44話分かち合う力
神の輪郭を覆う黒い靄が、臨界を迎えたかのように一際強く膨れ上がった、その刹那。
叶の脳裏に、唐突な閃きが走った。
――力ずくで、ねじ伏せるものじゃない。
あの日、王城で聞いた言葉が蘇る。魔力奉納の仕組み。地脈を巡る力が涸れ、無理やり絞り出す必要に迫られている――そういう話だった。そして、あの神が発した叫び。「タレモ、コナイ」。それは、力を奪われた怒りではなく、満たされぬ渇きそのものだったのではないか。
ならば、答えは単純だ。
――足りないなら、渡せばいい。
幸いにも、渡せるだけのものは、確かにあった。フェスタを振り返ったあの配信の夜、いつにも増して押し寄せたスパチャの奔流。体の奥に「とぷん」と満ちていった、あの重たい熱の感触を、叶ははっきりと覚えている。あの時はまだ、この力を何に使うのかも分からなかった。だが今なら分かる。あれは、こういう時のためだったのかもしれない。
根拠のない直感だった。それでも、この状況を打開する道が、他にあるとは思えなかった。叶は震える手で、自らの胸元を強く握りしめる。
「――俺は、これしかできない」
誰に言うでもなく呟くと、叶は目を閉じ、意識を深く沈めていく。フェスタの日とは違う。あの時のように、無意識の衝動に任せるのではない。今この瞬間、自らの意思で、あの姿を呼び覚ます。
脳裏に思い描くのは、幾度となく画面越しに見つめてきた、あの佇まい。背筋の伸びた優雅な姿勢、ゆったりと紡がれる言葉の一つ一つ、そして何より、決して驕らず、誰の前でも堂々と立ち続けるその心根。長年、狂信者と呼ばれるほどに焼き付けてきたその像を、今、自らの内側から呼び起こす。
恐怖も、疲労も、消えたわけではない。だが、その全てを塗り替えるように、腹の底から確かな熱が込み上げてくる。まるで、長らく眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましていくような感覚だった。
不思議なことに、その熱に押し出されるようにして、恐れの感情は徐々に後景へと退いていった。代わりに満ちてくるのは、奇妙なほどの静けさだ。数えきれないリスナーたちの声援、託された想いの重み――それら全てが、今この瞬間、自分を支える土台になっているのだと、はっきりと実感できた。一人でいるはずなのに、一人ではないという、矛盾した確かな感覚だった。
狂信者のように、幾度となく思い描いてきた佇まい。凛とした声、気高い所作、そして何より――あの御方そのものの心根。
「――変われ」
小さく零した言葉と同時、叶の体を、淡い光が包み込んだ。眩い輝きの中で、身の丈が、輪郭が、纏う衣が、ゆっくりと作り変えられていく。恐怖に強張っていた表情筋さえも、いつしか、あの穏やかな微笑みへと変わっていた。
*
要は、目の前で起きていることが、にわかには信じられなかった。
光が収まった後、そこに立っていたのは、もはや先ほどまでの青年ではなかった。艶やかな髪、彫刻のように整った相貌、そして頭に覗く小さな角。異形にも似た特徴を纏いながら、しかし放たれる気配は、これまで出会ったどの存在とも一線を画す、圧倒的な気品に満ちていた。
「な……」
言葉にならない驚愕が、要の喉から漏れる。
(この御姿……間違いない。クリムゾフィア様だ……!)
見紛うはずもなかった。深夜、疲れ切って帰宅した後、一人モニターの前で欠かさず耳を傾けてきた、あの声。あの佇まい。異世界の統治者を名乗る、あのVtuberが、今、この寂れた神社の境内に、生身の姿で立っている。
だが、要の混乱をよそに、当の本人は既に、荒ぶる神へと真っ直ぐな眼差しを向けていた。
*
「――もうよい。荒ぶるのは、そこまでにせよ」
クリムゾフィアの声は、静かでありながら、不思議と辺りに響き渡った。荒れ狂っていた神の動きが、ほんの一瞬、止まる。
「そなたは、飢えておるのだろう。満たされぬまま、長きにわたり、独り、この地に取り残されて」
黒い靄の奥、虚空のような眼が、初めてこちらを見据えた気がした。
「案ずるな。……力なら、少しばかり、持ち合わせておる」
クリムゾフィアは、自らの胸に手を当てた。目を閉じ、静かに息を吸い込む。体の奥、ずっと眠っていた奔流――数え切れぬ人々から託された、温かな魔力の源泉。フェスタの日、無意識に暴れ出したあの力とは違う。今この瞬間、確かな意思のもとに、その扉を開く。
「そなたたちの声援は、いつも余の力となってくれた。ならば、今度はその一端を、この者に分けてやろう」
差し出した掌から、淡い光が溢れ出す。金色にも、白銀にも見えるその光は、まるで意思を持つかのように、宙を漂いながら、荒ぶる神へと吸い込まれていった。
光の一粒一粒に、あの夜寄せられた声援が、確かに宿っているような気がした。「無理せず休んでください」という気遣いの言葉。「お土産話待ってます」という素朴な期待。「温泉代の足しに」と添えられた、あの心遣い。数えきれない善意の欠片が、今、形を変えて、見ず知らずの神へと届けられていく。
「グ……ガ……?」
これまでとは異なる、戸惑うような声が漏れる。黒い霧が、その光に触れた場所から、じわりと薄れていく。まるで、乾いた大地が水を吸い込むように、光は次々と神の輪郭の中へと染み渡っていった。
「ヌク、ヌクイ……」
軋むような声に、初めて別の色が混じった。安堵にも似た、震える吐息。
「タシカニ、ウケトッタ……。コノ、アタタカサ……」
黒く硬く強張っていた輪郭が、少しずつ、少しずつ緩んでいく。折れかけていた角が、鈍い輝きを取り戻し始めた。ひび割れていた肌にも、瑞々しさが戻りつつある。
変化は、神の身の上だけに留まらなかった。境内を覆っていた重苦しい気配が、潮が引くように薄れていく。崩れかけていた鳥居の柱に走っていた亀裂が、まるで時間を巻き戻すように、少しずつ塞がっていった。生い茂っていた雑草の隙間から、瑞々しい若草の色が覗き始める。地面に転がっていた小動物の亡骸らしきものも、いつの間にか、跡形もなく消え失せていた。
鼻をつく鉄錆と腐敗の臭いが薄れ、代わりに、木々の緑と、どこか懐かしい土の匂いが、風に乗って漂ってくる。
「これは……」
要が、掠れた声で呟いた。専門家である彼にすら、目の前で起きている浄化の速さは、常識の埒外にあるものらしかった。
「境内の穢れまでもが、清められていく……。これほどの規模の浄化、私はこれまで見たことがない」
クリムゾフィアは、その言葉には応えず、ただ静かに神の様子を見守り続けていた。目を伏せ、口元にはただ、慈しむような微笑みだけが浮かんでいる。まるで、長らく病床にあった旧知の友の回復を見守るような、そんな穏やかな眼差しだった。
「そなたを忘れていたわけではない。ただ、そなたに気づく者が、途絶えてしまっていただけのこと。……余の些細な施しで、そなたの傷が全て癒えるとは思わぬ。だが、これで、少しは息をつけよう」
「カミサマ……」
どこからともなく、震える声が響いた。振り返ると、いつの間にか木陰から姿を現していた眷属が、両手で口元を覆い、その場に立ち尽くしていた。丸い瞳からは、大粒の涙がとめどなく零れ落ちている。
「よかった……本当に、よかった……!」
声を詰まらせながら、眷属は幾度も頭を下げた。長きにわたり、独りで神の変わり果てた姿を見守り続けてきたのだろう。その安堵の深さが、涙となって溢れ出しているのが、傍から見ていても痛いほど伝わってきた。
その一言に、クリムゾフィアは静かに頷いた。
*
黒い霧が、ゆっくりと晴れていく。その中から現れたのは、もはや異形の面影を残さぬ、一柱の神の姿だった。柔和な顔立ち、白い装束、そして背には、微かに光を纏う狐のような耳。かつての眷属と、どこか似た面差しをしている。
「――かたじけない。この身に流れ込む、久方ぶりの温もり……」
神は深々と頭を垂れた。その所作には、先ほどまでの狂気の欠片も残っていなかった。
ラヴィが、疲れ切った様子ながらも、元の白い子猫の姿に戻り、地面にへたり込む。要は、呆然とその一部始終を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
――終わった、のか。
クリムゾフィアの姿をした叶は、大きく息を吐き出す。全身から力が抜けていくような、深い疲労感。それでも、胸の内には、これまで感じたことのない、静かな満足感が広がっていた。
力ずくで何かを成し遂げたわけではない。ただ、手を差し伸べただけだ。それでも、これほどまでに何かが報われたような感覚は、これまでの人生でも、そう多くは味わったことがなかった。異世界で貴族としての責務を果たした時とも、配信で誰かを励ました時とも、また少し違う。誰の目にも留まらぬまま、ただ独りで在り続けてきた者に、確かに寄り添えたという実感。
思えば、自分はいつも、何かを「受け取る」側だった。リスナーからの声援も、クリム様からの信頼も、この身に流れ込む魔力さえも。だが今日、初めて、それを誰かに「渡す」側に立てた気がする。その一点だけでも、この骨休めの旅に出た甲斐は、十分すぎるほどあったのかもしれない。
夜風が、境内をゆっくりと吹き抜けていく。清められたばかりの空気は、どこまでも澄んで、そして穏やかだった。




