37話配信振り返りの夜と温泉
ここから、新章突入です。妖怪とか出ます
フェスタから三日が経っても、身体の芯に居座る気だるさは抜けきらなかった。
スマートフォンを開けば、いまだに「#クリムゾフィア」のタグが緩やかにタイムラインを流れている。ステージの切り抜き、物販列での握手会の一場面、そして――あの瞬間の、複数アングルから撮られた動画。何十回と見返したはずなのに、笹川叶は画面の中の変身後の自分が男性を軽々と抱え上げる場面で、いつも同じところで指を止めてしまう。
「反射光、か……」
考察スレの結論はそれで固まりつつあるらしい。ありがたい話だ。だが同時に、ほんの一握りの人間が「一応、頭の片隅には置いておく」と書き残しているのも見た。杞憂であってほしいと思う一方で、こういう小さな違和感は、放っておくと存外しぶとく根を張るものだということも、社会人としての勘が告げていた。
――ならば、いっそこちらから話してしまえばいい。
隠すのではなく、語る。核心には触れず、だが不自然な沈黙も作らない。それが一番、火種を消す近道だ。
配信の支度をしようと立ち上がった拍子に、どっと肩が重くなる。フェスタ本番、その後の物販対応、そして事務所への報告と、休みなく駆け抜けてきたツケが今になって回ってきているらしい。
「……疲れたな、さすがに」
誰に言うでもなく呟き、スマートフォンで社内の勤怠アプリを開く。表示された有休の残日数は、想像していたより随分と多かった。溜め込む一方で、まともに消化できた試しがない。上司の雫石からも「たまには使えよ」と何度か言われていたのを思い出す。
――旅行にでも、行くか。
その考えが浮かんだ途端、足元でくつろいでいた白い塊が、ぴくりと耳を動かした。
「なんだ、ラヴィ。行きたいところでもあるのか?」
試しに問いかけてみると、ラヴィは前足を伸ばして大きく伸びをし、こちらを見上げて『みゃあ』と一声鳴いた。まるで待っていたと言わんばかりの反応に、叶は思わず笑ってしまう。
「……そうだ。温泉でも行くか、お前と」
言葉にした瞬間、驚くほどしっくりときた。山奥の静かな湯にでも浸かって、しばらくは誰の目も気にせずのんびり過ごす。悪くない、というよりも、今の自分に一番必要なものはそれかもしれなかった。ラヴィも尻尾を大きく振って、賛成の意を示している。
「よし、決めた。詳しい行き先はまた探すとして……ひとまず今夜の配信で、少し休みを取ることは伝えておくか」
叶はノートパソコンを開き、配信開始のボタンに指をかけた。
*
「――皆、待たせたな。クリムゾフィアだ」
いつもの台詞と共に、コメント欄が瞬く間に埋まっていく。
『待ってた!!!』
『フェスタお疲れ様でした』
『あの日は本当にありがとうございました…』
『クリム様、体調は大丈夫ですか?』
最後のコメントに、叶は――否、鏡の向こうで語るクリムゾフィアは、ゆるやかに目を細めた。
「うむ、そのことも含めて、今宵は先日の祭典について語ろうと思っておる。まずは礼を言わせてくれ。あの舞台に足を運んでくれた者、画面の向こうで見守ってくれた者――そなたたちの声援があってこそ、余は最後まで立っていられた」
コメントが感謝と労いの言葉で埋め尽くされる。それを一つひとつ視界に収めながら、叶は続けた。ステージの上で見た景色、物販で交わした言葉、握手の温度――誇張せず、しかし惜しみなく、その日感じたものを語っていく。ここまでは何度も脳内でリハーサルした通りだ。問題は、この先だった。
「さて」
クリムゾフィアは一拍おいて、椅子に座り直す仕草をした。
「そなたたちも、あの一件は目にしただろう。会場で人が倒れ、余がそれを持ち上げた、というあの騒ぎだ」
コメント欄の流れが、わずかに速度を落とす。誰もが息を潜めるようにして、次の言葉を待っているのが伝わってきた。
「案ずるな、大した話ではない」
あえて軽い調子で、叶は言葉を紡ぐ。
「余は仮にも一国の統治を預かる身の上でな。領民が目の前で苦しんでおるというのに、指をくわえて見ておるほど、腑抜けてはおらぬのだ。あの時はただ――この者を救わねば、という一心だった。気づけば身体が動いておった、それだけのことよ」
嘘は言っていない。誇張もしていない。ただ、力の出どころについてだけは、意図的に曖昧なまま置いておく。
『それってつまり…火事場の馬鹿力的な?』
『クリム様の気迫がすごすぎる』
『普通に感動した泣いた』
『でもマジで人間業じゃなかったような…(小声)』
最後の一言に、心臓が小さく跳ねる。だがコメント欄はすぐにその発言を押し流し、代わりに温かい言葉が積み重なっていった。杞憂だったか、と胸を撫で下ろしかけたところで、クリムゾフィアはあえて付け加えた。
「もっとも――余の一族には、いざという時に思わぬ底力を発揮する血が流れておるらしくてな。当人にも詳しい理屈はよう分からぬのだ。まあ、そういう者だと思っておいてくれれば良い」
半分本当で、半分は誤魔化しだ。それでも「よう分からぬ」の一言は、この手の噂を丸く収めるのに存外効果的だった。異世界の貴族という設定そのものが、常識の外側にある存在として最初から受け入れられている。人間離れした力も、「まあ、クリム様だし」で片付けられてしまう土壌が、既に出来上がっているのだ。
『解説ありがとうございます!安心しました』
『クリム様の一族ヤバすぎる草』
『またその力見てみたいw』
『とにかく倒れた方が無事で本当に良かった』
空気が緩んでいくのを感じながら、叶は密かに胸を撫で下ろした。
*
「さて、せっかくだ。今宵は普段より少し、お便りにも目を通そうと思う」
コメント欄が歓声で沸く。事前に募っていたわけではないが、フェスタの感想を交えたメッセージが山ほど届いているのは把握していた。クリムゾフィアは画面に表示された投稿を、ゆっくりと読み上げていく。
「――『会場では緊張で声もかけられませんでしたが、握手していただいた手の温かさをずっと覚えています』か。うむ、余の方こそ礼を言いたい。あの日、そなたのような者が一人ひとりいたからこそ、あの舞台は成り立ったのだ」
一通、また一通と読み進めるうちに、あの日の情景が鮮やかに蘇る。緊張した面持ちで列に並んでいた人々、涙ぐみながら手を握ってくれた者、遠方からわざわざ足を運んでくれたという者。どの言葉にも、飾らない温かさが滲んでいた。
『お便りコーナー好き』
『クリム様の朗読、耳が幸せ』
『自分のも読んでもらえたらいいな…』
和やかな空気のまま、コーナーは締めくくられた。だが、この後に控えている知らせを思うと、叶の心にはささやかな緊張が走る。喜んでもらえるとは思うが、少し寂しがらせてしまうかもしれない。
*
その後は、フェスタで印象に残った場面を振り返るコーナーへと移った。ラヴィのグッズが開始一時間で完売した件、控室でスタッフから受けた差し入れ、そして――涙ながらに感謝を伝えてくれたあの女性リスナーとの再会。
「あの時、心の底から思ったのだ。余がこうして声を上げ続けることには、確かに意味があるのだと」
語りながら、叶自身も胸の奥が温かくなるのを感じていた。演技ではない、本心からの言葉だった。
『クリム様…』
『こっちが泣きそう』
『この配信者に出会えて良かった』
その言葉に呼応するように、画面の端を流れる通知の色が、次々と華やかな彩りに染まっていく。想灯珠、供炎石――普段よりも明らかに数の多いスパチャが、堰を切ったように流れ込んでいた。フェスタの余韻と、久方ぶりに聞ける生の声への感謝が、そのまま形になって押し寄せてくるかのようだった。
その一つひとつに目を通す間もなく、体の奥で、何かがどくりと脈打つ感覚があった。いつもの、あの温かい奔流。だが今宵はいつにも増して密度が濃く、まるでとぷんと満たされていく水瓶のように、腹の底に確かな熱が滾っていくのが分かる。
――今夜は、随分と満ちているな。
クリムゾフィアはそう内心で呟きながらも、表情には出さず、いつも通りの微笑みを浮かべたまま話を続けた。この力の使い道など、今はまだ知る由もない。
良い流れだ。だが同時に、身体の奥に溜まった疲労が、じわりと存在を主張し始めていた。休んでもなお抜けない気だるさ――これは単なる寝不足や気疲れとは、少し質が違う気がする。目を凝らすと、時折視界の端に、うっすらとした影のようなものがちらつくことがあった。最初は疲れ目だと思っていたが、フェスタ以降、頻度が増している気がしてならない。
クリムゾフィアは小さく息をついた。
「――と、話が続いたところで悪いのだが、一つ知らせがある」
コメント欄が「?」の反応で埋まる。
「一週間ほど、配信を休もうと思う」
『えっ』
『体調大丈夫ですか??』
『無理しないでください』
『一週間…結構しっかりお休みするんですね』
「うむ、皆が案じてくれる通りだ。祭典の疲れがまだ抜けきらぬようでな。この身は頑丈なようでいて、案外そうでもないらしい。しっかり休んで、また元気な姿を見せたいのだ」
自嘲めいた言い方に、コメント欄からはくすりとした空気が漏れる。
「幸い、溜め込んでいた休みがちょうど良い頃合いでな。あの白き獣を連れて、山奥にでも骨休めに行こうと思う」
配信の前に自分で決めた通りのことを、そのまま言葉にしただけだ。今日ばかりは、取り繕う必要のない本当のことを話せているのが、なんだか妙に心地よかった。
『癒されてきてください!』
『ラヴィちゃんも一緒なんですね可愛い』
『お土産話待ってます』
『無理せずゆっくりしてください涙』
そう言い残すと、コメント欄の色が、再びぱらぱらと華やかに染まり始めた。想灯珠、供炎石――「温泉代の足しに」「ラヴィちゃんの温泉まんじゅう代です」といった一言を添えたスパチャが、次々と流れ込んでくる。中には「ラヴィちゃんに美味しいものたくさん食べさせてあげてください」という、律儀な但し書き付きのものまであった。
その心遣いに、クリムゾフィアは思わず頬を緩める。膝元でくつろいでいたラヴィを抱き上げ、画面に向けて掲げるようにしてみせた。
「聞いたか、ラヴィ。良かったな、これでしばらくは、腹いっぱい飯が食えるぞ」
『みゃあっ!』
ラヴィが、耳をぴんと立てて、いつになく弾んだ声で鳴いた。まるで「ごちそう」という言葉の意味を正確に理解しているかのような、実に嬉しそうな鳴き声だった。
『今の鳴き声可愛すぎん!?』
『ラヴィちゃん食い意地はってて草』
『声だけで幸せになれる』
『もっと鳴いて!!』
コメント欄が、これまでで一番の勢いで沸き立つ。想像以上の反響に、叶は内心で苦笑しながらも、これならしばらく寂しい思いはさせずに済みそうだと、密かに安堵していた。
温かいコメントの奔流を眺めながら、クリムゾフィアは目を細めて微笑んだ。
「そなたたちの優しさ、しかと受け取った。戻った折には、また存分に語らおう」
*
配信を終え、変身が解けると同時に、叶の身体はソファに崩れ落ちるようにして沈んだ。全身が鉛のように重い。
「……はぁ」
深いため息と共に天井を見上げると、いつの間にか隣に丸くなっていた白い塊が、片目だけを開けてこちらを見ていた。
「聞いてたか、ラヴィ。ちゃんと宣言したぞ、温泉」
『みゃう』
どこか満足げな鳴き声だった。まるで「言った通りにしたな」とでも言いたげな顔をしている。
叶は苦笑しながら、天井の木目をぼんやりと眺めた。視界の端に、また例のちらつきが過った気がした。今度は明確に、輪郭のようなものを伴って。
――気のせいであってほしい。
そう思いながらも、心のどこかで、そうではないだろうという予感が、静かに根を張り始めていた。
それでも今は、深く考えないことにする。身体を起こし、スマートフォンで検索窓を開いた。
「さてと。本当に行くとなったら、宿を決めないとな」
『みゃあ』
画面を覗き込むように、ラヴィが膝の上に乗ってくる。「山奥」「秘湯」「静か」――思いつくままに単語を打ち込むと、鬱蒼とした山あいに佇む一軒宿の写真がいくつも表示された。露天風呂から見渡す限りの緑、囲炉裏のある古びた食事処、雪深い季節には辿り着くのも一苦労だという口コミ。見ているだけで、強張った肩の力が少しずつ緩んでいくのが分かる。
「お前もこういうの、好きそうだよな」
問いかけると、ラヴィは画面に鼻先を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぐような仕草をした。まるで写真の向こうの湯気の匂いを、既に感じ取っているかのように。
叶は小さく笑い、いくつか候補を保存すると、その日は早々に眠りについた。積み重なった疲労も、視界の端のちらつきも、今はまだ、遠い旅先の話のように思えた。




