51話安倍要の記録帳
夜半過ぎ、要は宿の一室で、書きかけの報告書を前に、幾度目かのため息をついていた。
「――どう書けというのだ、これは」
備え付けの文机に向かい、筆を握ったまま、もう小一時間は同じ行を睨んでいる。本部への正式な報告書には、事実のみを、簡潔に記す決まりだ。だが、今回の一件ほど、その原則が通用しない事案も珍しかった。
『対象:裏山に鎮座する地主神。信仰の断絶により凶暴化。単独対応にて調伏を試みるも、想定以上の力量差により難航。最終的に――』
ここで、筆が止まる。
最終的に、何と書けばいい。「異世界の統治者を名乗るVtuberが顕現し、慈愛の力によって神を鎮めた」などと書いて、誰が信じるというのか。かといって、それ以外に事実を説明する言葉が見つからない。
要は筆を置き、天井を仰いだ。
脳裏に浮かぶのは、この数日の、あまりに濃密すぎる出来事の数々だ。どこから、どう説明すれば、本部の連中に信じてもらえるというのか。いや、そもそも信じてもらう必要すらあるのだろうか。むしろ、正直に書けば、精神状態を疑われて査問にかけられる未来しか見えない。
要は、いっそのこと全てを詳らかに記そうかとも考えた。だが、すぐにその考えを打ち消す。あの御方の正体に関わる部分は、口が裂けても書けるはずがない。ならば、いっそ簡潔に済ませてしまうのが賢明だろう。
問題は、それをどこまで削るか、だった。
*
思えば、奇妙な依頼だった。
この地域一帯の妖力の乱れを察知したのは、確か三週間ほど前のことだ。本部からの正式な要請というよりは、要自身の判断による自主的な調査――そういう体裁を取ってはいたが、実のところ、要は少なからず気負っていた。分家の生まれである自分に、まともな案件が回ってくることなど、そう多くはない。この機を逃せば、次にいつ手柄を立てられるか分からない。そんな打算も、正直なところ、皆無ではなかった。
だが、蓋を開けてみれば、これほどまでに規格外の事態になるとは、誰が予想できただろうか。
最初に目にした、巨躯と化した白き獣。あの気配だけでも、要のこれまでの常識を大きく揺さぶるものだった。式神か、神獣か、あるいはそのどちらでもない何かか――今もって、正確な分類はできていない。
そして、あの神との対峙。渾身の力を溜め込んだ一撃を前に、要自身も覚悟を決めかけていた、あの瞬間。まさか、そこに現れたのが、他でもない、あの御方だったとは。
――クリムゾフィア様。
その名を思い浮かべるだけで、要の胸の奥に、未だ収まりきらない熱が灯る。
思えば、いつからだったか。分家の生まれとして、本家の連中からは常に「いてもいなくても変わらぬ者」として扱われてきた。実力を示しても、正当に評価されることは少ない。功績を立てても、本家の誰かの手柄として塗り替えられることも、一度や二度ではなかった。
そんな鬱屈とした日々の中で、深夜、独り、モニターの前で耳を傾ける時間だけが、要にとっての小さな救いだった。異世界の統治者を名乗る、あの声。飾らない優しさで語られる悩み相談。時に見せる、年相応の人間くささ。あの配信を見ている間だけは、家柄も血筋も関係のない、ただ一人の視聴者として在ることができた。
まさか、その御方と、こんな形で相見えることになろうとは。
要は、静かに苦笑した。
――まさか、クリム様が本物なんてな。
今更ながら、その事実の重みが、じわじわと胸に染み込んでくる。てっきり、あれは誰かが演じる架空の統治者だとばかり思っていた。精巧な設定、練り込まれたキャラクター――そういう類のものだと、頭のどこかでは、当然のように割り切っていたのだ。それが、まさか本物だったとは。
そして、思い出すだけで、腸が煮えくり返りそうになるのが、あのコスプレフェスタの一件だった。
――コスプレにいたのも、本物だったなんて、いまだに信じられん。
あの日、確かに界隈で話題になっていたのは知っていた。だが、任務の関係で予定が詰まっており、行こうか迷った末に、結局見送ったのだ。まさか、あの会場に、本物のクリムゾフィア様が、生身の姿で立っておられたとは。
――なぜ、行かなかったのか。惜しいな、本当に。
握手も、言葉を交わす機会も、確かにそこにあった。それを、自らの判断で棒に振ってしまった。悔やんでも悔やみきれない、生涯の不覚と言っていい。
要は、天を仰いだまま、しばし動けずにいた。過ぎ去った好機を悔やんだところで、時間が巻き戻るわけでもないというのに、未練だけが、いつまでも胸の内でくすぶり続けていた。
*
だが、今回の一件で、要の心に最も強く残ったのは、実のところクリムゾフィアそのものよりも、あの気の抜けた青年――笹川叶という男との、ほんの数日間の交流だった。
互いの素性を明かせぬまま、それでも肩を並べて戦い、軽口を叩き合い、時に呆れながらも、確かに通じ合うものがあった。分家だ、本家だと、そういう肩書きを一切問わずに接してくる相手など、要の周りには、これまでほとんどいなかった。
滞在中、幾度か、叶とクリムゾフィア様の話をしたこともあった。配信のどの回が印象深かったか、あの一言にどれほど救われたか――要が熱を込めて語る一方、叶は存外、聞き役に回ることが多かった。
ただ、不思議なことがある。そうした話をしている最中、叶がふと、何か苦いものでも噛んだような顔をする瞬間が、幾度かあったのだ。あの御方の素晴らしさを語っているだけのはずなのに、まるで古傷にでも触れられたような、そんな微妙な表情。
「……お前も、リスナーの一人なんだろう? なのに、あまり嬉しそうじゃないな」
一度、そう水を向けてみたことがある。すると叶は、少し困ったように笑って、「いや、まあ、色々複雑な事情があってな」とだけ答え、それ以上は語ろうとしなかった。
あの時は、深く気に留めなかった。だが今にして思えば、あの表情の意味も、もしや――と、要はふと考えかけて、すぐにその思考を打ち切った。考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
「妙な男だ、まったく」
小さく呟き、要は再び筆を執る。
結局、報告書には「単独にて事案を解決」とだけ記すことにした。詳細は、追って口頭で説明する、という体裁だ。多少の不備は、後で叱責を受ければいい。今この瞬間、この胸に残る不思議な充足感を、無粋な書類仕事で汚したくはなかった。
報告書を送信して間もなく、上役からの着信があった。応答すると、聞き慣れた、抑揚に乏しい声が耳に届く。
「――報告、確認した。随分と早期の解決だな。詳細は?」
「口頭にて、追ってご報告いたします。……なにぶん、文書に起こすには、些か特殊な事案でしたので」
「特殊、とは」
「……守秘義務の範疇を超えるやもしれぬ、個人の事情が絡んでおりまして」
我ながら、苦しい言い訳だと思う。だが、上役はそれ以上深追いすることなく、「まあいい、追って聞こう」とだけ言って、あっさりと通話を切ってしまった。長年の付き合いで、要が滅多なことでは誤魔化さない性分だと知っているからこそ、成り立つやり取りだった。
安堵の息を吐きながら、要はスマートフォンを文机に置く。追って口頭で、とは言ったものの、実際にどう説明するつもりなのか、自分でもまるで見当がついていなかった。
*
数日後、叶が宿を発つ日。要は見送りに立ちながら、懐から一枚の紙片を差し出した。
「達者でな、要」
「ああ、貴殿もな」
差し出された連絡先を受け取りながら、要は、これほど自然に誰かと連絡先を交換したのは、一体いつ以来だろうかと、場違いにも思い返していた。本家の親族との付き合いは、常に形式的な挨拶ばかりだ。同業者との交流も、互いの手の内を探り合うような、どこか緊張を孕んだものが多い。
こんなふうに、損得勘定抜きで、ただ「またな」と言い合える相手など、思えばずいぶんと久しぶりのことだった。
そんなことを考えながら、要はふと、あの夜、稲実の神が漏らした一言を思い出していた。
――ずいぶんと、複雑な因果が絡み合っておるようじゃな。
あの言葉の真意は、未だに分からない。だが、妙な予感がしていた。この奇妙な縁は、これで終わりではない。きっと、また何らかの形で、あの二人と関わることになるのだろう、と。
送迎車が山道を下っていくのを見送りながら、要は静かに息を吐いた。
「――さて、私も、そろそろ次の任務に戻るとするか」
着物の袖を払い、要は踵を返す。分家の身の上も、本家との確執も、何一つ変わってはいない。それでも、この数日で得たものは、確かに、要の中で小さくない重みを持っていた。
これも何かの縁だ――そう、要は静かに、もう一度胸の内で呟いた。
これにて、温泉編は終わりです。
次からVtuber大会編スタートです。
プロット、下書きはできていうので、がんばって投稿します




