48話朝食とそれから
翌朝、叶が目を覚ましたのは、いつもよりずっと遅い時間だった。
全身にまだ鈍い痛みが残っている。特に、使ったことのない部類の筋肉が悲鳴を上げているらしく、身を起こすだけでも一苦労だった。
「……生きてる、よな」
誰にともなく呟きながら、隣で丸くなっているラヴィを見遣る。ラヴィはとっくに目を覚ましていたらしく、腹の上に乗ってきて、待ちきれないとばかりに『みゃあ』と鳴いた。
「はいはい、分かってるよ。飯だろ」
苦笑しながら身支度を整え、朝食の席へと向かう。約束通り、そこには既に要の姿があった。もっとも、その顔には昨夜の勢いなど微塵もなく、心なしかやつれた様子で、味噌汁を啜っている。
「……眠れなかったのか?」
「一睡もしていない。報告書をどう書くか、朝まで頭を悩ませていた」
「それは、お疲れさん」
叶が向かいに腰を下ろすと、女将が朝食の膳を運んできてくれた。焼き魚、出汁巻き卵、山菜の小鉢、炊きたての白米。昨夜の激闘が嘘のように、穏やかな朝の光が座敷に差し込んでいる。
「それにしても」
要は、味噌汁を一口啜ってから、ぽつりと漏らした。
「本部への報告には、当然ながら、貴殿のことも、あの獣のことも、詳らかには書けん。となると、私一人の手柄ということにせざるを得んのだが……何とも、据わりが悪い」
「別に構わないだろ、俺は」
「いや、しかし……」
要は箸を止め、心底困ったように眉根を寄せる。生真面目な性分らしく、こういう部分では妙に律儀だった。
「せめて、何か礼をさせてくれ。この地で世話になった詫びも兼ねて」
「そんな畏まらなくていい。……まあ、強いて言うなら」
叶は少し考えてから、こう続けた。
「美味い店とか知ってたら、教えてくれると助かる。滞在中、あちこち食べ歩きたいと思ってたんだ」
「それくらいなら、お安い御用だ」
要は、ようやく肩の力を抜いたように、小さく笑った。それから、この地に赴任する前に調べた土地勘を頼りに、蕎麦屋や川魚料理の店、地元でしか手に入らないという銘菓の話などを、次々と語り始める。任務中の鋭さとは違う、存外世話焼きな一面が垣間見えて、叶は密かに好感を覚えた。
「して」
要が、箸を止めて、ふと真面目な顔を向けてくる。
「貴殿は、これからどうするつもりだ。予定していた滞在は、確か、まだ数日残っているのだろう」
「ああ。特に予定は変えるつもりはない。……というか、正直、ただの温泉旅行に戻りたい気分だ」
本音を漏らすと、要はふっと表情を緩めた。
「それがいい。骨休めに来たのだろう。……私も、もう少しこの地に留まり、諸々の後始末をつけねばならん。何かあれば、また力を貸してもらうかもしれんが」
「その時は、まあ、できる範囲でな」
軽い調子で応じると、要はどこか安堵したような顔で頷いた。
*
朝食を終えた後、叶はラヴィを連れて、宿の周りを散策することにした。数日前は緊張と警戒でろくに見る余裕もなかった景色が、今はただただ、心地よい田舎の風景として目に映る。
澄んだ小川のせせらぎ、青々とした稲穂が波打つ田んぼ、遠くの山肌にかかる薄い霧。都会の喧騒とは無縁の、ゆったりとした時間がそこには流れていた。
「――こういうの、なんだかんだ、性に合ってるんだよな」
畦道を歩きながら、叶はぽつりと呟く。実家を出て以来、ずっと都会の刺激的な生活に憧れていたはずだった。それなのに、こうして田んぼの匂いに包まれていると、不思議と心が凪いでいくのを感じる。
ラヴィが、道端の草むらに何かを見つけたのか、鼻先を突っ込んでは、ぱっと顔を上げてくしゃみをした。その仕草があまりに間抜けで、叶は思わず笑ってしまう。
「お前、少しは緊張感を持てよ。昨日、あれだけの大立ち回りをしたやつとは思えないぞ」
答える代わりに、ラヴィは前足で顔をごしごしと擦った。何もかも忘れたような、実にのんびりとした佇まいだった。
畦道の途中、軽トラックの荷台から野菜を降ろしていた老爺と、ふと目が合った。日に焼けた顔に、深い皺を刻んだ、いかにも農家といった風情の人だった。
「兄さん、旅の人かい」
「はい、少しこちらでお世話になってます」
「そうかい。……この時季の田んぼは、ちょうど見頃だぞ。稲穂が実り始めたばかりでな、風が吹くと、そりゃあ綺麗に波打つんだ」
老爺は、そう言うと、日焼けした手で遠くの田を指し示した。誘われるまま近づいてみると、確かに、青々とした稲の穂先が、風に合わせて緩やかに揺れている。まるで、地面そのものが呼吸をしているかのような、雄大な眺めだった。
「都会もんには、こういうのは退屈かねぇ」
「いえ、全然。……むしろ、こういう景色を見てると、なんか、落ち着くというか」
思わずそう漏らすと、老爺は日に焼けた顔をくしゃりと綻ばせた。
「そうかい、そうかい。それは何よりだ」
少し立ち話をした後、老爺は「これも持ってけ」と、収穫したばかりだという茄子をいくつか分けてくれた。人の温かさに触れた気がして、叶は何度も頭を下げながらその場を後にした。
女将が教えてくれた小さな滝を見に行き、地元の直売所で採れたての野菜を眺め、道端の地蔵に手を合わせる。何の変哲もない、けれど、これ以上ないほど贅沢な時間だった。
滝壺の近くまで下りると、しぶきが心地よく肌を濡らした。轟々と流れ落ちる水音に耳を傾けていると、昨日までの緊張が、少しずつ音とともに洗い流されていくような気さえした。ラヴィは水しぶきが苦手なのか、少し離れたところで、興味なさそうに欠伸をしている。
「お前、あんな巨躯になって暴れ回れるくせに、水は苦手なのか」
問いかけても、当然のように返事はない。ただ、濡れるのが嫌なのか、じりじりと後ずさっていくその姿が、あまりに普通の猫らしくて、叶はまた笑ってしまった。
直売所では、瑞々しいトマトと、朝採れだという枝豆を購入した。店番をしていた老婆が、ラヴィを見て「かわいい猫さんだねぇ」と目を細め、余りものだと言ってちりめんじゃこを一袋、おまけにくれた。ラヴィは袋の匂いを嗅いだ瞬間、目の色を変えて纏わりつき始め、老婆を大いに喜ばせた。
「明日は、女将が言ってた蕎麦屋にでも行ってみるか」
空を見上げながら、叶は独りごちる。雲一つない、抜けるような青空が広がっていた。
*
夕食を終え、宿の縁側に腰掛けていると、女将がそっと声をかけてきた。
「よろしければ、裏の小川に行ってみてください。今頃の時季、蛍が見られますよ」
半信半疑のまま、ラヴィを連れて宿の裏手にある小川まで足を運ぶと、日が完全に落ちた頃、闇の中にぽつり、ぽつりと、淡い光が瞬き始めた。最初は一つ、二つだったものが、やがて数えきれないほどの光の粒となって、小川の周りをふわふわと漂い出す。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。都会では絶対に見ることのできない光景だった。淡い光の粒が、まるで意思を持っているかのように、ゆっくりと宙を舞う。腕の中のラヴィも、その光を目で追いながら、興味深そうに耳をぴくぴくと動かしていた。
しばらく、言葉もなくその光景に見入っていた。虫の音、川のせせらぎ、そして蛍の淡い光――それだけで満たされる時間があるのだと、今更ながらに実感する。
スマートフォンでこの光景を撮ろうとして、しかしすぐに諦めた。画面越しでは、きっとこの美しさの半分も伝わらない。今この瞬間、この目で見ていることにこそ、意味がある気がした。
「……こういう景色、ちゃんと覚えておかないとな」
小さく呟くと、ラヴィが同意するように、小さく『みゃあ』と鳴いた。
ようやく、本来の目的だった骨休めを、心の底から満喫できそうな予感がしていた。




