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34話物販列にて


 控室で短い休憩を挟んだ後、叶は物販ブースの一角に設けられた特設スペースへと案内された。パーテーションで区切られた簡易的なテーブルの向こうには、すでに長い列ができている。会場のあちこちに設置された案内板には「クリムゾフィア様サイン会・15分後開始」の文字が躍っており、その周辺だけ、明らかに人だかりの密度が増していた。


「――随分な行列だな」


「はい、開演前から並んでくださっていた方も多いみたいで」桐生が申し訳なさそうに眉を下げる。「お疲れのところ恐縮ですが、あと三十分ほど、よろしくお願いします」


「無論だ。この身のために足を運んでくれた者たちだ、疎かにはできぬ」


 テーブルの前に座り、深呼吸を一つ。並べられたサイン用の色紙やグッズの見本を横目に見ながら、これから訪れるであろう一人一人の顔を思い浮かべる。配信の向こうでコメントを送ってくれていた、名前も知らない誰か――その一人一人が、今日は生身の姿でここに並んでいる。合図とともに、列の先頭が近づいてくる。


    *


「わ、本物だ……! あの、握手してもらえますか!?」


「もちろんだ」


 差し出された手を、丁寧に握り返す。相手が感極まったように声を詰まらせる様子を見て、叶の胸にも温かいものが広がった。次から次へと訪れるファンの一人一人に、できる限り丁寧に対応していく。サイン、握手、時には短い会話――どれも、これまでの配信では得られなかった種類の交流だった。


「ラヴィちゃんのぬいぐるみ、予約しました! 発売、楽しみにしてます」


「うむ、あの子も喜ぶだろう」


「クリムゾフィア様、いつも配信見てます! 元気もらってます!」


「その言葉こそ、この身の活力だ」


 中には、遠方から夜行バスで駆けつけたという学生や、体調を崩しながらも無理を押して来場したという中年男性もいた。それぞれの事情に耳を傾けながら、叶はできる限り丁寧な言葉を返していく。


「実は今日のために、有給休暇を取りました」


「そうか。この身のために時間を割いてくれたこと、感謝する」


「グッズ、全種類買いました! 部屋に飾ります」


「――随分と気に入られたようで、光栄だ」


 中には、遠路はるばる海外から駆けつけたという来場者もいた。片言の日本語で、必死に感謝の言葉を伝えようとするその様子に、叶は思わず居住まいを正す。


「異国の地からも、この身を訪ねてくれたか。その旅路に、心から感謝する」


 言葉が完全に伝わったかは分からなかったが、相手は満面の笑みで何度も頷き、深々と頭を下げて去っていった。国境さえ超えて届いていたのだと知り、叶の胸には、また新たな重みが加わった。


 一人一人に返す言葉は決して長くはなかったが、それでも、こうして直接気持ちを交わせることに、叶自身も静かな喜びを感じていた。列の途中、車椅子に乗った少女とその家族が近づいてくると、叶は膝を折り、目線を合わせて言葉を交わした。その一連のやり取りに、周囲からも温かい拍手が湧く。


 三十分という予定はあっという間に過ぎ、それでもまだ列は途切れなかった。舩越が申し訳なさそうにやってきて、延長の相談を持ちかける。


「本当に申し訳ございません。あと十分ほど、延長させていただいてもよろしいでしょうか。まだかなりの方が並んでいて」


「構わぬ。皆を待たせるわけにはいかぬからな」


 快く頷くと、舩越はほっとしたように頭を下げ、慌ただしくスタッフの方へと駆けていった。延長された時間の中でも、叶は変わらぬ調子で一人一人に向き合い続けた。途中、握手をしようとした男性が緊張のあまり手を差し出す方向を間違え、周囲がどっと沸くような微笑ましい一幕もあった。


「す、すみません! 逆でした!」


「気にするな。この身も、初めての生の対面には慣れておらぬ」


 そう返すと、男性は安堵したように笑い、深々と頭を下げて去っていった。こうした些細なやり取りの一つ一つが、叶の中に確かな温かさとして積み重なっていく。


    *


 列も終盤に差し掛かった頃、見覚えのある二人組が近づいてくるのが見えた。ステージに向かう途中、控室からの通路で声をかけてきた、あのコスプレイヤーの二人だった。


「あ、覚えていてくださいますか? さっきの……」


「無論だ。舞台の後であれば、と申したはずだが」


 少し緊張した面持ちの二人に、叶は努めて穏やかな声で応じる。


「あの、本当に少しだけでいいので……。今日のステージ、拝見していました。あの佇まい、あの声、本当に素晴らしくて。同業者として、心から尊敬します」


 もう一人の女性も、興奮気味に言葉を継ぐ。


「私たち、長年コスプレをやってきましたけど、あんなに『完成された』佇まいの方、見たことないんです。歩き方一つ、視線の配り方一つとっても、隙が全くなくて」


 褒め言葉のはずなのに、聞くたびに胸の奥がちくりと痛む。彼女たちが見ているのは、演技の結晶ではなく、ただの生身の姿でしかないのだから。これ以上突っ込まれれば、いよいよ答えに窮する。潮時だった。


「――失礼。少々、体調が優れぬのでな、先に部屋に戻るとしよう」


 少し大げさに、こめかみのあたりを押さえてみせる。二人が、はっと心配そうな顔になった。


「あ……! すみません、お引き止めしてしまって」


「いや、構わぬ。先ほどの質問については、また後日答えることにしようか。……いや」


 言いかけて、叶は一度言葉を切る。ふと、頭に浮かんだ言い回しが、我ながら悪くない気がした。


「――いや、コスプレイヤーとして高みを目指すというなら、我の答えなど聞かず、いま一つ、自分自身の手でこの領域まで登ってくるといい。答えを与えられて辿り着いた高みなど、真の意味で己のものにはならぬだろう」


 二人は、一瞬呆気に取られたように黙り込んだ。


(――うまく躱せたか)


 内心でほくそ笑みながらも、叶は表向き、真摯な表情を崩さない。体調不良を理由にした苦し紛れの幕引きだったが、それらしい言葉で包んでしまえば、案外様になるものらしい。


「……そうですよね。私たち、まだまだこれからなんですよね」


 女性の一人が、はっとしたように呟く。もう一人も、何かに気づいたように表情を引き締めた。


「今日教えていただいたことより、ずっと大きなものをいただいた気がします。私たち、もっと精進します」


「うむ。その心意気、期待しておる」


「今日は、本当にありがとうございました。また機会があれば、ぜひ」


「うむ、その時を楽しみにしている」


 深々と一礼して去っていく二人の背中は、来た時よりも幾分か、しゃんと伸びているように見えた。それを見送りながら、叶は小さく息を吐いた。誤魔化し続けることへの罪悪感と、それでも守らねばならない一線との狭間で、心が静かに軋んでいた。


    *


 全ての対応を終え、控室に戻った頃には、外はすでに夕暮れに染まっていた。窓の外から、まだ会場の熱気の余韻が微かに伝わってくる。


「――お疲れ様でした、笹川様」


 桐生が、温かいお茶を差し入れてくれる。ありがたく受け取りながら、叶はソファに深く体を沈めた。まだ変身したままの姿だったが、この後の予定を考えると、しばらくはこのままでいる方が都合が良かった。


「今日一日で、随分と色々な顔を見た」


「皆さん、本当に楽しそうでしたね。特に最後の物販列、時間ギリギリまで熱気が冷めませんでした」


 桐生の言葉に、静かに頷く。今日一日を振り返るだけで、色々な感情が次々と押し寄せてくるようだった。達成感、疲労感、そして――誤魔化し続けることへの、小さな罪悪感。


「正直、ここまでの反響になるとは、私も予想していませんでした」桐生がしみじみと呟く。「事務所としても、今日という日は、忘れられない一日になりそうです」


「この身にとっても、同じことだ」


 湯呑みを両手で包みながら、叶はゆっくりと熱いお茶を口に含む。じんわりと染み渡る温かさが、張り詰めていた気持ちを、少しずつ解きほぐしていくようだった。


「そういえば」桐生がふと思い出したように口を開く。「先ほど、SNSの方でも、もうかなりの反響が出ているみたいです。ハッシュタグ、トレンド入りしているとか」


「――そうか」


 スマホを取り出す気力もないまま、叶はただ小さく相槌を打った。今は、この静かな疲労感に、もう少しだけ浸っていたかった。窓の外の喧騒も、少しずつ落ち着きを取り戻していくように感じられる。


 控室の椅子に深く体を預けたまま、叶は今日一日の出来事を、ゆっくりと反芻していた。ステージでの緊張、涙を浮かべたリスナーとの再会、物販列で交わした無数の言葉――どれも、これまでの配信活動では決して得られなかった、確かな重みを持つ記憶だった。願っていたことが、こうして少しずつ現実になっていく――その実感に、静かな達成感を覚えずにはいられなかった。


 だが、控室の外の廊下から、微かに聞こえてくるざわめきは、どこか今までとは違う色を帯びているようにも感じられた。単なる興奮や熱気とは異なる、どこか緊迫したような響きだった。


「――何か、あったのか?」


 ふと漏らした疑問に、桐生が小さく首を傾げる。


「さあ……。特に何も、聞いていませんが」


 その言葉に安堵しつつも、叶の胸の奥には、言葉にできない小さな違和感が、静かに芽生え始めていた。耳を澄ますと、廊下の向こうから、誰かの慌てた声のようなものが、微かに聞こえてくる気がした。

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