49話蕎麦屋にて
翌日の昼、叶とラヴィは、要に教えてもらった蕎麦屋を訪れていた。
宿から歩いて二十分ほどの、川沿いに建つ古民家風の店だった。暖簾をくぐると、蕎麦を打つ乾いた音と、出汁の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「――いらっしゃい」
店主とおぼしき初老の男が、無愛想ながらも柔らかな声で迎えてくれた。窓際の席に案内され、腰を下ろす。川のせせらぎが、開け放たれた窓から涼やかに響いてくる。
注文したのは、要に勧められた通り、この地でしか味わえないという地粉の十割蕎麦だった。運ばれてきたそれは、素朴ながらも艶やかな光沢を放ち、蕎麦の香りが湯気とともにふわりと立ち上る。
「……美味い」
一口啜って、思わず声が漏れた。コシがありながらも、するりと喉を通る喉越し。噛むほどに、蕎麦本来の甘みと香りが広がっていく。都会の名店で食べる蕎麦とはまた違う、この土地でしか出せない味わいだった。
膝の上のキャリーバッグから、ラヴィが物欲しそうに顔を覗かせている。
「お前は蕎麦、まだ早いだろ」
苦笑しながらも、店主に頼んで、出汁で炊いた鶏肉の切れ端を少し分けてもらう。それを差し出すと、ラヴィは待ってましたとばかりに勢いよく頬張った。
*
食事を終え、店を出ると、川沿いの道をのんびりと歩いて帰ることにした。日差しは強いが、時折吹き抜ける風が心地よい。
「――そういえば」
ふと、叶の頭に、ある考えがよぎった。
ここ数日、怒涛のような出来事が続いていた。フェスタ、力の覚醒、温泉、怪異、そして神との対峙。振り返ってみれば、随分と濃密な旅になったものだ。
だが、それと同時に、ずっと心の奥に燻っていた何かが、じわりと輪郭を持ち始めているのを感じていた。
(そういえば、実家に顔を出すの、いつ以来だったか……)
この土地の風景が、幾度となく実家のそれと重なった。稲穂の匂い、山あいの空気、縁側で過ごした記憶。あの時感じた懐かしさは、まだ胸の奥にしっかりと居座っている。
スマートフォンを取り出し、実家の番号を表示させたまま、しばらく指を止める。連絡すれば、あれこれ詮索されるかもしれない。だが――。
「……まあ、今度でいいか」
結局、画面を閉じて、ポケットにしまい込んだ。今はまだ、この温泉旅を心ゆくまで満喫したい。実家のことは、また後で考えればいい。
川のせせらぎを聞きながら、叶は宿への道を、ゆっくりと歩き続けた。腕の中では、満腹になったラヴィが、幸せそうな寝息を立てていた。
*
それから残りの数日は、これといった事件もなく、穏やかに過ぎていった。
朝は露天風呂で一日を始め、昼は要に教えてもらった店を一軒ずつ制覇し、夜はラヴィと縁側で夜風に当たりながら、他愛もない時間を過ごす。時折、要も夕食の席に顔を出しては、報告書の愚痴や、この地に伝わる小さな怪異譚を語ってくれた。かつては緊張しかなかったその時間が、今ではすっかり、旅の一部として馴染んでいる。
ある晩には、宿の内湯で偶然要と鉢合わせ、湯船に浸かりながら他愛もない話をした。仕事の愚痴、幼い頃の思い出、互いの故郷の話。着流し姿で気難しい顔をしていることの多かった要も、湯に浸かって寛いだ顔をしていると、ただの人懐っこい青年のように見えた。
「――そういえば、貴殿は結局、名も名乗っておらなんだな」
湯気の向こうで、要がふと呟いた。
「笹川叶だ。今更だけどな」
「叶、か。良い名だ」
それだけの、他愛もないやり取りだった。それでも、その短い言葉の交換が、二人の間に流れる空気を、また一つ柔らかくした気がした。
別の日には、稲実の神の使いだという小さな鳥が、朝方、宿の窓辺に舞い降りてきたこともあった。足には、丁寧に結わえられた小さな包みが結ばれている。開けてみると、中には、この地でしか採れないという乾燥茸が、几帳面に包まれていた。添えられた文には、拙いながらも心のこもった礼の言葉が綴られていた。
視界の端の、あの不安定なちらつきは、あれきり一度も現れなかった。だが、それは元に戻ったという意味ではないらしい。試しに、宿の裏山にちらりと視線をやると、木立の合間に、小さな光の粒のようなものが漂っているのが、はっきりと見えた。以前のような、不快な違和感を伴うちらつきではない。まるで、ずっと合わなかった眼鏡の焦点が、ようやく合ったかのような、澄んだ「見え方」だった。
どうやら、あの一件を境に、この目は、常人には映らないはずのものを、当たり前のように映すようになってしまったらしい。厄介な力を背負い込んでしまったな、と思う一方で、不思議と嫌な気はしなかった。少なくとも今は、穏やかな日々を素直に喜べる自分がいた。
*
そうして迎えた、最終日の朝。
荷物をまとめ終えた叶は、玄関先で見送りに出てきた女将に、深々と頭を下げた。
「本当に、お世話になりました」
「こちらこそ、ゆっくりしていただけたなら何よりです。……また、この辺りにいらした際は、ぜひ」
女将は、そう言って柔らかく微笑んだ。その目には、多くを語らずとも、この数日の出来事を薄々察しているような、そんな含みがある気がした。
「――行くのか」
声に振り返ると、そこには要が立っていた。旅装束というより、いつもの着流し姿のままだったが、どこか名残惜しそうな顔をしている。
「ああ。有休も、そろそろ限界だしな」
「そうか」
要は、小さく頷いた後、懐から一枚の紙片を取り出し、叶に差し出した。
「連絡先だ。……といっても、私も普段は多忙な身でな。すぐに応じられるとは限らんが」
「これは、いつか本当に厄介事があった時のためか?」
「まあ、そんなところだ。それに」
要は、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「その、何だ……単純に、また話がしたい、というのもある。貴殿とは、妙に馬が合う気がしてな」
思いがけない一言に、叶は虚を突かれたように瞬きをした。それから、自然と頬が緩む。
「奇遇だな。俺もだよ」
紙片を受け取り、大事にポケットへとしまう。
「達者でな、要」
「ああ、貴殿もな。……それと、あの獣にも、よろしく伝えておいてくれ」
腕の中のラヴィが、まるで会話の内容を理解しているかのように、『みゃあ』と一声鳴いた。要はそれに、柔らかく目を細める。
*
送迎車に揺られながら、叶は窓の外に流れる山あいの景色を、いつまでも眺めていた。来た時よりも、ずっと軽くなった心が、そこにはあった。
途中、遠く木立の合間に、朱色を取り戻しつつある鳥居がちらりと見えた気がした。もう黒く朽ちてはいない、静かにこの土地を見守る、本来あるべき姿の社が。叶は思わず窓に顔を寄せ、その光景を目に焼き付ける。すぐに木々に隠れて見えなくなってしまったが、それだけで十分だった。
異形との死闘、思いがけない正体露見、そして、新しい縁。振り返れば、当初思い描いていた「骨休め」とは、随分と違う旅になったものだ。それでも――と、叶は小さく笑う。
これはこれで、悪くない旅だった。
窓の外に広がる、どこまでも澄んだ空を見上げながら、叶はゆっくりと目を閉じた。腕の中で丸くなったラヴィの温もりを感じながら、次に訪れるであろう日常への帰路に、静かに身を委ねていった。




