45話正体露わに
「――かたじけない。この身に流れ込む、久方ぶりの温もり……」
神は深々と頭を垂れたまま、しばし言葉を継げずにいた。ようやく顔を上げたその面差しには、もはや先ほどまでの狂気の色は欠片も残っていない。柔和な、それでいてどこか気高さを感じさせる佇まいだった。
「名も、まだ名乗っておらなんだな。この地では、稲実の神と呼ばれておった。もっとも、それを覚えている者は、もはやこの世に一人も残ってはおらぬだろうが」
「稲実の神、か」
クリムゾフィアは静かにその名を繰り返した。
「よい名だ。忘れられていたとしても、そなたがそなたであることに変わりはない」
「……勿体なきお言葉じゃ」
稲実の神は、そっと視線をラヴィへと移す。地面にへたり込んだまま、荒い息を整えている白い子猫の姿に、深々と頭を下げた。
「そなたにも、大きな痛手を負わせてしまった。この礼は、いずれ必ず」
ラヴィは答える代わりに、小さく『みゃう』と鳴いた。それだけで十分だと言わんばかりの、あっさりとした反応だった。
「今後、この地に巣食っていた悪しきものたちも、そなたの目が届く限りは鳴りを潜めよう。この森を訪れる者があれば、な」
「うむ。だが、無理はするな。そなたもまた、力を取り戻すには時が要ろう」
「肝に銘じておこう」
稲実の神は、そこで一度、境内をぐるりと見渡した。崩れかけた拝殿、荒れ果てた参道、それでも確かに、以前よりは幾分か軽くなったように見える空気。
「情けない有様を、見られてしまったな。かつては、もう少し、まともな姿をしておったのだが」
「気にすることはない。時が経てば、また元の姿を取り戻せよう」
「そうであってほしいものだ」
稲実の神は、そう言って小さく笑った。長らく忘れていたであろう、穏やかな表情だった。
*
その一部始終を、要はただ黙って見つめていた。
目の前で交わされているやり取りの一つ一つが、現実のものとは思えない。荒ぶる神が、鎮まっている。それも、力ずくの調伏によってではなく、ただ、慈愛にも似た施しによって。
(これが、私の知る術の理と、根本から違う……)
陰陽師として積み重ねてきた常識が、音を立てて揺らいでいく感覚があった。だが、それ以上に要の心を占めていたのは、もっと単純で、もっと熱に浮かされたような興奮だった。
(本物だ……本物の、クリムゾフィア様だ……!)
配信の向こうの存在だとばかり思っていた御方が、今、この目の前に、確かな実体を持って立っている。任務の最中だということも、しばし忘れかけるほどの衝撃だった。
「――貴殿は……いや、クリムゾフィア様、とお呼びすればよろしいか」
思わず零れた問いに、クリムゾフィアがゆるやかにこちらを振り返る。
「うむ、構わぬ。……そなた、余のことを知っておるのか」
「勿論にございます! 数々の配信、拝見しております。此度の一件、まさか御本人と、こうして相見えることになろうとは……」
声が、我ながら情けないほど上擦っていた。仕事の合間の楽しみだと誤魔化していたあの正体を、今更ながら白状しているようなものだったが、もはやそんな体裁を気にする余裕もなかった。
クリムゾフィアは、その勢いにわずかに目を丸くしたものの、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。ならば、日頃の贔屓、しかと礼を言わねばな」
「勿体なきお言葉にございます……!」
要は深々と頭を垂れる。混乱と興奮が綯い交ぜになった心の内で、ふと一つの疑問が首をもたげた。
――だが、待てよ。このお方は、一体どうやってここへ?
Vtuberというものが、二次元上の存在であることくらい、要とて重々承知していた。画面の向こう、配信という形でしか存在し得ない、そういうものだと。あの声も、あの姿も、モニター越しに享受するものであって、決してこの手で触れられる類のものではない――そう、当然のように思い込んでいた。
それなのに、今、目の前にいる。生身の熱を持ち、息をし、言葉を交わしている。二次元と三次元、その隔たりであるはずの一線が、音もなく踏み越えられている。頭では理解が追いつかないのに、目の前の光景はどこまでも現実だった。
昨夜も、確か、配信のアーカイブを一つ見返したばかりだった。画面の中で優雅に微笑むあの御方を眺めながら、今日の疲れも悪くなかったと思えるくらいには、癒やされていた。あれは紛れもなく、モニター越しの、手の届かない存在だったはずだ。それが今、吐息の温度まで感じられる距離に立っている。この矛盾を、どう自分の中で処理すればいいのか、要にはまるで見当がつかなかった。
異世界の統治者だと語っていたはずのクリムゾフィア。その本人が、なぜこの日本の、こんな寂れた神社に、確かな実体を持って姿を現せるのか。傍らにいた、あの気の抜けた青年は、一体どこへ消えたのか。
その疑問を言葉にしようとした、まさにその時だった。
「――う、く……」
クリムゾフィアが、不意に胸を押さえてよろめいた。
「どうなさいました!」
眷属が悲鳴じみた声を上げる。要も咄嗟に駆け寄ろうとしたが、その足が止まった。
クリムゾフィアの輪郭が、まるで水面に落ちた波紋のように、揺らいでいる。
「な……!?」
艶やかな髪が、瞬く間に色を変えていく。彫刻めいた相貌が崩れ、輪郭が縮み、纏っていた気品ある衣装が、見慣れたシャツとパンツへと姿を変えていった。淡い光が、まるで役目を終えたかのように、すうっと空気に溶けて消えていく。
膝から崩れ落ちるようにして地面に手をついたのは、どこにでもいそうな、ただの青年だった。
「はぁ……っ、はぁ……」
肩で息をしながら、荒く呼吸を繰り返している。その顔には、疲労困憊の色こそあれ、先ほどまでの神々しさなど、微塵も見当たらない。
要は、言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「……お前……」
掠れた声が、無意識のうちに口から零れる。
目の前に膝をついているのは、間違いなく――先ほど「拾った」と語っていた、あの気の抜けた青年、そのものだった。
消えたはずの青年が戻ってきたのではない。クリムゾフィアが、姿を変えたのだ。つまり――このどこにでもいそうな青年こそが、クリムゾフィア、その人だったということになる。
「お前が……お前の中に、クリムゾフィア様が……いや、お前自身が……?」
要の思考は、その事実を咀嚼しきれず、支離滅裂な呟きとなって零れ落ちるばかりだった。膝の力が抜けたのか、その場にへなへなと座り込み、両手で顔を覆う。
昨夜、画面越しに見つめていたあの御方と、目の前で疲労困憊している気の抜けた青年。その二つが、どうしても頭の中で一つに結びつかない。何かの見間違いではないか、悪い夢ではないか――そんな考えが、幾度も脳裏をよぎっては消えていった。
だが、目の前の光景は、どこまでも動かしようのない現実だった。




