40話小さな来訪者
「な、なんだったんだ、今のは……」
部屋に戻ってからも、叶の心臓はまだ小さく跳ねていた。祠から漂っていた、あの寂しげな気配。そして、ラヴィが見せたただならぬ警戒――どれもこれもが、単なる「疲れ目」で片付けられるものではないことは、もう分かりきっていた。
畳に座り込み、両手で顔を覆う。異世界で竜人の国王や吸血鬼の従者と対面してきたはずなのに、あの祠の前で感じた寒気は、それとはまるで種類の違うものだった。
「お前、さっきの、分かるのか?」
畳の上に丸くなったラヴィに問いかけると、ラヴィは片目だけを開けて、こちらをちらりと見た。答える代わりに、小さく『みゃう』と鳴く。その声色には、いつもの甘えたものとは違う、どこか緊張の色が滲んでいた。
夕食は部屋食で運ばれてきた。山の幸を活かした膳の数々――岩魚の塩焼き、山菜の天ぷら、きのこの炊き込みご飯。どれも滋味深く、旅の疲れが少しずつ溶けていくようだった。給仕に訪れた仲居に「何かございましたか?」と顔色を窺われるほど、まだ動揺が抜けきっていなかったらしい。「少し歩き疲れただけです」とごまかしながら箸を進めるが、味わう余裕もどこかへ行ってしまっている。それでも、食事を終えて一息つく頃には、あの祠のことが再び頭をもたげてくる。
「……ちょっと、風に当たってくるか」
夜も更けた頃、叶はラヴィを伴い、再び中庭へと足を向けた。露天風呂に浸かる前に、少し頭を冷やしたい気分だった。
月明かりに照らされた中庭は、昼間とはまるで違う顔をしていた。池の水面が銀色に光り、木々の影が地面に長く伸びている。祠の前まで来ると、昼間と同じように、ラヴィが小さく身を強張らせた。
だが、今度は唸り声を上げなかった。代わりに、鼻先をひくつかせ、何かを探るような仕草を見せる。
「――どうか、お許しください」
不意に、か細い声が響いた。
叶の全身が、その場で凍りついた。声のした方――祠の陰から、ぼんやりとした人影がゆらりと立ち上がる。
心臓が、ドッと音を立てて跳ねた。頭の中が真っ白になる。逃げなければ、と思うのに、足がまるで根でも張ったかのように動かない。悲鳴を上げようとしたが、喉の奥に張り付いたようになって、声にすらならなかった。
いや、人ではない。小さな体、獣のような耳、ふわりとした尻尾。子供ほどの背丈をした、狐のような姿をした何かだった。輪郭は淡く、まるで月明かりに溶けてしまいそうなほど頼りない。だが、確かにそこに――目の前に――「いる」。
これまで幾度となく感じてきた、視界の端をよぎる違和感やちらつき。あれとは、まるで質が違った。これは幻でも見間違いでもない。紛れもなく実体を伴った、人ならざる何かが、今、自分と向かい合っている。
その事実が理解の許容量を超えた瞬間、叶の背中にどっと汗が噴き出した。膝が震え、後ずさろうとした拍子に、危うく尻もちをつきそうになる。何かにしがみつきたい衝動のまま、無意識にラヴィの体をぎゅっと抱き寄せていた。
「な……なな、なんだよ、それ……!」
自分でも情けないほど、声が裏返っていた。頭では「妖怪」だの「怪異」だのという言葉が渦を巻いているのに、その現実感が、あまりにも重すぎて処理しきれない。
――妖怪って、本当に、いるのか……。
子供の頃に絵本や昔話で聞かされた、あの類の存在。大人になった今では、迷信か作り話としか思っていなかったものが、目の前で、はっきりとした輪郭を持って存在している。異世界の魔族や竜人たちですら、どこか「異世界の理」として自分の中で線引きができていた。だが、これは違う。自分が生まれ育った、この日本という国の――地続きの現実の中に、ずっとこんなものが潜んでいたのだと思うと、足元の地面そのものが揺らぐような感覚に襲われた。
「怯えさせてしまい、申し訳ございません。この森に棲む、小さな眷属の者にございます」
狐の姿をしたそれは、深々と頭を下げた。声には敵意も棘もなく、ただただ切実な響きがあった。その丁重な物腰が、かえって現実離れした光景に拍車をかける。
「あなた様方から感じる力……それに、そちらの獣の御方から漂う気配。どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか」
叶は言葉に詰まる。動悸はまだ収まらない。だが、ラヴィは驚いた様子もなく、むしろ眷属の言葉に静かに耳を傾けているようだった。その落ち着き払った様子に、ほんの少しだけ、強張っていた肩の力が緩む。
――ラヴィが平気なら、少なくとも、命の危険はない、のか?
そう自分に言い聞かせ、震える息を大きく吸い込む。まだ現実感は薄いままだったが、なんとか声を絞り出した。
「……ちょっと待ってくれ。話が全然見えない。順を追って説明してくれないか」
叶がそう言うと、眷属は一つ頷き、ぽつりぽつりと語り始めた。
「この裏山には、古くから鎮座なさる神様がおいでです。かつては、村の者たちが総出でお祭りを執り行い、豊作も、無病息災も、皆この御方のおかげと感謝しておりました」
「けれど――」
「時が流れ、村から人が減り、やがて誰もいなくなりました。神主様も、後を継ぐ者がおらぬまま、遠い町へと移られてしまわれて」
眷属は、悲しげに耳を伏せた。
「信仰の絶えたこの地で、あの御方は少しずつ、少しずつ、お力を失っていかれました。そして今――正気を失いかけておられるのです」
「正気を失う、って……」
「本来、あの御方は森を守り、人々に恵みを与える、心優しき存在にございました。しかし今は、力の欠乏に苦しむあまり、周囲のものすべてを敵と見做し、荒れ狂っておいでです」
眷属の語る話に、叶はふと、自分の故郷のことを思い出していた。若者が減り、店が一軒、また一軒と閉まっていく商店街。祭りの担い手が足りず、規模を縮小せざるを得なくなった夏祭り。人が減るということは、こうも色々なものを静かに、確実に、蝕んでいくものなのか――。
異世界の話ではない。この日本の、あちこちで起きている現実の縮図が、目の前の神様の身にも起きているのだと思うと、他人事とは思えない重さが胸にのしかかった。
眷属はそこで、ちらりと森の奥へと視線を向けた。何かに怯えるような、そんな仕草だった。
「加えて――あの御方のお力が弱まったことで、森の均衡もまた崩れつつあります。本来ならば御方の威光に触れて姿を潜めていたはずの、悪しきものたちが、近頃、目に見えて増えているのです」
「悪しきもの……妖怪ってことか」
「はい。私どものように人の世を大切に思う者もいれば、古くから人を喰らい、その命を糧に生き永らえてきた、恐ろしいものたちもおります。あの方々にとって、あなた様のように魔力……いえ、この地で言うところの妖力をお持ちの人間は、またとない獲物」
その一言に、叶の背筋がぞくりと冷えた。
「……つまり、俺は狙われてる、ってことか」
「御身をお守りできる保証は、私どもにはございません。ですが――」
眷属は、まっすぐに叶を見上げた。その瞳には、縋るような光が宿っていた。
「あの御方さえ、正気を取り戻していただければ。信仰か、あるいは十分な力さえ取り戻せば、御方は再びこの森の守り神として、悪しきものたちを退けてくださいましょう。どうか――どうか、お力添えを」
深々と頭を下げる小さな影に、叶は言葉を失っていた。
断ることは、簡単だった。俺は一介の会社員だ、こんな話に首を突っ込む道理はない――そう言えば、それで済んだはずだ。
だが、脳裏をよぎったのは、いつか配信で自分自身が――否、クリムゾフィアが語った言葉だった。
『領民が目の前で苦しんでおるというのに、指をくわえて見ておるほど、腑抜けてはおらぬのだ』
あれは口先だけの台詞ではなかったはずだ。
「……分かった」
気づけば、そう答えていた。
「詳しいことはまだ分からないことだらけだけどな……とりあえず、俺たちは何をすればいい?」
眷属の顔に、ぱっと安堵の色が広がる。
「ありがとうございます……! それでは、明日にでも、御方の御座す社まで、ご案内いたします」
そう言い残すと、狐の姿をした眷属は、月明かりの中へ、煙のように溶けて消えていった。
夜風が、静かに中庭を吹き抜けていく。ラヴィが、そっと叶の足に体をすり寄せてきた。
「……とんでもないことになったな」
苦笑交じりに呟きながらも、叶の胸の奥には、不思議と使命感にも似た熱が灯っていた。骨休めのはずだった旅は、思わぬ方向へと動き出そうとしていた。
それでも――と、叶は夜空を見上げる。満天とまではいかないが、都会では見られないほどの星が、山の稜線の上に瞬いていた。故郷の空を思い出しながら、叶は小さく息を吐く。明日、自分たちはいったい何を目にすることになるのだろう。不安と、ほんの少しの好奇心が、綯い交ぜになって胸の中に渦巻いていた。




