38話有休消化、そして温泉
翌朝、出社した叶はいつもより少し早めに雫石のデスクへと向かった。
「係長、少しよろしいですか」
「ん? どうした、笹川」
パソコンから顔を上げた雫石は、目の下に薄っすらとクマを浮かべた叶の顔を見て、わずかに眉をひそめた。
「有休を、まとめて頂こうと思いまして。来週から一週間ほど」
その一言に、雫石は一瞬きょとんとした顔をした。それも無理はない。叶が有休をまとめて申請するのは、記憶にある限り初めてのことだった。
「珍しいな、お前が。何かあったのか」
「いえ、特に何かというわけでは。ただ、最近ちょっと立て込んでいたので、頭を切り替えたいなと」
半分は事実だ。フェスタの疲労と、その後も収まらない気だるさ。もう半分は、言えるはずもない事情だった。
「まあ、いい傾向だ。お前は前から休みを取らなすぎるって、部長も気にしてたからな」
雫石は椅子の背もたれに体を預け、拍子抜けするほどあっさりと頷いた。
「どこか行くのか?」
「温泉に。少し山奥の方まで」
「へえ、いいじゃないか。誰かと一緒か?」
一瞬、答えに詰まる。まさか「大型のもふもふ魔物と二人旅です」とは言えない。
「……まあ、気のおけない相棒と、ですかね」
曖昧な返しをすると、雫石は「ほう」と意味ありげな笑みを浮かべたが、それ以上は深く突っ込んでこなかった。愛猫家の彼にとっては、動物同伴の旅行くらい珍しくもないのかもしれない。むしろ好意的に受け取られている気配すらあった。
「分かった、申請は通しておく。代わりの人員は?」
「石井に頼もうかと。あいつなら、こっちの案件も大まかには把握してますし」
そこへ、廊下を通りかかった永峰がひょっこりと顔を覗かせた。恰幅の良い身体を揺らしながら、二人のやり取りに耳を挟んでいたらしい。
「おお、笹川、休み取るのか。そりゃいい」
「部長……聞いてらしたんですか」
「聞こえてきたんだよ、たまたまな。いいから行ってこい。お前は普段働きすぎなんだ、少しくらい羽根伸ばさんと身が持たんぞ」
永峰は快活に笑うと、ぽんと叶の肩を叩いて去っていった。上司二人からの太鼓判に、叶は思わず苦笑を漏らす。こうもあっさり後押しされると、逆に申し訳なさすら覚えてしまうのだから、我ながら現金なものだ。
*
「――というわけで、来週一週間、俺が抜ける」
「はぁ!? 俺一人でこの案件回すの!?」
昼休み、給湯室で捕まえた石井は、案の定、素っ頓狂な声を上げた。
「一人じゃない。雫石係長にも共有してあるし、大きい判断が必要な場面は電話で拾う。基本的な進行と顧客対応だけ頼みたい」
「うう……分かったよ。お前がそこまで言うなら」
ぶつぶつと文句を垂れながらも、石井はどこか諦めたような顔で肩をすくめた。
「まあ、ちょうど大きい案件も落ち着いてる時期だしな。今なら、まぁ……いっか」
そう言いながらも、石井は律儀にメモを取り始める。根は真面目で面倒見が良いということを、叶はこの数ヶ月でよく分かっていた。多少頼りない部分はあるが、任せて任せられない相手ではない。
「土産、期待してるからな」
「分かった分かった」
「にしても、お前が旅行なんて珍しいな。どこ行くんだよ」
「温泉。山奥の方に」
「へえ、いいなあ……俺なんて有休消化する暇もないのに」
わざとらしくため息をつく石井に、叶は思わず噴き出した。憎めない同期だと、つくづく思う。
軽口を叩き合いながら、その日のうちに主要案件の資料を整理し、進行表に付箋を貼り、引き継ぎメモを作成した。夜には資料一式を石井のデスクに置き、念のためもう一度、要点だけを口頭でも伝えておいた。
「これで、心置きなく行けるな」
帰りの電車の中、独り言のように呟く。窓の外を流れる街の灯りを眺めながら、叶は数日後の景色を思い描いた。
*
それから数日後――。
「おい、ラヴィ。忘れ物ないか、確認するぞ」
玄関先に広げたボストンバッグの前で、叶は指折り持ち物を数えていく。着替え、タオル、常備薬、モバイルバッテリー。そして、ラヴィ専用に用意した小さなキャリーバッグには、お気に入りのブランケットと、道中用のおやつがぎっしりと詰め込まれていた。
『みゃあ!』
当のラヴィは、朝から興奮を隠しきれない様子で、バッグの周りをぐるぐると歩き回っている。旅行という概念を理解しているのかどうかは分からないが、少なくとも「いつもと違う特別な何か」が起きようとしていることは、しっかりと感じ取っているらしい。
「そんなに急かすなって。忘れ物したら、それこそ台無しだろ」
苦笑しながらも、叶の口元は自然と緩んでいた。フェスタの熱気が去ってからずっと、身体の奥に沈んでいた重たいものが、今朝はいくらか軽くなっている気がする。
ふと、荷物を整理する手が止まる。――そういえば、宿でうっかり変身してしまったらどうする。フェスタの時のように「精巧なコスプレ」で誤魔化せる相手がいるとは限らない。念のため、と羽織れる上着とタオルを一枚多めに詰め込んでおくことにした。何かの拍子に姿が変わっても、とりあえず周囲の目を凌げるように。我ながら用心深いというより、少々被害妄想じみているかもしれないと苦笑する。
最後にもう一度、予約確認のメールを開いて宿の名前と住所を確かめる。あの夜、ラヴィと一緒に選んだ、山あいにひっそりと佇む一軒宿だ。写真で見た露天風呂の湯気を思い出すと、それだけで肩の力が抜けていくようだった。
「よし……行くか」
玄関の鍵をかけ、ボストンバッグを肩に掛け、キャリーバッグを片手に持ち上げる。中でラヴィが『みゃう』と小さく鳴いた。まるで「待ちくたびれた」とでも言いたげな声だった。
最寄り駅までの道のりを歩きながら、叶はふと空を見上げる。フェスタからここまで、怒涛のように駆け抜けてきた日々だった。グッズ化、コラボ配信、ゲーム配信、そしてあの熱中症騒動――思えば息をつく暇もなかった。
だからこそ、今このひとときが、ひどく貴重なものに思える。
電車に揺られること数時間。都会の喧騒が徐々に遠ざかり、車窓の景色が高層ビルからのどかな田園へ、そしてやがて深い緑の山あいへと移り変わっていく。乗り継いだローカル線は本数も少なく、車内には叶とラヴィの他に数人の乗客がいるだけだった。
乗り換えの待ち時間に買っておいた駅弁を膝の上で広げると、キャリーバッグの中からラヴィがそわそわと鼻を動かした。中身は地元名産だという牛肉の炊き込みご飯だ。人目がないのを確認してから、こっそりと少しだけ肉を分けてやると、あっという間に平らげてしまう。
「お前、旅先でも遠慮ってものがないよな」
呆れ半分でそう言いながらも、満足げに喉を鳴らすラヴィを見ていると、こちらまで自然と頬が緩んでしまう。窓の外では、山肌に沿って川が流れ、時折鹿らしき影が木立の合間を横切っていくのが見えた。都会では決して目にすることのない景色に、ラヴィも興味津々といった様子で顔を寄せている。
のんびりと揺られながら、叶はキャリーバッグの隙間からラヴィの様子を窺う。窓の外を流れる緑を、興味深そうにじっと見つめていた。
「もうすぐ着くってさ。念願の、温泉旅行」
小さく声をかけると、ラヴィはこちらを振り返り、満足げに目を細めた。
この時の叶は、まだ知らない。この山深い土地に、単なる骨休め以上の――奇妙な"出会い"が待ち受けていることを。




