35話ざわつきの正体と救助活動
「――失礼、少し見てくる」
控室を出て、ざわめきの方向へと足を向ける。廊下を進むにつれ、人々の慌ただしい足音や、切迫した声が次第にはっきりと聞こえてきた。何かただ事ではない予感に、自然と早足になる。廊下の先、警備スタッフや来場者が数人集まって、輪を作っていた。
「誰か、AEDを! 救護班はまだですか!?」
人だかりの中心で、大柄な男性が倒れていた。恐らくは熱中症だろう、顔色は青白く、意識も朦朧としている様子だった。体格は見るからに巨漢で、周囲のスタッフが数人がかりで運び出そうとしているが、まるで持ち上がる気配がない。額には玉のような汗が浮かび、荒い呼吸を繰り返している。周囲を取り囲む人々の顔にも、隠しきれない不安が滲んでいた。
「――くそ、重すぎる……! 誰か、力を貸してくれ!」
スタッフの一人が悲鳴に近い声を上げる。周囲を囲む来場者たちも、なす術もなくただ立ち尽くしていた。誰も彼もが、事態の深刻さに息を呑んでいる。叶は迷わず駆け寄り、輪の中に加わった。
「この身も手伝おう」
クリムゾフィアの装いのまま、周囲が驚く間もなく、倒れた男性の脇に手を差し込む。周囲のスタッフたちも、突然現れたコスプレ姿の人物に一瞬戸惑った様子を見せたが、緊急事態を前に、誰もそれを咎める余裕はなかった。だが――びくともしなかった。優に百キロを超えていそうな体重が、そのまま鉛のように地面に張り付いているかのようだった。
「な……っ」
焦りが、じわりと胸の奥から込み上げてくる。このまま搬送が遅れれば、命に関わりかねない。周りのスタッフたちの顔にも、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。
ふと、男性の傍らに転がった紙袋が目に入った。中から覗いているのは、見覚えのある柄――先ほど物販ブースで扱っていたはずの、クリムゾフィアのアクリルスタンドと、ラヴィのぬいぐるみだった。おそらく、購入したばかりのグッズを大事に抱えたまま、ここまで来ていたのだろう。
その事実に、叶の中で何かが、はっきりと切り替わった。
(――この人は、この身の、大切なファンだ)
誰か分からない他人ではない。自分を、クリムゾフィアを、応援してくれている一人だ。そんな人を、こんな場所で、こんな形で失うわけにはいかない――そう思った瞬間、これまでとは比べ物にならないほど強い焦燥が、腹の底から突き上げてきた。
「頼む……!」
誰にともなく、心の中で叫ぶ。目の前で苦しんでいる誰かを、どうにか救いたい――その一心だった。異世界の統治者として、幾度となく民の苦しみに向き合ってきた記憶が、頭の片隅をよぎる。あの頃、力及ばず救えなかった者たちの顔が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。
――今度こそ。
その瞬間、体の奥で、何かが弾けた。
いつもスパチャを受け取るたびに感じる、あの魔力の奔流に似た感覚が、今度は逆に、外へと勢いよく流れ出していくのが分かった。指先から、腕から、全身に力が漲っていく。視界の端が、一瞬だけ淡く発光したような気さえした。
「――ぐっ!」
次の瞬間、あれほど微動だにしなかった巨体が、まるで羽根のように軽々と持ち上がった。周囲から、驚愕の声が上がる。
「う、うそだろ……!?」
「今の、どうやって……!?」
だが、そんな声に構っている余裕はなかった。叶は男性を抱えたまま、慎重に、しかし迅速に、救護室の方へと運んでいく。
「――こちらだ、急げ!」
スタッフたちが慌てて後を追いながら道を開ける。数十メートル先の救護室にたどり着き、簡易ベッドに男性をそっと横たえると、看護スタッフがすぐさま処置に取り掛かった。氷嚢を首や脇に当て、点滴の準備を進める手際の良さに、叶は少しだけ安堵する。
「意識、戻ってきています! 大丈夫そうです」
その声に、詰めていた息を、ようやく吐き出す。安堵に、全身から力が抜けていくようだった。救護室の外に出ると、先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、ふっと肩の力が抜けていく。壁に手をつき、しばらくその場に立ち尽くした。
「――今のは、一体……」
自分自身に問いかけるように呟く。手のひらを何度も開いたり閉じたりしてみるが、あの時感じた力の奔流は、もうどこにも見当たらない。まるで夢だったかのように、静かに消え去っていた。
*
「――ありがとうございました、本当に……! おかげで、命拾いしました」
救護室の外で、意識を取り戻した男性が、深々と頭を下げてくる。付き添いの家族らしき女性も、涙ぐみながら何度も頭を下げていた。
「無事で何よりだ。あまり無理はせぬように」
穏やかにそう返しながらも、叶の内心は、まだ先ほどの感覚の余韻でざわついていた。あの一瞬、確かに全身に力が漲った。あれは一体、何だったのか。
(――魔力、か。感情が昂ったことで、身体能力にまで作用したということか?)
異世界であれほど強大な存在として振る舞っていながら、こうして自分の身に流れる力の全容を、未だ正確に把握できていない。改めて、そのことを思い知らされた出来事だった。考えてみれば、これまで異世界で示してきた力の多くも、本物のクリムゾフィアの領分であり、自分自身が本当に何をどこまでできるのか、深く検証したことなどなかったのだ。
スパチャを受け取るたびに感じてきた、あの体の奥を満たしていく感覚。それがてっきり、異世界へと一方通行で流れていくだけのものだと思い込んでいた。だが、今日の出来事は、その認識が誤りだったことを示していた。強い感情の昂りが引き金となり、蓄えられた魔力が、こうして現実の身体能力にまで作用することもある――そう考えれば、辻褄は合う。だとすれば、この身にはまだ、自分でも把握しきれていない可能性が眠っているのかもしれない。
救護スタッフに丁重に礼を言われながら、叶はふと自分の掌を見下ろす。何の変哲もない、いつも通りの手のひらだった。だが、その内側に、まだ自分でも把握しきれない力が眠っているのだと思うと、不思議な感慨が込み上げてくる。
*
周囲を見渡すと、いつの間にか人だかりができていた。誰もが、スマホを構えてこちらを見ている。
「今の見た!? クリムゾフィアが、あんな大柄な人を、軽々と……」
「マジで人間離れした力だったよね」
「コスプレでここまでできるものなの……?」
「なんか、色んな意味ですごいもの見ちゃった気がする」
「でも人助けだしね、素直にすごいと思う」
「あの一瞬、なんか光った気がしたんだけど、気のせいかな」
最後の一言に、叶の心臓がひやりとする。あの発光は、自分だけが感じたものではなかったらしい。だが、周囲は誰もそれを深く気に留めていない様子で、すぐに別の話題へと移っていった。ひとまず、目立った騒ぎにはならずに済みそうだった。
ひそひそと囁かれる言葉の一つ一つが、叶の胸に小さな棘となって刺さる。廊下に響いていたあのざわめきの正体は、これだったのだ。人助けという、何一つ後ろめたいことのない行為の裏で、また一つ、説明のつかない謎を積み重ねてしまった。
「――笹川様!」
駆けつけてきた桐生が、心配そうな顔で近づいてくる。息を切らせている様子から、かなり急いで駆けつけてきたことが窺えた。
「大丈夫ですか? 今、SNSでも凄い勢いで拡散されていて……」
「問題ない。それより、あの方の容体は」
「意識もはっきりしていて、もう大丈夫だそうです。それより……」
桐生が、スマホの画面をこちらに向ける。そこには、先ほどの一部始終を撮影した動画が、すでに数万回再生されているのが表示されていた。コメント欄には、驚きと称賛の言葉が、凄まじい勢いで流れ込んでいる。
『#クリムゾフィア』『#人助け』というハッシュタグが、トレンドの上位に並んでいる。
「これ、明日には桁が変わってるかもしれません……」桐生が呆然と呟く。「あの、笹川様、大丈夫ですか? 顔色、あまり良くないような……」
「――少し、疲れが出ただけだ。心配は無用」
実際のところ、あの一瞬の力の奔流の後、全身にどっと重い疲労感がのしかかっていた。異世界での奉納の後に感じるものとよく似た、芯から力が抜けていくような疲れだった。だが、そのことを桐生に伝えるわけにもいかない。
「無理はなさらないでくださいね。今日はもう、予定していたことは全部こなしていただきましたし」
「うむ、感謝する」
叶は、小さくため息をついた。今日一日で、また一つ、誤魔化さねばならない出来事が増えてしまったらしい。だが、それでも――目の前で助けを求めていた人を放っておくという選択肢は、最初からなかった。
「――やれやれ。忙しいことだ」
小さく呟いた声には、疲労と、それでも確かな満足感が滲んでいた。控室へと戻る道すがら、叶はふと立ち止まり、静かに息を吐く。今日一日で、あまりに多くのことが起きすぎた。ステージでの高揚、物販での温かい交流、そして今度は、思いがけない形で明らかになった新たな力。誤魔化さねばならないことは、また一つ増えてしまったが、それでも――誰かを救えたという事実だけは、何物にも代えがたい確かな手応えとして、胸の内に残っていた。
控室の扉に手をかけながら、叶は小さく笑みを浮かべる。今日という日は、想像していたよりもずっと、忘れがたい一日になりそうだった。
*
撤収作業が始まった会場の一角では、控室に届けられていたケータリングの残りが、片付けを待つばかりになっていた。サンドイッチ、串刺しの果物、小さなキッシュ――疲労でろくに手をつける暇もなかった料理の数々が、まだ手つかずのまま並んでいる。
「――これは、いただいて帰っても構わないだろうか」
スタッフに尋ねると、快く「もちろんです、廃棄するだけなので」と快諾された。せっかくの好意を無駄にする手はない、と自分に言い訳をしながら、叶は持参していた保冷バッグに、根こそぎと言っていいほどの量を詰め込んでいく。
(――ラヴィと、一緒に食べよう)
留守番をさせている後ろめたさもあった。今日一日、散々な緊張と興奮を味わった分、あの子猫の温もりが、無性に恋しくなっていた。
帰路につく足取りは、行きよりもずっと軽かった。玄関の鍵を開けると、いつも通り、ラヴィがとことこと駆け寄ってくる。
「――ただいま。今日は、たくさん土産があるぞ」
保冷バッグを開けると、途端にラヴィの目の色が変わった。鼻をひくつかせながら、待ちきれない様子でその場をうろつき始める。
「まあ待て、皿に並べてからだ」
そう言いながらも、叶自身、頬が緩むのを抑えられなかった。ダイニングテーブルに料理を広げ、二人分――と言っていいのかは、やはり迷うところだが――の遅い夕食が始まる。もぐもぐと夢中で頬張るラヴィを眺めながら、叶はようやく、今日という長い一日の終わりを実感していた。




