39話一軒宿にて
ローカル線の終着駅を降りると、出迎えていたのは澄んだ空気と、山肌を渡る風の匂いだった。
「……すごいな、これは」
思わず声が漏れる。都会の喧騒に慣れきった耳には、鳥のさえずりと川のせせらぎしか聞こえない静けさが、かえって新鮮だった。ラヴィもキャリーバッグの中で鼻をひくつかせ、興味深そうに周囲を見回している。
ホームに降り立った瞬間、稲穂の匂いを含んだ風がふわりと頬を撫でた。その匂いに、叶は思わず足を止める。
――懐かしい。
都会に出てから、もう何年経つだろう。就職を機に上京し、盆暮れに顔を出す程度になっていた東北の実家。田んぼの緑、山間を渡る涼やかな空気、遠くで響く鳥の声――目の前に広がる景色は、故郷のそれと寸分違わず重なって見えた。夕暮れ時、外で遊び疲れて家路につく子供の頃の自分が、ふとまぶたの裏に蘇る。
「……なんか、変な感じだな」
誰にともなく呟く。仕事に追われる日々の中で、故郷のことなど思い出す暇もなかった。それが、こんな見知らぬ土地の匂い一つで、こうもあっさりと引き戻されてしまうとは。
キャリーバッグの中から、ラヴィが不思議そうにこちらを見上げていた。
駅前で待っていた送迎車に乗り込み、山道をくねくねと上ること三十分。窓の外の緑がいよいよ深くなった頃、木々の合間から、瓦屋根の古い建物がふっと姿を現した。
その道中、叶はふと妙な感覚に襲われた。木立の奥、鬱蒼とした緑の隙間から、誰かにじっと見つめられているような――そんな気配だ。慌てて視線を巡らせても、そこにあるのはただ深い森が続くばかりで、人影どころか動物の姿すら見当たらない。
「……気のせい、だよな」
小さく呟いて座席に座り直す。だが、車が曲がりくねった山道を進むたび、その視線めいた感覚は、思い出したように何度も背中を撫でていった。時折、木々の隙間に、何かがちらりと動いた気もする。ただの木の葉が風に揺れているだけかもしれない。それでも、心臓の奥がざわつくのを止められなかった。
隣に座るキャリーバッグの中で、ラヴィがふと顔を上げ、同じ方向を見つめていることに、この時の叶はまだ気づいていなかった。
「お客様、到着でございます」
運転手にそう告げられ、叶は荷物を抱えて車を降りる。目の前に建つのは、写真で見た通りの――いや、写真以上に趣のある一軒宿だった。苔むした石垣、年季の入った暖簾、玄関先には小さな灯籠がぽつりと灯っている。
「――ようこそお越しくださいました」
出迎えてくれたのは、品の良い和装の女将だった。年の頃は五十代半ばだろうか、柔らかな物腰の中に、どこか凛とした芯の強さを感じさせる人だった。
「本日から一週間、お世話になります。笹川です」
「はい、承っております。長旅でお疲れでしょう。どうぞ、中へ」
女将に連れられ、磨き抜かれた廊下を渡っていく。壁に飾られた古い墨絵や、年代物の柱時計を横目に歩きながら、叶はふと、背後に何かの気配を感じて振り返った。だが、廊下の先にあるのは、伸びていく影と、静かに灯る行灯の明かりだけだ。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……なんでもないです」
女将の問いに、慌てて首を振る。長旅の疲れで、少し神経が過敏になっているだけだろう。そう自分に言い聞かせながらも、背筋にまとわりつくような感覚は、なかなか消えてくれなかった。
案内された部屋は、囲炉裏のある居間と、畳敷きの寝室が続き間になった造りだった。窓の外には裏山の緑が迫り、その向こうにかすかに湯気の立ち上る露天風呂が見える。
「わあ……」
思わず声を漏らすと、女将は柔らかく微笑んだ。
窓辺に歩み寄り、裏山の稜線をぼんやりと眺める。夕暮れの淡い光に染まる山肌、遠くで鳴く蜩の声、湿った土と草の匂い――どれもこれもが、実家の裏庭から見た景色とよく似ていた。子供の頃、縁側に座って祖母が淹れてくれた麦茶を飲みながら、こうして日が暮れていくのをただ眺めていたことを思い出す。
あの頃は、こんな景色のどこが特別なのか分からなかった。むしろ、早くこの田舎を出て、都会の華やかさに触れたいとさえ思っていた。それが今になって、こんなにも胸に染み入ってくるのだから、人の心とは分からないものだ。
「一度、顔出すか……」
スマートフォンを取り出しかけて、しかしすぐに手を止める。今回は完全な骨休めのはずだった。それに、実家に顔を出すとなれば、あれこれ理由を聞かれるのも面倒だ。ひとまずその考えは、心の片隅にそっとしまっておくことにした。
「ごゆっくりなさってくださいね。お夕飯は十八時にお持ちいたします。それと――」
女将はふと言葉を切り、部屋の隅に置かれたキャリーバッグへ視線を向けた。中からひょっこりと顔を出したラヴィと、目が合う。
叶の背筋に、一瞬冷たいものが走った。まさか、ペット同伴について何か言われるのか。それとも――
「まあ、可愛らしい猫ちゃん」
女将はただ、目を細めてそう言っただけだった。ほっと胸を撫で下ろす叶をよそに、女将は続けて、どこか含みのある口調でこう付け加えた。
「この辺りは昔から、少し不思議なことが多い土地でしてね。猫は縁起がいいと言われております。何かございましたら、いつでもお声がけください」
それだけ言い残すと、女将は静かに一礼して部屋を後にした。
「……不思議なこと、か」
その一言が、妙に耳に残った。単なる社交辞令なのか、それとも――。
叶は苦笑して首を振る。深読みしすぎだ。ここに来たのは、あくまで骨休めのためなのだから。
*
荷物を解いて一息つく頃には、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。夕食までまだ少し時間がある。叶はラヴィを伴って、宿の敷地内を軽く散策することにした。
磨き抜かれた廊下を渡り、中庭に出ると、色とりどりの鯉が泳ぐ池と、小さな祠が目に入った。手入れは行き届いているが、どこか古びた印象を受ける祠だ。
「……こんなところにも、あるんだな」
何気なく手を合わせようとしたその時、ふと視界の端で、何かがちらりと揺れた気がした。
振り返る。だが、そこには誰もいない。夕暮れの中庭に、ただ風が吹き抜けていくだけだ。
――気のせいか。
そう思おうとした矢先、足元のラヴィが、ふいに祠の方をじっと見つめて低く唸り始めた。普段の甘えた鳴き声とはまるで違う、警戒するような響き。
「ラヴィ?」
問いかけても、ラヴィは祠から目を離さない。まるで、そこに何かがいるとでも言うように。
叶は思わず息を呑んだ。フェスタの日から続いていた、視界の端のちらつき。あれは決して、疲れ目などではなかったのかもしれない。
夕暮れの中庭に、しんと静寂が満ちる。祠の奥から漂う気配は、敵意とも呼べぬ、ただ寂しげな何か――そんな気がしてならなかった。




