27話打ち合わせと告知動画
休日の昼下がり。本来なら惰眠を貪っているか、ラヴィと昼寝を決め込んでいるかのどちらかだったはずの土曜日を、叶は少し気合の入った私服に着替えて過ごしていた。行き先は、もはや通い慣れたAlter Egoの雑居ビルだ。
「コスプレフェスタまで、もう一週間切ったのか……」
電車に揺られながら、独り言が漏れる。休みの日を事務所との打ち合わせに費やすのは、正直なところ楽ではない。だが、当日ぶっつけ本番で何かを見落とすよりは、よほどましだった。
エレベーターを降りると、いつも通り受付の女性が笑顔で迎えてくれる。案内された応接室では、すでに桐生と舩越が資料を広げて待っていた。
「――というわけで、当日の流れを一通り確認させてください」
Alter Egoの応接室。テーブルには分厚い進行表が広げられている。桐生がページをめくりながら説明を始めた。舩越も向かいのソファで腕を組み、時折頷いている。
「まず入り時間ですが、開場の二時間前を予定しています。お着替えのお時間も含めてのご案内で」
「はい、大丈夫です」
舩越も桐生も、未だに信じて疑っていない。あの完璧すぎる容姿は、天賦の才と長年の研鑽が生んだ「精巧極まるコスプレ」だという前提を。変身の事実は、叶がこの世界の誰にも打ち明けたことのない秘密だった。
「それと、控室の件なのですが。お着替えの際、スタッフの立ち会いなどは……」
「あ、それは大丈夫です。というか、できれば一人にしてもらえるとありがたいです。着替えというか、あの姿を作る工程が結構繊細で、誰かに見られてると集中が乱れて仕上がりに影響が出ちゃうんですよね」
「なるほど……プロならではのこだわりですね。承知しました、お一人の時間を確保します」
桐生は特に疑う様子もなく頷いた。この言い訳は、もう何度も使い回してきたおかげで、すっかり板についていた。
「ステージは十五時から、三十分間。終わったら控室に戻っていただいて、そのまま少し休憩を挟んだ後、ファンとの物販列にお顔出しいただく形で……あ、これは無理のない範囲でで大丈夫ですので」
「物販列、ですか」
叶の脳裏に、掲示板で見た「生クリム様!」の文字がよぎる。あれを現実にやるのか、と思うと、今更ながら緊張が募った。
*
「それと、一番気になっていたことなのですが」舩越が身を乗り出す。「ステージ裏の動線について、何か配慮しておくべき点はありますか? 持病のこともありますし」
待っていた質問だった。叶は資料を指で辿りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「控室からステージまでの導線は、できるだけ人目に触れない形にしてもらえると助かります。あと、ステージ上で万が一――その、体調が急に悪くなったりした場合に、すぐ幕を下ろせるような体制も整えておいてもらえると安心です」
「なるほど……分かりました。緊急時のマニュアルも別途こちらで用意しますね」桐生がメモを取りながら頷く。「あと、控室は個室を確保していますので、途中で休憩を挟むことも可能です」
変身が解けかけた際の避難ルートとして使えそうだ、と内心で算段をつける。表向きは「持病への配慮」だが、実態はまるきり別の理由だということを、彼らはまだ知らない。
*
「あ、そうだ」桐生がふと思い出したように顔を上げる。「ラヴィちゃんの同伴は、いかがされますか? 実は、来場者アンケートで一番多かった要望が『ラヴィちゃんも会場に来てほしい』だったんです」
「ラヴィを、ですか」
考えたこともなかった提案だった。人混みの中に連れて行くのは、正直気が進まない。だが、あの子猫の姿を直接見たいというファンの気持ちも、痛いほど分かる。
「うーん……悩ましいですね。あの子、結構繊細なので、あまり長時間、大勢の視線に晒すのは可哀想かなと」
「もちろん無理にとは言いません。ただ、もし可能であれば、短時間の顔見せだけでも、という声が結構あったので……」
「少し、考えさせてください」
この場で即答するには、あまりにリスクが読めなかった。ラヴィの正体を思えば、なおさらだ。もし興奮したラヴィが人前でうっかり本来の力の片鱗でも見せてしまえば、その時は「コスプレ」では済まされない騒ぎになる。
「承知しました。決まり次第、教えてください」
桐生はあっさりと引き下がってくれた。無理強いしない姿勢に、改めて好感を抱く。
*
「衣装面についても、一応確認なんですが」舩越が別の資料を差し出す。「クリムゾフィア様の衣装、あれは基本的にいつも同じものという理解でよろしいでしょうか。イベント用に何か特別な衣装をご用意する、といったご要望はありますか?」
「あ、いえ、いつもの装いのままで大丈夫です。あれは……その、手作りのものなので」
我ながら苦しい嘘だと思いながら、口が勝手にそう答えていた。実際のところ、あの衣装を誰かが仕立てたわけでも、自分で用意したわけでもない。変身すると、いつの間にかあの礼装をまとった姿になっている――それだけだ。針も糸も触ったことすらないというのに、よくもまあ「手作り」などと言えたものだ、と内心で自分に呆れる。
そもそも、あの衣装がどこから来ているのか、叶自身も正確には分かっていなかった。本物のクリムゾフィアの魔力か何かが作用しているのだろうとは思うが、詳しい仕組みまでは聞いたことがない。毎回当たり前のように袖を通している格好で、疑問に思う暇もなかったが、こうして人に説明を求められると、途端に自分でもよく分からないものを扱っている気分になる。
「そうなんですね! さすが、こだわりが違いますね」
「かしこまりました。では衣装はそのまま、当日は照明とステージ演出の方でしっかり見栄えを作らせていただきますね」
舩越の言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。用意された台本の上で踊ることには、もうすっかり慣れてきたつもりだったが、こうした一つ一つの確認のたびに、まだまだ気を張るべき場面が多いのだと痛感させられる。
*
「そうそう、ご報告があるんですが」桐生が別のファイルを開く。「先日発表したグッズの予約状況、こちらです」
差し出されたグラフには、右肩上がりの棒が並んでいた。予約開始から数日にもかかわらず、初回生産分はすでに完売間近だという。
「ラヴィちゃんのぬいぐるみは、開始三十分で予定数の八割が埋まりまして。急遽、増産の手配を進めています。クリムゾフィア様のアクリルスタンドも、想定の倍以上の反響で」
「これは……すごいな」
思わず本音が漏れた。契約の場で目にした数字上の見込みと、実際にファンが動いた結果を突きつけられるのとでは、実感の重みがまるで違う。
「本当にありがとうございます。笹川様のおかげで、社内の空気もかなり明るいんですよ」
舩越が満足げに頷く。誇らしさと、少しの気恥ずかしさが同時にこみ上げてきて、叶はどう反応すればいいか分からず、曖昧に頷き返すことしかできなかった。
*
「それと」桐生が身を乗り出す。「事前にお話通していたんですが、フェスタ告知の動画、今日撮っちゃってもいいですか?」
「はい、もちろんです」
この話自体は、実は事前に桐生からメッセージで聞かされていた。今日の打ち合わせの中で、正式にお願いされる形になるだろう、と。
そう答えて、傍らに置いていた小型のスーツケースに軽く手を添える。応接室に入った時から、桐生と舩越はそれとなく気にしていた様子だったが、あえて何も説明していなかった。
「あ、それ……もしかして、今日のために?」
「はい、そうなんです。道具一式、持ってきました」
「よかった、伝わっていたんですね! では、いつも通り、あちらの着替え室をお使いください。カメラだけ先にセットしておきますね」
あらかじめ話を聞いていたおかげで、スーツケースの中には、普段は持ち歩かない荷物を詰め込んできていた。カラーコンタクトのケース、付け角のパーツらしきもの、メイク道具一式に、大きめのポーチまで――どれも実際には一度も使ったことのない、ただのカモフラージュだ。中身を空にするわけにもいかず、量だけは一人前になるよう見繕った結果、それなりの大荷物になってしまった。万が一、着替え室に置いた荷物を誰かに見られても、「本物のコスプレ道具一式」に見えるように。用意周到すぎる自分に、内心で苦笑が漏れる。
「では、行ってくる」
事務所には、コスプレイヤーたちが衣装に着替えるための小部屋がいくつか用意されている。叶がそこで一人になり、姿を変えて出てくる――それは、桐生たちにとってはごく見慣れた光景の一つでしかなかった。「精巧なコスプレへの着替え」だと信じて疑わない彼らにとって、何もおかしなことではない。
案内された小部屋に入り、鍵をかける。スーツケースを開き、持ち込んだ道具一式を見えるようにテーブルの上へ広げておいた。狭い空間に一人きりになったところで、深く息を吸い込んだ。
瞼を閉じ、脳裏にあの御方の姿を思い描く。玉座に座す時の、あの背筋の伸びた佇まい。民の声に耳を傾ける時の、あの慈愛に満ちた眼差し。時折覗く、あどけないほど無邪気な微笑み。声の抑揚、視線の運び方、指先の仕草に至るまで――幾度となく見てきたその姿を、余すことなく、この身になぞらせる。
誰よりも、あの御方を知っている。誰よりも、あの御方を敬愛している。ならば、この身に宿すことなど造作もない――そんな、ほとんど信仰にも似た確信とともに、意識を明け渡していく。
じわりと、輪郭が変わっていく。角が覗き、瞳の色が変わり、見慣れた礼装が肌に馴染んでいく感覚。鏡に映る自分の姿が、見慣れたクリムゾフィアのそれへと変わっていくのを確認する。
――さて、と考え込む。変身自体は一瞬で終わってしまったが、これですぐに出て行っては、いかにも不自然だ。実際のコスプレイヤーが、メイクや着付けにどれくらいの時間をかけるものなのか、正直なところ叶にはよく分からない。だが、少なくとも数分で済むものではないだろう。とりあえず、一時間ほどは待たせておくのが無難か、と当たりをつける。
手持ち無沙汰のまま、スマホを取り出してゲームアプリを開く。角の生えた指先で慣れない操作をしながら、時間を潰す。異世界の統治者が、狭い着替え室でスマホゲームに興じているという構図は、我ながらどこか間抜けだった。
適当なタイミングを見計らって、ようやく扉に手をかけた。
着替え室を出ると、事務所スタッフに廊下の先の小さな撮影部屋へ案内された。三脚に据えられたカメラと、簡素な照明が組まれただけの、飾り気のない部屋だった。中に入ると、すでにセッティングを終えていた桐生と、その傍らに立つ舩越の姿があった。
「――待たせたな」
二人は一瞬、息を呑んだように固まったが、すぐにいつも通りの笑顔に戻る。何度見ても圧倒される、というのは、どうやら本心らしい。
「こちらへどうぞ。背景はこの布一枚だけなので、シンプルな仕上がりになるかと」
案内された位置に立つと、正面にカメラのレンズが構えられている。狭い着替え室とは違う、独特の緊張感が肌を刺した。
「では、いつでも大丈夫です。カメラの方を見ていただいて」
桐生の合図とともに、意識を切り替える。
「――皆、待たせたな。クリムゾフィアだ」
いつもの決まり文句を、カメラに向かって静かに紡ぐ。
「来る日、貴殿らと相まみえるを楽しみにしている。存分に、この身を見に来るがよい」
撮影はものの数分で終わった。カメラを止めた桐生が、放心したような顔でこちらを見つめている。
「……す、すごい。何度見ても、圧倒されます」
「本番さながらの気合を、ぜひお願いします」
「承知した。任せておけ」
*
打ち合わせが一通り終わり、資料一式を受け取って応接室を出る頃には、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「――疲れた」
雑居ビルを出て、思わず独り言が漏れる。契約の時とはまた違う種類の緊張感だった。あの時は「決断すること」への緊張だったが、今回は「本番が迫っている」という、じわじわと押し寄せてくる類のものだ。
帰り道、スマホを開くと、桐生から追加のメッセージが届いていた。
『本日はありがとうございました! ラヴィちゃんの件、決まりましたらいつでもご連絡ください。あと――当日、心から楽しみにしています』
その一言に、頬が緩む。事務所の人間としてだけでなく、一人のファンとしての本音が滲んでいるようで、悪い気はしなかった。
駅までの道すがら、ふと商店街の精肉店の前で足が止まった。ガラスケースに並んだ艶やかな和牛のブロックが、疲れた目に眩しく映る。
「……たまには、贅沢してもいいか」
グッズの売れ行きも好調だと、桐生から聞いたばかりだった。ラヴィのぬいぐるみは早くも増産が決まったらしい。あの子のおかげで得られた成果だと思えば、還元しない手はない。ご褒美と、今日一日の労いを兼ねて、叶は奮発して上等な一枚を買い求めた。
「――さて」
帰宅したら、まずはラヴィに相談してみるとしよう。人前に出ることについて、あの子猫がどう思うのか。答えなど返ってくるはずもないが、それでも、聞いてみたい気がした。
玄関を開けると、いつも通り、ラヴィがとことこと駆け寄ってくる。足元にすりつく温かい重みを感じながら、叶は静かに膝を折った。
「――なあ、ラヴィ。お前は、大勢の人前に出るの、平気か?」
問いかけに、ラヴィは小さく首を傾げただけだった。だがその目には、不思議と、迷いのない色が浮かんでいるように見えた。
その様子を見て、少しだけ心が揺れる。だが、揺れた分だけ、冷静さも戻ってきた。ラヴィ自身が平気そうにしていることと、実際に連れて行って大丈夫かどうかは、また別の話だ。もし人混みの中で興奮したラヴィが、うっかり本来の力の片鱗を見せてしまったら――そんな万が一を想像するだけで、背筋が冷える。
「……悪いな。今回は、留守番していてくれ」
小さく呟いて、ラヴィの頭を撫でる。リスクを思えば、答えは最初から一つしかなかった。せっかくのファンの要望には応えられないが、これだけは譲れない一線だった。桐生への返事は、後で改めて丁寧に伝えようと、叶は静かに心を決めた。
せめてもの罪滅ぼしも兼ねて、買ってきた和牛を取り出し、皿に載せて差し出す。
「――ほら、今日はご馳走だ」
途端、ラヴィの目の色が変わった。皿に鼻先を近づけたかと思うと、信じられないほどの勢いで尻尾をぶんぶんと振り回し、その場でくるくると小さく回転までしてみせる。「にゃあにゃあ!」と忙しなく鳴きながら皿の周りをうろつくその姿に、叶は思わず噴き出した。
「そんなに喜ぶか……分かりやすい奴め」
夢中で頬張るラヴィを眺めながら、叶はソファに深く沈み込んだ。フェスタへの緊張も、留守番を任せる後ろめたさも、目の前のあまりに幸せそうな姿に、少しだけ和らいでいく気がした。




