76話見知らぬ森
配信画面に表示された数字を見て、叶は思わず言葉を失った。
『登録者数:2,000,000人突破!』
「……200万人」
呟いた声が、掠れていた。100万人を超えた夜のことは、今でも鮮明に覚えている。あの時は、まさか自分がここまで続けられるとは思っていなかった。右も左も分からないまま異世界に放り出され、無我夢中で配信を始め、気づけば毎日が視聴者との掛け合いで埋まっていった。あれから、どれだけの月日が流れただろう。
コメント欄が、次々と祝福の言葉で埋め尽くされていく。
『200万人おめでとうございます!!』
『クリム様とずっと一緒にいます』
『最初期から見てるけど、まさかここまで大きくなるとは』
『おめでとう、これからもよろしくね』
一つ一つの言葉に、目を通す余裕もないほどの勢いだった。それでも叶は、いや、クリムゾフィアの姿をした叶は、画面越しに伝わってくる温かさを、体の芯でしっかりと受け止めていた。
「……皆」
一度、言葉を切る。喉の奥が、じんと熱くなるのを感じた。
「正直に言おう。この日を迎えられるとは、思っていなかった。慣れぬ場所で、慣れぬことを始め、失敗も、恥をかいたことも数え切れぬほどあった。それでも、こうして今日まで続けてこられたのは――紛れもなく、皆のおかげだ」
コメント欄の流れる速度が、一段と増した。『こちらこそ』『泣きそう』『ありがとうクリム様』――そんな言葉が、次々と画面を埋めていく。
「うむ……らしくないな。だが、たまにはこういう日があってもいいだろう」
小さく笑い、クリムゾフィアはいつもの調子を取り戻すように、胸を張った。
「200万人。これは決して、私一人の力で辿り着けた数字ではない。皆が一人、また一人と、この場所に足を運んでくれた結果だ。心から――感謝する」
深々と頭を下げる。しばらくその姿勢を保ってから顔を上げると、コメント欄には記念スタンプやスパチャの通知が、これまで見たことがないほどの勢いで流れ込んでいた。
「おお……これはまた、ずいぶんと気前がいいな」
冗談めかしてそう言いながらも、叶の内側では、これまでにない感覚が広がりつつあった。指先がじんと痺れ、体の奥から何かがせり上がってくるような、そんな感触。
(今日は、いつもより……随分と、大きいな)
胸の内でそう感じながらも、表向きは平静を装い、配信を締めくくろうとする。
「今日という日を、私は一生忘れない。これからも、変わらずよろしく頼む」
そう言って、締めの挨拶を口にし、配信終了の操作をする。画面が静かに暗転し、コメント欄の流れが止まった。
「……ふう」
一つ、大きく息を吐く。配信が完全に閉じたのを確かめてから、椅子の背もたれに体を預けようとした、その瞬間だった。
視界が、白く滲んだ。
「――っ」
体の輪郭が溶けるように揺らぐ。慌てて画面を確認する余裕もなく、意識ごと引きずり込まれるような感覚に襲われた。
(これ、は――)
そこから先の記憶は、ひどく曖昧だ。光に包まれ、浮遊感に似た何かを感じ、そして――
*
「……っ、う」
目を開けると、そこには見慣れた王城の召喚の間ではなく、緑の匂いが立ち込める、鬱蒼とした森が広がっていた。
「な……」
叶は、いやクリムゾフィアの姿をした叶は、思わず声を漏らして辺りを見回した。
高く伸びた木々の隙間から、淡い光が幾筋も差し込んでいる。足元には見たことのない形の苔がびっしりと生え、空気そのものが、どこか神聖な静けさを纏っていた。石造りの城も、水晶の柱も、どこにもない。
「……ここは、どこだ」
呟いた声が、思いのほか森の中に響いて、慌てて口を噤む。
これまでにも一度、決められた道筋を外れて転移したことがあった。あの時は、力を使い果たした果てに狭間へと辿り着き、本物のクリムゾフィアと初めて言葉を交わした――叶がこの体に憑依するに至った、あの一件だ。あれもまた、定められた召喚の理から外れたイレギュラーな転移だった。
だが、今回はそれとも違う。あの時のような消耗の兆しがあったわけでもなく、ただ配信を終えた、その一瞬の隙を突かれたような転移だった。勝手が違う、というよりも、まるで見当がつかない。
(地脈が不安定とは聞いていたが……まさか、いつもと違う場所に転移するとは)
内心で焦りを覚えながらも、クリムゾフィアとしての矜持がそれを表に出させない。ゆっくりと周囲を観察しながら、足を踏み出す。
「――にゃ」
足元から小さな声が上がって、叶ははっと視線を落とした。真っ白な毛並みの子猫――否、ラヴィが、不思議そうに辺りを見回しながら、ぺたりと座り込んでいた。
「ラヴィ、お前もついてきていたのか」
いつからそこにいたのか、まるで気づかなかった。渡航のルールを平然と飛び越えてくるこの魔物には、今更驚きもしないが、それでも一人ではないという事実に、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。
「……お前も、事情は分からぬか」
問いかけると、ラヴィは小さく首を傾げるだけで、答えの代わりに前脚で辺りの草をちょいちょいと突いた。少なくとも、警戒している様子はない。それが今は、何よりの救いだった。
森は静かだった。だが、ただ静かなだけではない。どこか張り詰めたような、緊張感のようなものが漂っている気がした。うまく言葉にできない違和感を抱えながら、叶はしばらくその場に立ち尽くした。
それでいて、不思議なことに、恐怖や拒絶感のようなものは、まるでなかった。見知らぬ土地のはずなのに、肌に触れる空気のどこかに、妙な馴染みやすさすら感じてしまう。まるで、随分と昔に、一度だけ訪れたことがある場所のような――そんな、根拠のない感覚だった。
(とにかく、状況を把握しないと。ここがどこの領地なのか、それすら分からない……)
深呼吸を一つし、意識を落ち着かせる。こんな時こそ、これまでの社会人経験がものを言う。分からないことがあれば、まず情報を集める。焦って動くよりも、まず状況を整理することが先決だ。
そう自分に言い聞かせ、一歩、また一歩と森の奥へ足を進めようとした、その時だった。
「――きゃあああっ!!」
森の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
子供の声だ。それも、只事ではない切迫した響きを持っている。
「なっ――」
考えるよりも先に、体が動いていた。クリムゾフィアの姿のまま、叶は声のした方角へと駆け出す。木の根に足を取られそうになりながらも、必死に足を速めた。
隣を、白い影が追い越していく。ラヴィだった。先ほどまでの呑気な様子が嘘のように、その小さな体が風を切るように地を駆けていく。
(誰かが、襲われている)
これまでの経験が、そう告げていた。悲鳴の質、切迫した空気――ただの遊びやいたずらの声ではない。
木々の合間を縫うように走り抜けた先、開けた場所に出た瞬間、叶は息を呑んだ。
そこには、獣のような影が一匹、木の陰から小さな人影に襲いかかろうとしている光景が広がっていた。
小さな人影――尖った耳、淡い金の髪。人間の子供にしては見慣れぬ、どこか浮世離れした佇まい。まだ幼い、何者かは分からないが、明らかに只の子供ではない誰かだった。
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あとがき
新章突入です




