首輪や玩具が所狭しと並ぶ中、叶はまず、猫じゃらしのコーナーで足を止めた。
「こういうのも、たまには遊んでやらないとな」
羽根つきの猫じゃらしを手に取り、軽く振ってみせる。ラヴィは、キャリーバッグの中から興味深そうにその動きを目で追っていたが、特に食いつく様子はなかった。
「――お前には、ちと子供っぽかったか」
苦笑しながら棚に戻すと、次はおやつのコーナーへと足を向けた。様々な種類のおやつが並ぶ中、叶は成分表示を一つひとつ確認しながら、慎重に選んでいく。
「これなんかどうだ、上質な鰹節が入ってるらしいぞ」
パッケージを見せると、ラヴィは鼻をひくつかせ、明らかな興味を示した。
「よし、これも買っていこう」
カゴに数点を追加してから、叶は改めて首輪のコーナーへと向かった。カラフルな首輪や玩具が所狭しと並ぶ中、ラヴィは意外にも一つの品に目を留めた。深い赤色をした、上品な首輪だった。
「――ほう、これがいいのか」
その色合いは、どこか異世界の統治者の衣装を思わせる、気品のある赤だった。叶は思わず苦笑した。
「お前、趣味が良いな」
店員に見繕ってもらい、その場でラヴィの首に着けてやる。鏡に映る自分の姿を、ラヴィはしばらくじっと見つめていた。満更でもない様子に、叶は思わず頬を緩めた。
「よく似合ってるぞ」
新しい首輪を着けたラヴィを連れて、叶は次の目的地へと向かった。近所にできたばかりの猫カフェの前を通りかかったのだ。ガラス越しに、何匹もの猫たちがくつろいでいる様子が見える。
「――お前、ああいう場所は苦手か?」
キャリーバッグ越しに問いかけると、ラヴィはガラスの向こうを興味深そうに見つめていた。だが、特に反応らしい反応は見せず、すぐに視線を逸らした。
「まあ、お前は特別だからな」
その独り言には、少しの誇らしさが混じっていた。
猫カフェを後にし、しばらく歩いていると、道の向こうから小さな子供が母親の手を引きながら、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「わあ、猫ちゃん!」
キャリーバッグから顔を覗かせるラヴィを見つけたのだろう。子供は目を輝かせながら、興味津々といった様子で近づいてきた。
「――触っても、大丈夫ですか?」
母親が、恐縮した様子で尋ねてくる。叶は少し迷ったが、ラヴィの様子を窺うと、特に嫌がる素振りは見せていなかった。
「ああ、大丈夫だ。優しくな」
子供が、小さな手でそっとラヴィの頭を撫でる。ラヴィは、くすぐったそうに目を細めながらも、大人しく撫でられるままになっていた。
「ふわふわだね!」
無邪気な笑顔に、叶も自然と頬が緩んだ。母子と別れたあと、叶はラヴィの頭を軽く撫でてやった。
「――お前も、案外人懐っこいところがあるんだな」
ラヴィは、答えるように小さく鳴いた。
少し歩き疲れたところで、叶は通りがかったオープンテラスのカフェに立ち寄ることにした。ペット同伴可能な席を選び、腰を下ろす。
「――少し休憩といくか」
注文したアイスコーヒーが運ばれてくると、叶はキャリーバッグのファスナーを少しだけ開け、ラヴィに新鮮な空気を吸わせてやった。テラス席には他にも犬を連れた客がいて、ラヴィはその様子を興味深そうに観察していた。
「お前、犬は初めて見るか?」
問いかけに、ラヴィは小さく身を乗り出し、遠くの犬をじっと見つめている。警戒しているというよりは、純粋な好奇心といった様子だった。
しばらく涼をとったあと、叶は会計を済ませ、再び歩き出した。
公園を通りかかったところで、叶はベンチに腰掛け、キャリーバッグを膝の上に置いた。少しの間だけ、と自分に言い聞かせながら、ファスナーを開けてやる。
「――少しだけだぞ」
ラヴィは、恐る恐るといった様子で顔を出し、周囲の匂いを嗅いだ。都会の喧騒とは無縁の、穏やかな公園の空気。木々の葉が風に揺れる音、遠くで遊ぶ子供たちの声。ラヴィは、しばらくその全てを味わうように、じっと辺りを見回していた。
「気に入ったか?」
問いかけに応えるように、ラヴィは叶の膝の上で丸くなり、満足げに目を細めた。その姿を見て、叶の胸に温かいものが広がった。
しばらくすると、ラヴィは膝の上から降り、リードの範囲内で辺りを探索し始めた。地面に落ちた葉っぱに前足でちょんちょんと触れ、風に舞う小さな虫を目で追いかける。その一つひとつの仕草が、あまりにも自然な猫のそれで、叶は思わず笑ってしまった。
「――お前、本当にただの猫みたいだな」
その言葉に、ラヴィがぴたりと動きを止め、こちらを見上げてきた。まるで「それの何が悪い」とでも言いたげな、少し不満そうな目つきだった。
「いや、悪い意味ではないぞ。むしろ、こういう姿が見られて嬉しいくらいだ」
叶が慌てて訂正すると、ラヴィは満足したのか、再び葉っぱとの戯れに戻っていった。
噴水の近くを通りかかると、水面がきらきらと日差しを反射していた。ラヴィはその輝きに興味を惹かれたのか、身を乗り出して水面を覗き込む。
「――落ちるなよ」
叶が慌てて抱き上げると、ラヴィは名残惜しそうに水面を見つめながらも、大人しく腕の中に収まった。
池のほとりのベンチに腰掛け、叶は持参した水筒でお茶を一口飲んだ。ラヴィにも、折りたたみ式の携帯用ボウルに水を注いでやる。
「ほら、お前も一息つけ」
ラヴィは、こくこくと水を飲むと、満足げに喉を鳴らした。そのまま日向に寝そべり、うとうとと目を閉じ始める。
異世界からやってきた、数千年後には街を破壊しうるほどの力を秘めた存在。だが今この瞬間は、ただの一匹の、飼い主に甘える猫でしかなかった。
「――お前がこうして、穏やかにいてくれるなら、それでいい」
誰に言うでもなく、叶はそう呟いた。ラヴィがどんな存在であろうと、この温もりだけは、変わらない事実だった。
「――そうだ」
ふと思い立ち、叶はキャリーバッグを抱え直した。公園の近くに、小さな稲荷神社があったことを思い出したのだ。せっかくだから、少し足を伸ばしてみようか――そんな軽い気持ちだった。
鳥居をくぐると、境内はひっそりと静まり返っていた。参拝客の姿もまばらで、赤い鳥居の連なりが、木漏れ日の中で穏やかな陰影を描いている。
賽銭を投げ、手を合わせたその時だった。
視界の端、境内の奥――普段なら誰も気に留めないような社の陰に、一瞬だけ、人ならざる気配が揺らいだ。狐の耳を持つ、白い装束の人影のようなもの。それは、こちらに気づいた途端、はっとしたように身を強張らせた。
「――ん?」
叶が目を凝らそうとした時には、その姿はすでに掻き消えていた。だが、驚いたような、それでいてどこか畏まったような気配だけが、確かに残っていた。
キャリーバッグの中で、ラヴィがふるりと身じろぎした。まるで、今の気配に気づいていたかのように。
(――今のは、何だったんだ)
叶は首を傾げながらも、深くは考えないことにした。異世界に縁のある身だ、こういう不思議は今更珍しくもない。
だが、その社の陰に潜んでいた小さな神は、参道を去っていく二人の後ろ姿を、しばらく呆然と見送っていた。
(――今の気配、まさか)
行き交う人間には決して感じ取れぬほどの、深く静かな加護の残り香。それは、稲荷という系譜の中でも、格別に高い位にある神からのものだった。かの神からの加護をその身に纏う者など、そうそう見かけるものではない。
(一体、何者だ、あの二人は……)
驚きは、加護の一点だけに留まらなかった。小さな神は、去っていく白い獣の姿を、目を凝らして見つめ直した。
(――あの獣、只者ではないな)
毛並みこそ、ただの白猫にしか見えない。だが、その奥に潜む気配は、神聖とも禍々しいとも判じ難い、異質な力の揺らぎを孕んでいた。長きにわたり境内を守ってきた小さな神をもってしても、あれが一体何の獣なのか、正体を見極めることはできなかった。
(あの人間の方も、な……)
視線は、獣を連れた人間の方にも向けられていた。表向きは、どこにでもいる一人の青年だ。だが、その内側には、確かな力が渦を巻いて眠っている。人ならざるものを内に宿しながら、平然と日常を歩いている――そんな危うい均衡が、小さな神の目には透けて見えていた。
(力を内に秘めた人間、正体の知れぬ獣……本来なら、警戒すべき組み合わせのはずだが)
それでも、小さな神が抱いたのは、恐れよりも困惑だった。あれほどの加護を纏っていながら、悪意や邪心の類は、微塵も感じ取れなかったからだ。むしろ、纏う気配は不思議なほど穏やかで、慈しみに満ちていた。
(――あの加護を授けし御方が、悪しき者にお力添えするはずもあるまい)
その結論に、小さな神はようやく胸を撫で下ろした。だが同時に、あの二人組への興味は、むしろ深まるばかりだった。
小さな神は、しばし境内の片隅で、その余韻に浸っていた。
夕暮れ時、二人は再び家路についた。キャリーバッグの中で、ラヴィは満足げに眠っていた。今日という一日が、ラヴィにとっても、良い息抜きになっていたなら――そんなことを思いながら、叶は静かに歩みを進めた。
帰り道、スマートフォンが小さく震えた。画面を確認すると、以前応募していた懸賞の当選通知だった。
『――ご当選おめでとうございます!』
文面を見て、叶は思わず目を丸くした。応募したことすら、正直忘れかけていたささやかな懸賞だった。景品は、地方の名産品の詰め合わせ。決して大きなものではなかったが、今日という一日の締めくくりには、ちょうどいい小さな幸運だった。
「――なあ、ラヴィ。今日はついてる日だったみたいだぞ」
キャリーバッグの中を覗き込むと、ラヴィは薄目を開けて、こちらをじっと見つめてきた。まるで「知っていた」とでも言いたげな、涼しい顔だった。
「――お前が何かしたわけじゃ、ないよな?」
問いかけには、当然答えは返ってこない。だが、その澄ました表情が妙におかしくて、叶は思わず声を上げて笑ってしまった。夕暮れの帰り道、その笑い声だけが、いつまでも穏やかに響いていた。




