62話大会前夜
大会前日。朝から、どこか落ち着かない一日だった。
会社では、いつも通り営業先を回り、書類をまとめ、上司の雫石に報告を上げる。だが、頭の片隅では、常に明日のことがちらついていた。
「――叶、なんか上の空だな」
昼休み、石井にそう指摘され、叶は苦笑した。
「そうか? 悪い、少し考え事をしていた」
「まあ、たまにはそういう日もあるか。無理すんなよ」
石井の何気ない気遣いに、叶は密かに救われる思いがした。詳しい事情を話せないもどかしさはあったが、それでも、こうして気にかけてくれる存在がいることが、静かな支えになっていた。
仕事を終え、自宅に戻る道すがら、叶は夜空を見上げた。明日には、この一ヶ月の集大成をぶつけることになる。緊張と期待が、複雑に絡み合いながら胸の中で渦を巻いていた。
叶は自室のパソコンの前で、大会運営から届いた最終案内メールを何度も読み返していた。
V-CROWNは完全オンライン開催の大会だ。参加者は皆、それぞれの自宅から専用のボイスチャットに接続し、公式配信のロビー画面を通して試合の進行を見守る。物理的な会場こそないが、七十五名の配信者が同時に一つの大会へ集うという規模感は、画面越しでも十分に伝わってきた。
夜、チーム専用のボイスチャットに接続すると、フィガロとシャーロットの声がすでに待っていた。
「――明日か。いよいよだな」
フィガロの声には、いつもの落ち着きの中に、確かな緊張が滲んでいた。
「私も、正直そわそわしてます。オンラインとはいえ、視聴者の数を考えると気が引き締まりますね」
シャーロットの言葉に、叶は頷いた。
「俺も同じだ。会場に足を運ぶわけではないのに、なぜかこの緊張感は変わらないな」
三人は、明日の展開について話し合った。全二十五チーム、七十五名が同じロビーに集うという、大会史上でも最大規模の一戦になる。
「明日は、全チームが一斉に同じマップに立つわけだ。序盤から気を抜けないな」
フィガロの言葉に、叶は頷いた。
「ああ。序盤は乱戦になるだろうが……油断はできない」
「私たちの武器は連携です。個々の実力じゃ勝てなくても、噛み合えば十分戦えます」
シャーロットの言葉に、叶とフィガロが同時に頷いた。
「――念のため、役割の最終確認をしておこう」
フィガロの提案に、三人は改めて、それぞれの立ち位置を口に出して確認し合った。
「指揮は、私が執ります。全体の方針と、最終判断の責任は私が持ちます」
「索敵とサブオーダーは俺だ。情報を拾い、局所的な判断で二人を支える」
「援護と前線維持は、俺が担う。二人が動きやすいよう、常に露払いをするつもりだ」
言葉にすることで、これまで積み重ねてきた五日間のスクリムの記憶が、確かな輪郭を持って三人の中に定着していくようだった。
「――これでいい。あとは、いつも通りにやるだけだ」
叶の言葉に、二人が頼もしげに頷く気配がした。
界隈でも、この一ヶ月の間に静かな噂が広がっていた。SNSでは、練習配信の断片やスクリムの記録を追いかけたファンたちが、クリムゾフィアたちのチームについて語り合っていた。
『クリムゾフィアのチーム、思ったより仕上げてきてるらしいぜ』
『クリム様、エイムは正直微妙だけど立ち回りは化け物染みてるらしいな』
『スクリムの記録見たか? クリム様のサブオーダー、意外と的確なんだよな』
『素人だからこそ、変な癖がなくて逆に読みにくいって話もあるな』
かつて「コラボ拒否の孤高の配信者」として知られていたクリムゾフィアが、これほどまでにチームへ溶け込んでいることに、驚きを隠せない者も多かった。
「――なあ」
叶がふと切り出した。
「怖くないと言えば嘘になる。だが、今は、それ以上に楽しみだ」
「奇遇だな。俺も同じ気持ちだ」
フィガロの声には、いつもの落ち着きの中に、確かな高揚が滲んでいた。
「私もです。三人でここまで来られたこと、素直に嬉しいです」
シャーロットの言葉に、叶は静かに笑った。
通話を終えたあと、叶はスマートフォンを開いた。メイベルからメッセージが届いていた。
『緊張してる? 大丈夫、あんたなら平気だよ。自分らしくやればいい』
シンプルだが、力強い言葉だった。相談に乗ってくれたあの夜のことを思い出し、叶は胸が温かくなるのを感じた。
『ありがとう、メイベル』
『結果報告、楽しみにしてる!』
「――皆、ありがとう」
誰にともなく呟き、叶はスマートフォンをしまった。
同じ頃、フィガロもまた、自室で静かに明日への準備を進めていた。使い慣れたデバイスの調子を確かめ、椅子の高さを微調整する。ルーティンと呼べるほどのものではないが、こうして体を整えることで、自然と心も落ち着いていくのを感じていた。
(――良い巡り合わせだった。この縁に、恥じぬ戦いをせねばな)
窓の外に浮かぶ月を見上げながら、フィガロは静かにそう思った。
シャーロットもまた、自室で明日の装備設定を最終確認していた。感度、キーバインド、音量バランス――細部まで手を抜かず整えていく。彼女らしい、丁寧な準備だった。
(クリムさん、フィガロさん――明日は、精一杯支えます)
小さく決意を固め、シャーロットはパソコンの電源を落とした。三人それぞれの部屋で、同じ夜が静かに更けていった。
膝の上のラヴィが、労うように顔をすり寄せてくる。
窓の外はすっかり夜が更けていたが、叶の胸には、静かな決意が満ちていた。明日、笹川叶――クリムゾフィアにとって、初めての大型コラボ企画、その本番の幕が上がる。




