41話襲撃そして陰陽師
翌朝、朝食を終える頃、窓の外にちょこんと座る狐の影が見えた。
「――お迎えに上がりました」
昨夜の眷属だった。昼間の光の下で見ると、その輪郭はいっそう淡く、今にも風に溶けてしまいそうなほど頼りない。だが、纏う気配は昨夜よりもいくらか力強く感じられた。
「よろしく頼む。……お前、名前とかあるのか?」
「畏れ多いことながら、名などという大層なものはございません。ただの森の眷属、とお呼びいただければ」
そう答えると、眷属は先導するように歩き出した。宿の裏手から続く獣道を分け入り、鬱蒼とした木々の合間を進んでいく。ラヴィはキャリーバッグから出て、叶の足元にぴったりと寄り添うように歩いていた。
*
どれほど歩いただろうか。周囲の空気が、ふいに重く、粘つくように変わったのを、叶は肌で感じ取った。
「……なんか、変じゃないか」
「――お気をつけください」
眷属の声が、緊張を帯びる。次の瞬間、木立の奥から、複数の気配がぬるりと滲み出るように現れた。
人の形をしているようで、していない。青白く痩せこけた顔、異様に長い手足、口元だけが裂けたように大きく開いている。三体、四体――いや、木々の合間から次から次へと湧き出るように、その数はとめどなく膨れ上がっていく。十、いや二十はくだらないだろうか。まるで地面そのものから染み出してくるかのように、こちらを幾重にも取り囲みながら、じりじりと輪を狭めてくる。
「ひっ……!」
喉から情けない悲鳴が漏れた。頭では逃げろと分かっているのに、足がすくんで動かない。フェスタの日、あの熱中症の男性を助けた時の感覚を、叶は必死に手繰り寄せようとした。あの時のように、身の内から魔力が溢れ出せば――そう信じて、両手に力を込める。
「く……っ!」
だが、何も起こらなかった。体の奥に確かな力の気配は感じる。感じるのに、それをどう引き出せばいいのか、まるで分からない。あの日は感情の昂りに任せて無意識に発現したものだ。狙って出せるような、便利なものではなかったのだと、今更ながら思い知る。
「くそ、なんで……!」
焦りばかりが募る。目の前の異形が、涎を垂らしながら一歩、また一歩と迫ってくる。
「叶様、お下がりください!」
眷属の悲鳴じみた声と同時に、叶の足元にいたラヴィが、ふわりと宙に躍り出た。
その体が、光を纏って膨れ上がる。
小さな白い子猫の輪郭が、まるで粘土をこねるように歪み、伸び、膨張していく。瞬く間に、叶の背丈をゆうに超える巨躯へと姿を変えた。純白の毛並みは変わらないが、その体軀は猛々しい獣そのもの――鋭い牙、爛々と輝く金色の瞳、地を踏みしめる四肢には隠しきれない威圧感が漲っている。異世界の森で初めて出会った、あの本来の姿だった。
叶は言葉を失い、ただ目の前の光景に息を呑んだ。あの人懐っこい、膝に乗ってくる白猫と同じ存在だとは、にわかには信じられなかった。
答える代わりに、ラヴィは低く一声唸ると、悠然と前へ進み出た。急ぐ素振りは欠片もない。まるで路傍の石ころでも眺めるかのような、冷ややかな金色の瞳が、群れなす異形たちをぐるりと睥睨する。
一瞬だった。
巨大な前脚が、億劫そうに一度、宙を薙いだ。ただそれだけの動作で、近くにいた三体の異形が、悲鳴すら上げる間もなく纏めて吹き飛び、木の幹に叩きつけられて霧散する。だが、群れはひるむ様子もなく、後から後から涌き出るようにして押し寄せてきた。四方八方から、涎を垂らした顎が、爪を立てた手が、次々と襲いかかる。
それでも、ラヴィはその場からほとんど動きすらしない。まるで羽虫の大群を払うかのように、最小限の所作で薙ぎ、踏みつけ、噛み砕いていく。右から迫る一体を前脚で叩き潰したかと思えば、その勢いのまま尻尾の一振りで背後の数体をまとめて薙ぎ払う。跳びかかってきた一体を顎で咥え上げ、地に叩きつけると同時に、足元に群がっていた別の一団を踏み潰す。数の暴力すら意に介さない、あまりに一方的な蹂躙だった。異形たちは断末魔の声を上げる暇もなく、次々と黒い霧へと変わり、闇の中へ溶けるように消え去っていく。その数は、しまいには数えるのも馬鹿らしくなるほどだった。
辺りに、静寂が戻る。地面には、黒い霧の名残だけが、いくつも薄く漂っていた。
まさに一頭の王者だった。数千年後には街をも容易く崩し得るという、あの伏せられた本性の片鱗が、今、はっきりと露わになっている。叶はただ、その圧倒的な威容に見入ることしかできなかった。
「……終わった、のか?」
呆然と呟く叶の前で、ラヴィがゆっくりとこちらを振り返った。その巨躯からは、まるで叶の存在などなかったかのような静けさが漂っている。
「お見事にございます……!」
木陰から顔を出した眷属が、感極まったように声を上げた。
叶はへなへなと、その場に座り込んだ。自分は結局、何もできなかった。力の使い方すら分からず、ただ立ち尽くしていただけだ。悔しさと安堵が入り混じり、乾いた笑いが漏れる。
「情けないな、俺は……」
そう自嘲した、その時だった。
「――待て!」
凛とした声が、木立の向こうから響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、着流しに羽織を纏った、鋭い眼光の青年だった。手には、古めかしい呪符の束を携えている。
「今しがた放たれた、あの妖力の奔流……これほどの気配、只事ではない」
青年は油断なく周囲を見回し、そして――巨大な白獣の姿をしたラヴィに視線を止めた瞬間、その目が驚愕に見開かれた。
「な……この気配は……!?」
「……あんた、誰だ?」
叶が問いかけると、青年はようやくこちらに意識を向けたらしい。人間である叶と、隣に佇む巨獣を交互に見やり、明らかに困惑した様子を見せる。
「――失礼した。私は安倍要と申す。とある筋から命を受け、この地に来ている陰陽師の者だ。」
初めて聞く名前だった。だが「陰陽師」という単語だけは、思わぬところで叶の記憶を刺激した。
――そういえば、俺の配信のリスナーにも、「とある陰陽師」ってハンドルネームの人、いたよな……。
あれはてっきり、ロールプレイか何かの類だとばかり思っていた。まさか、本物の陰陽師なんてものが本当に実在するとは。この非常識な状況の中で、場違いにもそんな場末めいた感想が頭をよぎり、叶は内心で小さく苦笑した。
「実は数週間前から、この地域一帯の妖力に、看過できぬ乱れが生じていてな。本来ならば緩やかに流れているはずの気が、局所的に渦を巻き、濃度を増している。私が所属する対異形対策室では、この異変を注視し、私が調査に派遣された次第だ」
「対異形対策室……」
聞き覚えのない単語に、叶は思わず眉をひそめる。
「詳しい話は、追い追いするとして……この裏山に鎮座する神が、正気を失いつつあるという報告も入っている。それを鎮めるべく、ここへ足を運んだのだ」
要はそこまで語ると、改めてラヴィへと視線を戻した。まじまじと、値踏みするように見つめる。その表情に、次第に困惑の色が広がっていく。
――にしても、この式神。
いや、式神、なのか?
纏う気配のどこかに、確かに神聖と呼べるものが混じっている。だが、それだけではない。神獣の類かとも思ったが、それにしては纏う気配の奥底に、うっすらとした禍々しさのようなものが潜んでいる。神とも、式神とも、まして単なる妖とも言い切れない。これほど分類のつかない気配を放つ存在に、要はこれまで出会ったことがなかった。
――これは、一体、何なのだ。
「……貴殿、その獣を従えておられるのか。並の術者では到底扱えぬ気配だが……もしや、式神使いか?」
「式神……?」
思いも寄らない問いに、叶は瞬きを繰り返す。要が何を言っているのか、すぐには理解が追いつかなかった。
だが、要の方は、その反応をどう捉えたのか、勝手に得心したように頷いている。
「答えずとも良い。手の内を明かせぬ事情がある術者は少なくない」
その独り合点ぶりに、叶は思わず口を挟みかけたが、何をどう説明すればいいのか分からず、結局言葉を飲み込んだ。異世界の魔物であり、自分がクリムゾフィアという配信者の中身であることなど、とても口に出せる話ではない。
「……とにかく、事情は分かった」
要は懐から、新たな呪符を取り出しながら、静かに言った。
「私も、この裏山の神のもとへ向かうつもりだった。目的が同じならば――同行を許してもらえぬだろうか」
巨獣の姿のまま、ラヴィが小さく鼻を鳴らす。まるで「好きにしろ」とでも言うような、素っ気ない反応だった。
叶は、ちらりと眷属の方を見る。眷属もまた、戸惑いながらも小さく頷いた。
「……分かった。詳しい話は、歩きながらでいいか」
「構わない」
こうして、思いもよらない同行者を加えて、一行は再び、裏山の奥深くへと足を進めることになった。




