29話同期の観察日記
石井春樹は、給湯室でコーヒーを注ぎながら、向かいの席をちらりと盗み見た。
「……また、あれか」
休憩中、叶がスマホの画面を眺めては、時々一人でにやついている。ここ最近、何度も目撃している光景だった。仕事中は相変わらず隙のない敏腕営業マンぶりを発揮しているだけに、そのギャップが余計に気になった。
石井は、そっとノートを取り出した。表紙には「笹川観察日記」と、我ながら悪趣味な字で書かれている。
『◯月◯日
昼休み、叶がまた一人で百貨店の紙袋を持って帰ってきた。中身は絶対にコンビニ弁当ではない。高そうな箱だった。以前より羽振りが良くなっている? ボーナスの時期でもないのに』
石井はペンを走らせながら、首をひねった。あの叶が、金遣いに無頓着になるとは考えづらい。何かしらの心境の変化があったとしか思えない。
*
午後、雫石係長を交えての雑談タイムに、思い切って探りを入れてみることにした。
「そういえば笹川、最近やけに機嫌よくないですか? 何かいいことでも?」
「え? そ、そうか? 別に、普通だが」
明らかに動揺している。目が泳いでいる。石井の観察眼が確信に変わった瞬間だった。
「隠さなくても。彼女できたとか?」
「ち、違う! そういうんじゃない!」
食い気味の否定。逆に怪しい。雫石も横で「ほう?」と興味深そうに眉を上げている。
『◯月◯日
彼女説を出したら過剰に否定された。怪しさ倍増。となると、副業関連か? しかし以前より仕事へのモチベーションは明らかに上がっている。両立できるタイプの何かか?』
*
翌日、石井は別角度からのアプローチを試みることにした。休憩室で叶のデスクを何気なく覗くと、モニターの端に付箋が貼られているのが見えた。「桐生様 差し入れ」「動画チェック」「フェスタ 台詞確認」――そんな走り書きが並んでいる。
「――フェスタ? 台詞? こいつ、まさか劇団にでも入ったのか?」
石井の脳内で、また新たな仮説が組み上がっていく。
『◯月◯日
新情報。付箋に「フェスタ」「台詞確認」の文字。副業どころか、まさかの演劇関係説浮上。営業から役者への華麗な転身か? いや待て、それなら普通に話してくれるはずだ。やはり後ろ暗い何かがあるのでは』
可能性は、無限に広がっていく一方だった。
*
さらに数日後、たまたま社内ですれ違った際、叶のスマホの待ち受け画面がちらりと目に入った。見たこともない、しかし妙に整った容姿の人物の画像だった。
「――なんだこの、やたら整った顔の男。誰だ?」
石井は思わず二度見した。彫刻のように整った顔立ち、鋭くも優しげな目元――一体何者なのか、皆目見当がつかない。
『◯月◯日
待ち受け画面に見知らぬ美形の男の画像。推しにしては熱の入れようが尋常じゃない。まさか憧れの経営者か何かか? いや、あの美形度は人間離れしている。海外モデルか、それとも合成写真の類か? 謎は深まるばかりである』
石井の推理は、真実からますます遠ざかっていくばかりだった。もっとも、その待ち受けの正体がクリムゾフィア本人であるとは、想像すらしていなかった。
もっとも、それも無理からぬことではあった。石井とて、叶の口から「クリムゾフィア」という名前くらいは以前に聞いたことがある。だが、それも世間話程度の記憶でしかなく、頭に浮かぶのは公式サイトのトップに掲げられた、あの見慣れたキービジュアル――正装で佇む、いかにも「配信者」然とした構図の一枚だけだった。待ち受けに設定されていたのは、もっと自然な角度で撮られた、素の表情に近い一枚だ。同一人物だと気づけというのが、そもそも無理な話だった。
*
休日、たまたま立ち寄った駅前の商業施設で、石井は見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「――あれ、笹川?」
声をかけようとした矢先、叶が入っていったのは、見るからにコスプレ関連のグッズを扱う専門店だった。しかも、店員と親しげに会話をしている。まるで常連客のような距離感だった。
「……コスプレ? あいつが?」
石井の中で、あらゆる想像が渦を巻いた。まさか、隠れたオタク趣味に目覚めたのか。それとも、何かのイベント関係の仕事を任されているのか。声をかけるべきか迷っているうちに、叶は袋いっぱいの荷物を抱えて店を出て行ってしまった。
『◯月◯日
決定的証拠発見。笹川、コスプレショップに出入りしていた。しかも常連。誰にも言えず、一人で抱え込んでいる可能性が高い。悩みがあるなら相談に乗るぞ、笹川。俺はいつでも味方だ』
石井は真剣な顔でそう書き留めた。全くもって的外れな方向に、その真剣さは向けられていた。
*
週明け、石井はついに直接切り込むことにした。給湯室で二人きりになったタイミングを見計らい、声をひそめて尋ねる。
「なあ、笹川。最近何かに、こう……ハマってるだろ」
「え……な、なんで分かった!?」
思いがけず、あっさりと認められて拍子抜けした。だが、続く言葉に、石井はさらに興味を惹かれることになる。
「まあ、その……推し活、みたいなものだ」
「推し活か……まあ、お前が前にVtuberの話とかしてたの覚えてるし、そういう系統かとは思ってたよ」
石井としては、意外というより、ようやく腑に落ちた、という感覚の方が強かった。
「詳しくは言えないんだが、その……最近、ちょっとした形で、応援している存在の力になれる機会があってな。それが色々と忙しくて」
「へえ……それは、何というか、意外だな」
言葉を選びながらも、石井は素直にそう思った。あの叶が、仕事以外の何かにここまで情熱を注いでいる姿は、正直、悪くないと感じた。
「まあ、無理しすぎるなよ。倒れられたら、こっちの仕事量が増えるからな」
「軽口を叩くようになったな、お前」
叶が苦笑する。その表情は、以前よりも幾分か、柔らかくなっているように見えた。
『◯月◯日
本人から直接聴取に成功。「推し活」とのこと。正体は依然として謎に包まれているが、本人が生き生きしているので、良しとする。
――でも、絶対何か隠してるよな、これ』
石井はノートを閉じ、小さくため息をついた。真相にたどり着くのは、まだまだ先のことになりそうだった。
*
その一部始終を、少し離れた席から眺めていた雫石は、内心で密かに首を傾げていた。
(……あいつ、なんであんなに笹川に執着してるんだ?)
彼女説を出しては否定され、コスプレショップだ演劇関係だと一人で盛り上がり、しまいには待ち受け画面まで観察する始末。傍から見れば、もはや観察日記というより、一種の追跡と言っても差し支えない熱量だった。
(まさか、社内恋愛でも生まれるのか……? いや、さすがにそれは考えすぎか)
雫石は、二人のやり取りを直視できず、目のやり場に困りながらパソコン画面に視線を逃がした。仕事のできる部下が二人揃って、まさかこんな方向で自分を悩ませてくるとは、想像もしていなかった。
(気まずいよ……。頼むから、この空気のまま仕事に戻ってくれ……)
結局、雫石はその日一日、二人の様子をなるべく見ないようにして過ごすことに決めた。上司としての威厳よりも、平穏な日常の方が、今は何より大切だった。
*
もっとも、石井の推理は、いくつかの点で的を外していた。
あの百貨店の紙袋の中身は、Alter Egoへの差し入れだった。打ち合わせのたびに手ぶらというのも気が引けて、桐生や舩越、事務所のスタッフに向けて、ちょっとした菓子折りを買っていくのが最近の習慣になっていたのだ。
コスプレショップに出入りしていたのも、決して隠れた趣味に目覚めたからではない。あれは、告知動画の撮影時に持参する「カモフラージュ道具」を買い足すためだった。それらしいカラーコンタクトのケースや付け角のパーツを、実際に使うわけでもないのに、いかにも本物らしく見繕う――そのための買い出しだったのだ。店員と親しげに話していたのも、単に品揃えについて相談していただけに過ぎない。
そして、あの待ち受け画面の美形の正体は、言うまでもなくクリムゾフィア本人だった。応援している存在の画像を待ち受けにする――信者としては、ごく自然な選択のつもりだったのだが、まさか同僚にそこまで凝視されているとは、叶自身も知る由もなかった。
真実を知れば、拍子抜けするほど地味な理由だった。だが、それを本人の口から説明するわけにもいかない。石井の観察日記に綴られた見当違いの推理の数々を、叶が知る由もなかった。
もっとも、それでいい。真相を隠したまま、誰にも迷惑をかけず、ただ静かに前へ進んでいく――それこそが、今の叶にできる、精一杯の誠実さだった。




