43話荒ぶる御方
鳥居をくぐった瞬間、空気が一変した。
肌が粟立つ。息をするだけで、喉の奥がひりつくような、濃密な気配が全身を包み込む。まるで水の底に沈められたかのような圧迫感だった。眷属が悲鳴じみた声を上げ、要が反射的に懐の呪符へ手を伸ばした。
「――来る!」
要の叫びとほぼ同時、崩れかけた拝殿の奥から、それは姿を現した。
最初、叶はそれを何と表現すればいいのか分からなかった。ぼんやりと人の形を保ってはいる。だが輪郭は絶えず揺らぎ、時折、獣のような四肢が滲むように浮かび上がっては消える。全身を覆う靄のような黒い霧、その隙間から覗く肌は、まるで枯れ木のようにひび割れていた。頭部にあたる場所には、折れかけた角のようなものが二本、痛々しく突き出している。
両の眼があるはずの場所には、ただ昏い虚空が広がっているだけだった。それでいて、確かにこちらを見ている――そんな不条理な視線の感覚に、叶の背筋を冷たいものが這い上がる。纏う気配の奥底には、確かに神と呼ぶに相応しい荘厳な残り香が漂っていた。だが、その荘厳さは既に朽ち、腐り、正気の欠片も残さぬ醜悪な何かへと成り果てている。かつては尊いものであったはずのそれが、今はただ、見るだけで魂を削られるような、おぞましい存在に成り下がっていた。
「――クルシイ、クルシイ、クルシイ」
声とも呼べない、軋むような音が、辺り一帯に反響する。それはまるで、古い木材が軋むような、あるいは金属を無理やり擦り合わせるような、耳の奥にまで直接突き刺さる不快な響きだった。
「タレモ、コナイ。タレモ、マツラナイ。ワシハ、ココニ、イルノニ……!」
その叫びには、明確な怒りと同じくらいの、深い哀しみが滲んでいた。忘れられ、見捨てられ、それでも尚この地に縛られ続けてきた、途方もない孤独の重みが。だが、その感傷に浸る間もなく、神は――否、かつて神であったものは、黒く長い腕を大きく振りかぶった。
「散れ!」
要の鋭い声と共に、眷属が叶の腕を強く引いた。間一髪、避けた場所を、腕の一薙ぎが薙ぎ払う。地面が抉れ、土くれと共に周囲の木々がへし折れて吹き飛んだ。
「くっ……!」
叶は咄嗟に、体の奥に眠る力へ意識を向けた。フェスタの日のように、あの熱を、もう一度――だが、意識すればするほど、力は掌の隙間からすり抜けていくように感じられた。焦りだけが募り、指先はただ震えるばかりだ。
あの日は、目の前で苦しむ人を救いたいという、純粋な衝動があった。だが今、恐怖に竦む己の中にあるのは、ただの保身の願いだけだ。それだけでは足りないのだと、叶は嫌というほど思い知らされる。力とは、望めば湧き出る泉ではなく、何か確かな核を必要とする、そういう類のものらしかった。
「――やはり、無理か!」
自嘲する余裕すらなく、叶はその場から飛び退くのが精一杯だった。
「叶様、お下がりください!」
眷属の悲鳴じみた声と同時、腕の中にいたラヴィが、ふわりと宙へ躍り出た。
瞬く間に、白い光を纏ってその体軀が膨れ上がる。子猫の輪郭が伸び、猛々しい獣の姿へと姿を変えていく。金色の瞳が、真っ直ぐに荒ぶる神を見据えた。
「ラヴィ……!」
叶が叫ぶと同時、ラヴィは地を蹴り、神へと肉薄した。
これまでの、遊びのような戦いとは違った。神の繰り出す一撃一撃には、これまでの雑魚とは比較にならない重みが込められている。ラヴィの前脚と、神の黒い腕がぶつかり合うたび、衝撃波にも似た風が周囲を薙ぎ、木々の梢が激しく揺れた。
「グガアアアッ!」
神の咆哮に、大気そのものが震える。ラヴィが牙を突き立てるが、黒い霧のような体はまるで手応えがないかのように、その牙をすり抜けていく。かと思えば、次の瞬間には確かな衝撃と共に神が怯む――攻撃が通る時と通らない時があるらしい。まるで、実体と幻の間を、絶え間なく行き来しているかのようだった。
神の黒い腕が、鞭のようにしなって振るわれる。ラヴィはそれを紙一重で躱すと、返す一撃で相手の脇腹らしき場所へ強烈な体当たりを見舞った。今度は確かな手応えがあったらしく、神の輪郭が大きく歪み、苦悶にも似た呻き声が拝殿の残骸にこだまする。だが、喜ぶ間もなく、神の体から黒い霧が奔流のように噴き出し、辺り一帯を瞬く間に覆い尽くした。
「視界を封じるつもりか……! 目を閉じるな、気配を辿れ!」
要が鋭く叫ぶ。だがその声すら、濃密な霧の中では頼りなく掻き消えていくようだった。ラヴィが低く唸り、鼻先で風を切るように霧を薙ぎ払う。刹那、霧の向こうから、黒い腕が音もなく襲いかかった。
「危ない――!」
叶の叫びと同時、ラヴィが横っ跳びに躱す。だが完全には避けきれず、後ろ脚の一部を掠め、純白の毛並みに赤い筋が滲んだ。
「ラヴィ!」
悲鳴じみた声が喉から迸る。だが当のラヴィは、痛みなど意にも介さぬ様子で、すぐさま体勢を立て直し、霧の奥へと再び踏み込んでいった。
「厄介な……! 奴の身は、既に半ば異形と化しておる。生半な攻撃では、核まで届かん!」
要が呪符を素早く連ねながら叫ぶ。指先で印を結び、投げつけた呪符が空中で青白い光を放ち、神の周囲に淡い結界のようなものを描き出した。
「今のうちに、ラヴィ殿!」
その声に応えるように、ラヴィが結界の隙間を縫って、神の懐へと飛び込む。だが、神もさるもの、黒い霧を爆発的に広げてラヴィを弾き飛ばした。
「――ッ!」
巨躯が地面を転がる。叶は思わず駆け寄ろうとしたが、眷属に袖を強く引かれた。
「なりません、叶様! 今はまだ、近づいてはなりません!」
地面に伏せたラヴィが、すぐさま体勢を立て直し、再び神へと向き直る。だが、その息遣いには、これまでにない疲労の色が滲んでいた。額に浮いた汗のような雫が、月光にも似た鈍い光を纏って地面に滴り落ちる。あの圧倒的な、遊ぶような余裕は、もはやどこにも見当たらなかった。
本来であれば、この程度の相手など、ラヴィにかかれば瞬く間に平らげてしまえるはずだった。だが、その体の奥では、目には見えぬ異変が静かに進行していた。異界からこの地へと渡ったラヴィは、その渡航を成し遂げ、この世界に留まり続けるために、自らの内に蓄えていた魔力を、日々少しずつ費やし続けていた。そしてその蓄えが、今まさに、底を突きかけていた。
当のラヴィにも、傍らの叶にも、そしてこの場にいる誰にも、その事実を知る由はない。分かるのはただ、いつもは涼しい顔一つ崩さない相棒が、今この瞬間、明らかに苦しんでいるという、その一点だけだった。
拝殿の奥で、神が再び体勢を整えている。折れかけた二本の角の間から、ごく微かな靄が、まだ揺らめく程度に立ち上り始めていた。
「……妙な気配だ。まだ小さいが、これは今までのものとは毛色が違う」
要が呪符を握りしめたまま、低く呟いた。その横顔には、初めて見る種類の緊張が浮かんでいる。
「くそ……! 上の奴らめ、ちゃんと調査したのか!」
突如、要が苛立たしげに吐き捨てた。
「事前の報告書には、確かに『中位級、単独対応可』とあった。だが、これは明らかに違う。この気配、この力の桁……どう見ても、もっと上のランクの手配だろうが!」
握りしめた呪符が、怒りにわずかに震えている。要の声には、これまでの冷静な物腰からは想像もつかないほどの、剥き出しの憤りが滲んでいた。
「本部の調査不足か、それとも――この数日で、状況そのものが急速に悪化したか。どちらにせよ、単独で対応させられる案件ではなかった」
吐き捨てるように言いながらも、要は次の呪符を懐から取り出す手を止めなかった。愚痴を零している間にも、体は次の一手を準備している。その姿に、叶はどこか、社会人としての哀愁じみたものを覚えずにはいられなかった。現場に丸投げされ、それでも文句を言いながら踏ん張り続ける――どこかで見た光景だ、と場違いにも思う。
叶は歯を食いしばりながら、それでも何もできない自分の無力さを噛み締めた。魔力は、確かにこの身のどこかにある。あるはずなのに、狙って引き出すことができない。まるで、扉の向こうに宝物があるのに、鍵の在り処すら分からないような、そんなもどかしさだった。
「――くそ、なんとかならないのかよ!」
叫んだところで、何かが変わるわけでもない。それでも叫ばずにはいられなかった。
荒ぶる神は、なおも咆哮を上げ続けている。その叫びの奥に滲む「タレモ、コナイ」という哀しい言葉が、叶の耳から離れなかった。
その微かだった靄が、今や渦を巻くほどに濃さを増していた。力を蓄えるように、神の輪郭全体を覆い尽くしていく。中心にある折れかけた角が、まるで断末魔のように鈍く光を放っていた。次に放たれるであろう一撃が、これまでのどれとも比較にならないものであることは、素人の叶にすら肌で感じ取れた。
「ラヴィ殿、これ以上は……!」
要の声にも、隠しきれない焦りが滲む。ラヴィは応えるように低く唸ったが、その足取りは、明らかに最初の頃の力強さを失いつつあった。傷ついた後ろ脚から滴る血が、乾いた土の上に赤黒い染みを広げていく。
――このままでは、いずれ。
考えたくもない予感が、叶の脳裏を掠める。それでも、自分にできることは何もない。この場に立ち尽くし、ただ祈るように見守ることしかできない自分が、たまらなく歯痒かった。
――力ずくで叩き伏せるだけでは、きっと何も終わらない。
根拠のない、けれど確信めいた予感が、叶の胸の内で静かに渦を巻いていた。あの叫びの奥にある孤独を、力だけでねじ伏せたところで、それはきっと、本当の意味での決着にはならない。だが、その予感を言葉にする間もなく、神の輪郭を覆う黒い靄が、臨界を迎えたかのように一際強く膨れ上がった。




