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32話フェスタ開幕


 コスプレフェスタ当日。会場となる大型展示ホールは、朝からすでに異様な熱気に包まれていた。


 このコスプレフェスタは、大手エンタメ企業をはじめ複数のスポンサーがついた、業界でも指折りの規模を誇るイベントだった。有名コスプレイヤーによるステージパフォーマンス、各ブランドのグッズ販売ブース、コラボカフェ、そしてトークショー――一日を通して様々な催しが行われる、いわば総合エンターテインメントイベントだ。今回、クリムゾフィアはその目玉ゲストの一枠として名を連ねている。


 関係者用の裏口から会場に足を踏み入れた瞬間、叶は思わず息を呑んだ。天井の高いホールには、すでに設営を終えたステージと巨大なスクリーンが据えられ、あちこちに看板やのぼりが立ち並んでいる。開場前だというのに、既にスタッフたちが忙しなく駆け回り、熱気にも似た緊張感が漂っていた。


 自分の名前が印刷されたポスターを見つけた瞬間、妙な現実感が押し寄せてくる。掲示板の向こうの、画面越しの出来事だとばかり思っていたものが、今、確かにこの場所に存在している。


 通路を進む途中、すれ違うスタッフたちの腕章や、壁に貼られたタイムテーブルが目に入った。トークショーの案内板には、聞き覚えのある名前が何人も並んでいる。業界でも名の知れたコスプレイヤーや、人気配信者の名――その中に、自分の名前も当然のように紛れ込んでいる光景に、叶はしばらく足を止めずにはいられなかった。


「――こちらが、笹川様専用の控室になります」


 桐生に案内されたのは、廊下の奥まった位置にある個室だった。防音扉には「関係者以外立入禁止」の札が下げられている。


「ありがとうございます。荷物、ここに置いていいですか」


 持参したスーツケースをテーブルに置きながら、叶は室内をぐるりと見回す。姿見、簡易的な休憩スペース、鍵のかかる扉――変身のための環境としては、申し分なかった。


「入り時間まで、あと一時間ほどですね。何かご要望があれば、遠慮なくおっしゃってください」


「大丈夫です。ありがとうございます」


 桐生が一礼して控室を出ていく。一人きりになった途端、どっと緊張が押し寄せてきた。窓の外、廊下の向こうから、開場を待つ来場者たちのざわめきが、かすかに聞こえてくる。


「――随分な人数だな」


 小さく呟いて、深呼吸を一つ。今日という日のために、これまで積み重ねてきたものを思い返す。決断の連続だった。だが、後悔は一つもなかった。


 控室の隅に置かれた時計を見ながら、ふと家で留守番しているラヴィのことを思う。今頃、退屈しのぎに丸くなって寝ているだろうか。それとも、いつものように玄関先で帰りを待っているだろうか――そんな益体もない考えが浮かんでは消える。一人の緊張を紛らわせるには、案外ちょうどいい思考だった。


 時間を持て余し、鏡の前で何度か発声練習をしてみる。喉の調子、声の張り、間の取り方――配信では気にしたこともなかった細部が、急に気にかかりだす。生の観客というものが、これほどまでに人を臆病にさせるとは思っていなかった。


 しばらくして、桐生が最終確認のため控室に戻ってきた。


「進行台本、最後にもう一度だけ確認させてください。トークコーナーの後、ファンとの交流タイムが入りまして、その後にご挨拶――という流れです」


「はい、把握しています」


「何かご不安な点があれば、今のうちにお伝えください」


 律儀に気を配ってくれる桐生の様子に、叶は密かに感謝の念を抱く。この事務所と縁があったことは、振り返れば、間違いなく幸運の一つだった。


「――特にないです。大丈夫です」


 そう答えると、桐生は安心したように微笑み、再び控室を後にした。


    *


 定刻通り、控室で静かに変身を済ませ、クリムゾフィアの姿で廊下に出る。控室から続く関係者用の通路を歩いていると、前方から二人組の女性が歩いてくるのが見えた。凝った衣装に身を包んだ、いかにもベテランといった風格のコスプレイヤーだった。


 目が合った瞬間、二人の足が止まる。


「――あの、失礼します。クリムゾフィアさん、ですよね?」


 思いがけず声をかけられ、叶は内心で身構えながらも、努めて平静を装う。


「いかにも。貴殿らは」


「私たち、告知動画を見てからずっと気になってて……。あの、失礼を承知でお聞きしたいんですが、その衣装、どちらのブランドの素材を使われてるんですか? 特に角の造形、あんな一体成型、見たことなくて」


 まさに、以前ネット上の考察で懸念されていた類の質問だった。心臓が跳ねる。だが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。


「――企業秘密、というやつだ。長年、独自に培ってきたものでな」


 当たり障りのない返答でかわすと、二人は顔を見合わせ、なおも食い下がってきた。


「そこをなんとか……! 同業者として、本当に気になって仕方ないんです」


「肌の質感まで変わって見えるの、どういう技法なんですか? メイクなのか、それとも特殊な造形物を?」


 矢継ぎ早の質問に、叶は内心で冷や汗をかきながら、どうにか話を逸らす糸口を探した。もう一人の女性も、興奮を隠しきれない様子で言葉を継ぐ。


「私、造形師の知人にも相談したことあるんですけど、みんな口を揃えて『今の技術でこのクオリティは考えにくい』って言うんです。だから余計に、直接お聞きしたくて……」


 心臓が跳ねる。まさに、告知動画の反響として耳にしていた噂そのものだった。あの時ネット上を賑わせていた懸念が、今、目の前で現実の言葉として突きつけられている。


「その、失礼ですが、お二人は」


 少しでも間を稼ごうと、逆に問い返してみる。


「あ、申し遅れました! 私たち、いつもフェスタに出展してるレイヤーユニットで――」


 女性の一人が、名刺代わりの活動カードを差し出しながら早口でまくし立てる。長年の活動歴、過去の受賞歴、そしてクリムゾフィアの造形への並々ならぬ興味――堰を切ったように語られる情報量に、叶はただ圧倒されるばかりだった。相手の熱意が本物であるほど、誤魔化していることへの罪悪感も募っていく。


「――貴殿らの熱意、痛いほど伝わってくる。だが、今しばし時間をくれ。舞台の後であれば、多少の話ならば」


 苦し紛れの返答だったが、これが功を奏した。二人は目を輝かせ、深々と頭を下げる。


「本当ですか! ありがとうございます、絶対また来ます!」


 その場を辞し、控室方向とは逆の通路へと歩いていく二人を見送りながら、叶は密かに安堵の息を吐いた。


「――物販の後で、必ず捕まるな、あれは」


 厄介事を先送りにしただけだと分かってはいたが、今はそれ以上のことを考える余裕がなかった。少なくとも、悪意のある詮索ではなさそうだったことだけが、せめてもの救いだった。


    *


 ステージ袖にたどり着くと、進行スタッフが慌ただしく最終確認をしている最中だった。舩越がヘッドセットをつけたまま、こちらに気づいて小さく手を上げる。


「笹川様、準備は万全ですか」


「うむ、問題ない」


「開演まで、あと十五分です。会場の方も、開場直後から異例の入りでして……。正直、ここまでとは、私も予想していませんでした」


 舩越の声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。ステージ袖の隙間から、少しだけ会場を覗き込む。ずらりと並んだ客席は、開演前だというのにほぼ満席に近い状態だった。


「――これは」


 思わず言葉を失う。掲示板やコメント欄で見てきた数字が、こうして目の前に、生身の熱量として現れている。膝が震えそうになるのを、どうにか堪えた。


「大丈夫ですか、笹川様」


 舩越の心配そうな声に、叶はゆっくりと頷く。


「――問題ない。むしろ、望むところだ」


 自分に言い聞かせるように呟いた声は、思いのほかしっかりとしていた。だが、内心はまるで別だった。心臓が痛いくらいに脈打ち、掌にはじっとりと汗が滲んでいる。配信という画面越しの繋がりとは、まるで質の違う緊張感だった。今まさに、あの向こう側にいるはずの一人一人が、生身で、すぐそこにいる。


 スタッフの一人が、慌ただしく最終音響チェックの声を飛ばしている。マイクの位置、照明のキュー、進行台本――ステージ袖はまだ落ち着きのない喧騒に包まれていた。その只中で、叶は静かに自分の役割を思い返す。統治者として振る舞い続けたこれまでの日々と、今この瞬間とが、初めて一本の線で繋がっていくような感覚があった。


 舩越が耳元のヘッドセットに小さく合図を送ると、進行スタッフが慌ただしく最終位置につく。カウントダウンのアナウンスが、会場に響き始める。


「三、二、一――」


 照明が落ち、ステージにスポットライトが灯る。会場中の視線が、一斉にその光の中心へと集まっていくのが、袖からでも肌で感じ取れた。ざわめきが、期待の静寂へと変わっていく。深く息を吸い込み、叶はゆっくりと足を踏み出した。

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