47話帰り道
境内を後にする頃には、夜はすっかり更けていた。
稲実の神は、鳥居のところまで見送りに出てきてくれた。もう黒い靄も、ひび割れた肌も、どこにも見当たらない。月明かりの下に立つその姿は、静謐で、どこか涼やかな気配を纏っていた。修復されたばかりの鳥居も、月光を浴びて、ほのかに朱色を取り戻しつつあるように見える。
「此度のこと、生涯忘れはせぬ。……また、いつでも顔を出すがよい。もっとも、次に来る頃には、少しは見られる社になっておることを願うがな」
「ああ。楽しみにしてる」
叶がそう答えると、稲実の神はふっと目を細めた。それから、何かを思い出したように、そっと手をかざしてくる。
「――そうだ。そなたには、大した意味もないやもしれぬが、些少ながら加護を授けておこう」
「加護?」
問い返す間もなく、掌から淡い温もりが、するりと体の中に染み込んでくる感覚があった。痛みも衝撃もない、ただ、ほんの少しだけ、体の芯が軽くなったような、そんな感覚だった。
「これといって、目に見えて何かが変わるわけではない。そなたのような常人には、まず分からぬだろう。……とはいえ、無いよりはあった方が良いものだ。受け取っておいてくれ」
「よく分からないけど……ありがとう」
叶は、曖昧に頷きながら礼を言った。実感は薄いが、悪意のない申し出を無下にする理由もない。
「それと、もう一つ」
稲実の神は、少し誇らしげな、それでいてどこか気恥ずかしそうな調子で続けた。
「これでも、かつては全国に数多ある稲荷の中でも、そこそこ名の知れた、格の高い社であったのだぞ。今はこの様であるがな……。ゆえに、この身から授かる加護というのも、なかなかに得難いものなのだ。……もっとも、それがどれほどのものか、そなたには到底分かるまいがな」
「え、そうなのか。全然知らなかった」
半信半疑ながらそう答えると、稲実の神は満足げに頷いた。もっとも、その加護がどれほど価値のあるものなのか、一般人である叶に理解できるはずもなく、その言葉は、ただの世間話のように右から左へと流れていってしまった。
傍らの眷属も、深々と頭を下げている。何度も何度も、名残惜しそうに。
「本当に、ありがとうございました……! この御恩は、生涯忘れません」
「大袈裟だって。……まあ、また何かあったら、遠慮なく呼んでくれ」
叶がそう言うと、眷属は目に涙を浮かべながら、大きく頷いた。
「必ずや、必ずや……! もし次にお越しの折には、この身に代えても、粗相のなきよう御もてなしを……!」
そこまで力を込めて言われると、さすがに面映ゆい。叶は苦笑しながら、軽く手を振ってその場を後にした。振り返ると、二つの人影ならぬ気配が、いつまでもこちらを見送っているのが分かった。夜の闇に紛れて姿が見えなくなるまで、その視線はずっと背中に注がれ続けていた。
*
帰り道は、行きとはまるで違う空気に包まれていた。あれほど重く、粘つくようだった森の気配は、すっかり鳴りを潜めている。木々の隙間から差し込む月光さえ、どこか祝福めいて見えた。
「――しかし、正直なところ」
しばらく無言で歩いていた要が、ふと口を開いた。
「今夜のことは、報告書にどう書けばいいのか、皆目見当がつかん」
「そりゃそうだろうな」
「『対象は無事調伏。方法は、まさかの……』などと書いたところで、上の連中が信じるとは到底思えん」
要は、心底困った様子でため息をついた。その顔には、これまでのような気負いは既になく、ただの疲れた社会人の顔があった。
「――適当に、それっぽく書いておけばいいんじゃないか」
「貴殿は、存外いい加減なことを言う」
「あんたほどじゃないだろ、色々と」
叶がそう返すと、要は一瞬きょとんとした後、小さく噴き出した。
「……違いない」
張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ気がした。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合う。ラヴィが、腕の中でふわあ、と大きなあくびをした。
「……にしても」
笑いが収まった頃、要がぽつりと呟いた。
「今日一日で、随分と非常識な光景ばかり見た気がする。荒ぶる神、悪しき異形、そして――貴殿の正体。おかげで、しばらくは何を見ても驚かなくなりそうだ」
「そりゃ光栄なのか、それとも同情していいのか分からないな」
「さあな。だが、悪い気はしていない」
要は、そう言って夜空を見上げた。雲間から覗く星々を眺めるその横顔には、任務中とは思えないほど、穏やかな色が浮かんでいる。
「陰陽師をやっていて、これほど清々しい気分で山を下るのは、久しぶりだ」
その一言に、叶も思わず頷いた。振り返れば、無我夢中で駆け抜けた一日だった。だが、こうして並んで歩く帰り道の静けさが、何よりもその一日の終わりを実感させてくれる気がした。
*
山道を下りきり、見覚えのある一軒宿の灯りが見えてきたところで、叶はふと足を止めた。
「……あれ、あんたも、こっちの方向か?」
「うむ? ああ、そうだ。私もこの宿に部屋を取っている」
「は? 同じ宿だったのか」
思わず声が裏返る。まさか、こんな山奥の一軒宿で、偶然にも同じ屋根の下に泊まっていたとは。要も、それはそれで意外だったらしく、片眉を上げていた。
「この辺りで、まともに泊まれる宿となると、選択肢はそう多くない。……とはいえ、これほどまでとはな」
「奇遇にも程がある」
顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑が漏れる。何やら因縁めいたものすら感じる巡り合わせに、叶は妙な感慨を覚えずにはいられなかった。
*
宿に戻った頃には、日付が変わろうとしていた。
「疲れた……」
部屋に転がり込むなり、叶はそのまま畳に大の字になった。全身の筋肉という筋肉が、悲鳴を上げている。もっとも、戦っていたのはほとんどラヴィで、自分はただ立ち尽くしていただけなのだが、それでも精神的な消耗は計り知れなかった。
「ラヴィ、お疲れさん。今日は、本当に助かった」
労うように声をかけると、ラヴィはキャリーバッグから抜け出して、叶の腹の上にどすんと乗ってきた。心地よい重みと温もりに、強張っていた体から、少しずつ力が抜けていく。
「明日からは、ちゃんと、骨休めするか」
呟きながら、天井を見上げる。視界の端に、あの厄介なちらつきは――もう見当たらなかった。気のせいか、それとも本当に治まったのか。今はまだ判然としないが、少なくとも今この瞬間は、穏やかな静寂だけがそこにあった。
要とは、翌日の朝食の席で顔を合わせる約束をして別れていた。彼もまた、この地に留まって報告書をまとめる必要があるという。しばらくは、奇妙な同居人のような日々が続きそうだった。
「……さて」
重い瞼を擦りながら、叶は身を起こす。窓の外には、雲の切れ間から覗く星々が、静かに瞬いていた。
「明日は、何して過ごそうか」
その問いに答える者はいなかったが、腹の上で丸くなったラヴィの寝息だけが、規則正しく響いていた。




