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73話休日とラヴィ


 大会を終えてから、初めての完全な休日だった。


 叶は朝からゆっくりと目を覚まし、いつもより長くベッドに横たわっていた。窓から差し込む光が、心地よく肌を撫でる。隣では、ラヴィが丸くなったまま、まだ眠りの中にいた。


 カーテンの隙間から漏れる朝日が、床にゆっくりと帯を描いていく。どこか遠くで、鳥の鳴き声がのんびりと響いていた。目覚まし時計を確認する必要もない。急ぐ理由も、焦る理由も、今日はどこにもなかった。


「――今日は、何も予定がないんだったな」


 誰に言うでもなく呟くと、その声に反応してか、ラヴィがぴくりと耳を動かした。薄目を開け、大きな欠伸をする。


「起きたか。おはよう、ラヴィ」


 声をかけると、ラヴィは伸びをしながら、叶の胸元へとよじ登ってきた。真っ白な毛並みが、朝日を受けてきらきらと輝いている。柔らかな毛先が頬をくすぐり、その温もりが、じんわりと胸の奥まで染み渡っていくようだった。


「――重いぞ、お前」


 そう言いながらも、叶の口元は自然と緩んでいた。この温もりを、ゆっくり味わえる時間が、今はどうしようもなく貴重に思えた。しばらくの間、二人はただそうして、まどろみの延長のような時間を分かち合っていた。


 この一ヶ月余り、正直なところ、ラヴィとゆっくり過ごす時間は少なかった。仕事、配信、練習、スクリム――目まぐるしい日々の中で、ラヴィはいつも静かに寄り添ってくれていたが、叶自身、その存在に甘えっぱなしだったという自覚があった。


「今日は、お前のための一日にするか」


 起き上がると、まずは朝食の準備から始めた。ラヴィの分の食事も、いつもより少しだけ丁寧に盛り付ける。


「ほら、食え」


 差し出された皿に、ラヴィは満足げに顔を寄せた。カリカリと小気味よい音を立てながら食べる姿を、叶はしばらく眺めていた。


 朝食を終えると、二人で――いや、一人と一匹で、のんびりとした時間を過ごした。ラヴィは日当たりの良い窓辺に陣取り、時折外を眺めては、意味ありげに鳴き声を上げる。


「何か気になるものでもあるのか?」


 問いかけても、当然返事はない。だが、ラヴィの視線を追ってみると、ベランダの外を横切る野良猫の姿があった。


「――同族が気になるのか、お前も」


 その様子が妙に微笑ましく、叶は思わず笑ってしまった。


 昼になると、叶はラヴィをキャリーバッグに入れ、近所の商店街まで足を伸ばすことにした。せっかくの休日だ、たまには外で食べ歩きでもしようという軽い気持ちだった。


 商店街の入り口で早速買ったコロッケを頬張りながら、叶はゆっくりと通りを歩いた。ラヴィはキャリーバッグの隙間から顔を覗かせ、行き交う人々や店先の匂いに、興味津々といった様子だった。


「――お前にも、少しだけな」


 コロッケの端を小さくちぎり、そっと差し出すと、ラヴィは嬉しそうに顔を寄せてきた。それから二人は、たい焼きを分け合ったり、飲み物を買って商店街のベンチで一休みしたりと、のんびりとした昼下がりを過ごした。


 途中、古びた駄菓子屋の前を通りかかると、店先に置かれた招き猫の置物にラヴィが強い関心を示した。じっと見つめたまま、キャリーバッグの中でそわそわと落ち着かない様子を見せる。


「――お前、あれが気になるのか? それとも、対抗心でも燃やしているのか」


 叶が茶化すように言うと、ラヴィは不満げに一声鳴いた。その反応が妙におかしくて、叶は思わず声を上げて笑った。


 商店街の中ほどで、揚げたてのコロッケの匂いに誘われて、もう一つ買い足すことにした。店主のおばあさんが、ラヴィの姿に気づいて目を細める。


「あら、可愛い猫ちゃんね。人懐っこいのね」


「ええ、まあ。おかげさまで」


 叶が曖昧に答えると、おばあさんはラヴィに向けて小さく手を振った。ラヴィは、その仕草に応えるように、静かに目を細めて見せた。


「――こういうのも、悪くないな」


 特別な予定もない、ただの食べ歩き。それでも、隣にラヴィがいるだけで、いつもより世界が少し優しく見える気がした。


 昼食を終えたあと、叶はふと思い立って、商店街の奥にある魚屋まで足を伸ばすことにした。今夜の夕食に、何か良いものでもと考えたのだ。


 魚屋の店先に並ぶ品々を眺めていると、ラヴィが急に身を乗り出し、じっと一点を見つめ始めた。その視線の先には、脂の乗った立派な鮭の切り身と、丸々とした一尾の鯛が並んでいる。


「――お前、それが気になるのか」


 ラヴィは、キャリーバッグの中で身を乗り出したまま、鯛から目を離そうとしなかった。尻尾がゆらゆらと揺れているのが、興奮の証だった。


「らっしゃい! 良いのが入ってるよ、今日のは」


 店主の威勢の良い声に、叶はつい苦笑した。財布の紐が緩みそうになるのを感じながら、ラヴィの視線と店主の声、両方に押される形で、結局その立派な鯛を一尾丸ごと購入することになった。


「――ちょっとした夕食のつもりが、とんだ出費になったな」


 そう零しながらも、叶の内心は満更でもなかった。ふと、脳裏に温泉編での一件が蘇る。ラヴィは、あの時も己の身を削ってまで戦ってくれた。渡航で妖力を消耗し、苦戦しながらも最後まで諦めなかった、あの姿。


(――そういえば、まだ碌に礼もできていなかったな)


 神社での一件、ラヴィにはずっと世話になりっぱなしだった。今日くらいは、この一尾を、ささやかな礼にしても罰は当たらないだろう。


「今日は、お前のために豪勢にいくか」


 その一言に、ラヴィは待ってましたとばかりに、腕の中で満足げに喉を鳴らした。


 家に戻ると、早速台所に立ったものの、慣れない魚捌きに叶は悪戦苦闘することになった。


「――ええと、まずは鱗を落として、それから……」


 スマートフォンで捌き方の動画を確認しながら、包丁を握る手はどこかぎこちない。鱗が思わぬ方向へ飛び散り、内臓を取り出す段になると、何度も手が止まった。動画の手つきはあれほど滑らかだったのに、いざ自分でやってみると、まるで勝手が違う。


「くっ……思ったより難しいな、これは」


 台所の床にまで鱗が散らばる有様に、叶は思わず苦笑した。ラヴィは、そんな悪戦苦闘を興味深そうに見守っている。時折、待ちきれない様子で小さく鳴き声を上げた。


「もう少し待て、もう少しだ」


 骨に沿って包丁を入れるたび、身がぼろぼろと崩れそうになる。何度もやり直し、額に汗を滲ませながら、それでも叶は投げ出そうとはしなかった。


 三十分近くかけて、ようやく鯛は捌き終わった。決して綺麗な仕上がりとは言えなかったが、それでも初めてにしては上出来だった方だろう。


 半分は塩焼きに、もう半分は刺身にして、夕食の膳は思いのほか豪華なものになった。ラヴィの分も、骨を丁寧に取り除いた身を、皿に盛り付けてやる。


「――今日は、たっぷり食っていいぞ」


 差し出された皿に、ラヴィは目を輝かせながら飛びついた。夢中で頬張るその姿に、叶は思わず目を細めた。


「――お前がいてくれるだけで、随分と違うものだな」


 自分の分の刺身に箸を伸ばしながら、叶はしみじみと呟いた。異世界の統治実務、正体を隠しながらの配信活動、大会という大きな挑戦――目まぐるしい日々の中で、ラヴィの存在は、いつも静かな支えだった。今日この一尾は、その積もり積もった感謝の、ほんの一部でしかない。


 夕方、腹を満たしたラヴィを抱き上げて、叶は久しぶりにゆっくりとブラッシングをしてやった。丁寧に毛並みを整えていくと、ラヴィは気持ちよさそうに喉を鳴らす。


「今度、もっと良いブラシを買ってやろうか」


 そんな独り言に、ラヴィは薄目を開けて、こちらをじっと見つめてきた。その仕草が、まるで「今のままで十分だ」とでも言っているようで、叶は思わず頬を緩めた。


 ブラッシングを終えると、二人はソファに並んで座り、テレビをつけるでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めた。急かされることも、確認しなければならないことも、今はどこにもない。そんな時間が、これほどまでに贅沢なものだとは、今まで気づかずにいた。


 窓の外が、少しずつ茜色に染まっていく。特別な出来事は何もない、けれど何よりも満たされた一日だった。


「――こういう日も、悪くないな」


 叶の呟きに応えるように、ラヴィが小さく、満足げな声で鳴いた。


 夜が更け、寝室の明かりを落とす頃には、ラヴィはすでに叶の枕元で丸くなり、規則正しい寝息を立てていた。その寝顔を見つめながら、叶は静かに布団に潜り込んだ。


(――明日からも、また忙しくなるだろうが)


 仕事、配信、そしてこれから待ち受けているであろう新しい出来事の数々。それでも、こうして時折立ち止まり、ラヴィと過ごす何気ない時間さえあれば、きっとどんな日々も乗り越えていける――そんな確かな予感を抱きながら、叶はゆっくりと眠りに落ちていった。

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