33話ステージの上で
スポットライトの中央に足を踏み入れた瞬間、割れんばかりの歓声が叶を包んだ。
配信画面の向こうでしか感じたことのなかった熱量が、今は生身の空気の震えとなって全身に押し寄せてくる。何百、何千もの視線が、一斉にこちらへ注がれている――その事実に、一瞬、頭が真っ白になりかけた。足の裏から伝わる床の振動、耳に届く歓声の密度、鼻先をかすめる会場の熱気――そのどれもが、配信の画面越しでは決して味わえなかった感覚だった。
膝が、わずかに震える。これほどの数の視線を、一身に浴びたことなど、これまでの人生で一度もなかった。営業として大勢の前でプレゼンをした経験はあっても、これは、まるで質の違う圧だった。逃げ出したい衝動すら、一瞬だけ胸をよぎる。
だが、そこでふと、胸の奥にあるものを思い出す。この身に宿る、あの御方への親愛の情。今、自分がここに立っているのは、誰でもない、あの御方の名において、あの御方を一人でも多くの人に知ってもらうためだ――そう思い至った瞬間、不思議なほどすっと、体の強張りが解けていった。
――怖気づいている場合ではない。これは、あの御方のための舞台なのだから。
そう自分に言い聞かせると、震えていた膝に、ゆっくりと力が戻ってくる。深く息を吸い込み、叶は顔を上げた。
「――皆、待たせたな。クリムゾフィアだ」
だが、口をついて出た決まり文句は、いつもと変わらぬ響きだった。その一言だけで、会場の空気がさらに沸き立つ。
『きゃあああ!』
『本物だ、本物がいる!』
悲鳴にも似た歓声と拍手が、しばらく鳴り止まなかった。眩しいスポットライトの向こうに、無数のペンライトの光が揺れているのが見える。画面越しに何百回と目にしてきたはずのその光景も、実際に自分の目で見ると、まるで違う質量を持って迫ってくるようだった。
*
司会進行のスタッフに促され、ステージ中央に置かれた椅子に腰掛ける。壇上からは、想像していた以上に多くの顔が見えた。誰もが、食い入るようにこちらを見つめている。
「本日は、はるばるお越しくださり感謝する。この身にとっても、記念すべき初めての経験だ」
「クリムゾフィア様、本日はよろしくお願いします! まずは、こうして生でお会いできた感想をお聞かせください」
司会の問いに、叶は少し考えるふりをしてから答える。
「――正直なところ、緊張しておる。配信という壁を隔てず、直に声が届く距離にいるというのは、これまでにない感覚だ」
「わあ、クリムゾフィア様でも緊張されるんですね!」
『尊い』
『緊張してるクリム様も好き』
『生の声、震えてる……』
持参してきたタブレットには、リアルタイムでコメントが流れる仕組みになっているらしい。ちらりと目をやると、いつもの配信さながらの反応が並んでいるのが見えて、少しだけ気持ちが落ち着いた。画面の向こうの日常と、この生々しい現実とが、緩やかに重なり合っていくような不思議な感覚があった。
*
トークコーナーでは、事前に集められた質問がいくつか読み上げられた。
「まずは定番の質問から。ラヴィちゃんとの出会いについて、改めて教えていただけますか?」
「――あれは、この身にとっても忘れがたい記憶だ。ふとしたきっかけで出会い、気づけば互いに離れがたい存在になっていた。多くを語らずとも通じ合える、得難い相棒だ」
「わあ、素敵な馴れ初めですね! では次に、先日のメイベルさんとのコラボ配信について、振り返っていただけますか」
「あれは、この身にとって初めての試みであった。長らく一人で立ち続けてきたこの身にとっては、大きな一歩であったと言えるだろう。だが、いざ踏み出してみれば、案外悪くないものだと知った」
どれも、これまで配信で語ってきた内容の延長線上にあるもので、大きく詰まることなく答えられた。
「では、次の質問です。『クリムゾフィア様が、これまでで一番嬉しかったことは何ですか?』」
少し考え込んでから、叶は静かに口を開く。
「――挙げれば、切りがないほどある。日々の陳情を裁く中で民の暮らしが少しずつ良くなっていくのを見る時、あるいは、こうして遠く離れた地で耳を傾けてくれる者たちがいると知る時――どれも、この身にとってはかけがえのない喜びだ。だが、あえて一つ選ぶなら、悩みを抱えた者から『あなたの言葉に救われた』と聞かされる瞬間だろうか。この身の存在が、誰かの支えになっているのだと実感できる、何物にも代えがたい時間だ」
会場から、温かい拍手が湧き起こる。
『これは尊い』
『クリム様の優しさ、いつも滲み出てる』
「では、ここで一つ、リスナー投票で選ばれた特別な質問です」司会が悪戯っぽく笑う。「『クリムゾフィア様の素顔について、もう少し詳しく教えてください』」
会場が、わずかにざわつく。核心を突く質問だった。
「――素顔、か」
少し間を置いて、叶は静かに答えを紡ぐ。
「この身の素顔は、この身のものだ。それ以上でも以下でもない。皆に見せているこの姿こそが、偽りのない、この身の全てだと思ってもらって構わぬ」
巧妙に核心を避けながらも、嘘は言っていない言葉だった。会場は、その返答に納得したように大きく頷いている。
『上手いこと言った』
『でもそれはそう』
『クリム様らしい答え』
*
トークコーナーの後半、ちょっとした特典として、ステージ上から数名のファンとの短い交流タイムが設けられていた。抽選で選ばれたという若い女性が、緊張した面持ちでステージに上がってくる。
「あ、あの、いつも配信見てます! 悩み相談のコーナーで、就活のことで悩んでた時、励ましてもらって……本当に、あの言葉に救われました」
声を震わせながら、そう語る彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。叶の胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「――貴殿の頑張りが実を結んだのだろう。この身は、ただ背中を押しただけに過ぎぬ」
優しく微笑みかけると、彼女は堪えきれなくなったように、小さく嗚咽を漏らした。会場からも、温かい拍手が沸き起こる。
画面越しの言葉が、こうして誰かの人生に確かに触れていたのだと、改めて実感する瞬間だった。叶自身も、目頭が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
続いて壇上に上がってきたのは、小学生くらいの女の子だった。母親らしき人物に手を引かれ、少し人見知りをしている様子で、もじもじと俯いている。
「こんにちは。今日は、この身に会いに来てくれたのか?」
できる限り優しい声で問いかけると、女の子はこくりと小さく頷いた。
「ラヴィちゃんが……好きです」
「そうか。あの子も、聞けばきっと喜ぶ」
短いやり取りだったが、女の子は花が咲いたような笑顔を見せてくれた。会場全体が、その微笑ましい光景に和む。世代を問わず、様々な人々の心に届いている――そのことを、改めて実感させられる時間だった。
*
「――さて、そろそろ時間のようだ」
三十分という持ち時間は、あっという間だった。名残惜しそうな会場の空気を感じながら、叶はゆっくりと立ち上がる。
「この身にとっても、忘れがたい一時であった。皆と、こうして同じ空気を共にできたこと、心より感謝する」
深々と一礼すると、割れんばかりの拍手が会場を包んだ。照明がゆっくりと落ちていく中、叶はステージ袖へと歩を進める。
袖に戻った瞬間、どっと全身から力が抜けた。膝が、わずかに笑っている。
「――お疲れ様でした、笹川様! 最高のステージでした!」
舩越が興奮気味に駆け寄ってくる。その声に、ようやく実感が追いついてきた。
「……終わったのだな」
小さく呟いて、叶は静かに天を仰いだ。まだ、この後には物販での対応が控えている。だが今は、この達成感に、少しだけ浸っていたい気分だった。
控室へと戻る道すがら、すれ違うスタッフたちが口々に「お疲れ様でした」と声をかけてくれる。その一つ一つに小さく会釈を返しながら、叶は先ほどのステージの記憶を、頭の中で何度も反芻していた。緊張していたはずの声が、思いのほかしっかりと会場に届いていたこと。涙ながらに感謝を伝えてくれた女性リスナーの顔。小さな女の子の花のような笑顔――どれもが、これまでの配信活動では得られなかった、確かな手応えだった。
控室の扉を開けると、静けさが体を包む。一人になったところで、叶は椅子に深く腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
「――やり切った、というやつか」
自分に向けたその一言が、思いのほか、しっくりと胸に馴染んだ。
ふと、事務所との専属契約に迷いながらも、自分の意志で「クリムゾフィアという存在をもっと多くの人に知ってほしい」と決めたあの日のことを思い出す。あの決断が、今日、こうして確かな形になった。異世界の統治者としての顔と、現代でファンと向き合う顔――その二つが、今日という日を境に、少しだけ近づいたような気がしていた。
控室の壁掛け時計に目をやる。物販対応の開始まで、あと十数分。深呼吸を一つ挟んで、叶はゆっくりと立ち上がった。まだ、今日という日は終わっていない。




