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23話契約と招待状



 土曜日の午後。叶はスーツではなく、少しだけ気合の入った私服に身を包み、都心の雑居ビルの前に立っていた。


 叶をスカウトしたこのコスプレ事務所――「Alter Ego」は、業界でもかなりの規模を誇る大手だった。所属タレントの中には名の知れた有名コスプレイヤーも複数おり、アパレルからゲーム、玩具メーカーまで、様々な企業と手広く業務提携している。スカウトされた当初は正直ピンときていなかったが、こうして通うたびに、その看板の重みをじわじわと実感させられていた。


 エレベーターを降りると、受付の女性がぱっと顔を輝かせた。


「笹川様、お待ちしておりました! こちらへどうぞ」


 通されたのは、この前とは違う、少し広めの応接室だった。ソファに座って待っていると、担当マネージャーの桐生と、もう一人、四十代ほどの恰幅の良い男性が入ってくる。


「お忙しいところありがとうございます。弊社代表の舩越です」


 代表自ら出てくるというのは、想像以上に話が大きくなっている証拠だった。叶はごくりと喉を鳴らしながら名刺を受け取る。


 差し出された名刺には『コスプレイヤー事務所 Alter Ego 代表 舩越』の文字が並んでいる。改めて活字で見ると、自分が今、とんでもない世界に足を踏み入れていることを実感させられた。


「本題に入る前に、まず一つ確認させてください」舩越が居住まいを正す。「以前からご提案していた、弊社との専属契約の件です。ラヴィちゃんの一件で笹川様の評判もさらに広がりましたし、そろそろ正式にお受けいただけないかと」


 スカウトされた当初から、ずっと保留にしてきた話だった。事務所に所属するということは、これから先も「クリムゾフィア様の中の人」として、より深く商業の場に立つということだ。異世界の統治者としての顔と、現代でのタレントとしての顔――両方を同時に背負う覚悟が要る。


 ――こうして現代で、クリム様のコスプレをする、か。


 本物のクリムゾフィアは今、自分の中で静かに眠っている。異世界のどこかにいるわけではない、ここにいるのだ――その姿を借りて、商業の場に立つ。それは、憧れを金に換える行為ではないのか。ファンの一人として、そんな後ろめたさが胸の底で疼く。しかも、このコスプレは、自分でメイクを施しているわけですらない。事務所の面々が「完璧な仕上がり」と称賛する容姿は、ただ変身するだけで手に入ったものだ。本物のコスプレイヤーたちが何時間もかけて作り上げる技術や熱意を、自分は一切払っていない。それを思うと、なおさら気が咎めた。


 端から見ればコスプレにしか見えないのだろうが、実際のところ、自分にはクリム様以外の誰かを演じることなんて、絶対にできない。試したこともないが、そもそも変身するのはクリムゾフィアの姿だけなのだ。


 ……いや、それでいい。他の誰かのコスプレなんて、死んでもごめんだ。俺はクリム様のファンなんだから。


 その一点だけは、はっきりしていた。ならば、いっそ最初から線引きしておくべきだろう。


 だが同時に、別の思いもあった。もっと多くの人に、クリム様を知ってほしい。あの威厳と優しさと、時折覗く天然な一面を、画面の向こうの限られた人だけのものにしておきたくない――一人の信者としての、純粋な願いだ。悪いようにはならないはずだ、と叶は自分に言い聞かせる。少なくとも、マイナスに転ぶことだけはない。そう踏んでのことだった。


 だが、迷いはもう長くは続かなかった。ここまで真摯に向き合ってくれる事務所を、これ以上待たせる理由もない。


「――お受けします。専属契約、結ばせてください」


「ありがとうございます!」桐生が思わず声を弾ませる。舩越も満足げに頷いた。


「一つだけ、確認させてください」叶は少し身を乗り出す。「私が演じるのは、あくまでクリムゾフィア様だけです。他の役やキャラクターのコスプレ依頼は、一切お受けできません。それでもよろしいでしょうか」


 桐生と舩越は顔を見合わせ、あっさりと頷いた。


「もちろんです。むしろ弊社としても、笹川様には唯一無二のクリムゾフィア役として活動していただきたいので、他の依頼をお受けいただくつもりはございません」


 舩越の言葉に、叶は密かに胸を撫で下ろす。これで少なくとも、この一点で悩む必要はなくなった。


「単刀直入に申し上げますが」舩越はソファに深く腰掛けながら切り出した。「ラヴィちゃんグッズの件、社内でかなり良い反応でして。ぬいぐるみ、アクリルスタンド、缶バッジ……第一弾のラインナップ案を作らせていただきました」


 テーブルに広げられた資料には、ラヴィをモチーフにしたイラストがずらりと並んでいる。もふもふの白い子猫が、あくびをしていたり丸まっていたり、クリムゾフィアの衣装の端をちょこんと咥えていたり――正直、叶自身が一番「かわいい」と唸ってしまった。


「これは……すごいですね」


「それで、あの」桐生が少し身を乗り出す。「実は折り入って、ご相談したいことがあるんです。クリムゾフィア様ご本人のグッズも、あわせて作らせていただいてよろしいでしょうか。アクリルスタンドやタペストリーなど、ラヴィちゃんと並べて展開したくて」


「私の……ですか」


「はい。以前からファンの方々の要望は多かったんですが、これまでご本人のグッズ化には慎重でいらしたので。今回、ラヴィちゃんの件でお話しできる機会をいただけましたし、ぜひご一緒に」


 叶の脳裏に、コメント欄で幾度となく見かけた「クリム様グッズ出してほしい」の声がよぎった。断る理由なんて、どこにもない。


「もちろんです。ぜひ、お願いします」


 快諾すると、桐生と舩越がぱっと顔を輝かせた。テーブルには、ラヴィのイラストと並んで、クリムゾフィアの立ち姿を描いたアクリルスタンドやタペストリーの案も追加で広げられた。


「あの、これは……本物そっくりというか」


「監修が優秀なもので」桐生がにこりと笑う。「デザイナーが配信の切り抜きを何十回も見返して描き起こしました」


 本物を見ずに本物そっくりに描かれると、それはそれで妙な緊張感がある。叶は表情を切り替え、資料を手に取った。ロイヤリティの料率、販売スケジュール、二次利用の範囲、契約解除条項――一つひとつに指を這わせながら、普段の商談さながらの速さで目を通していく。


「この二次利用の項目なんですが、範囲がやや広すぎませんか。ラヴィのキャラクター性を損なうような使われ方をされると困るので、事前確認を挟む一文を追加していただきたいです。それと、販売スケジュールのこの部分、初動の生産数がやや強気に見えます。ここは様子を見ながら追加生産できる形の方がリスクは低いかと」


 淀みなく指摘を並べる叶に、桐生と舩越が思わず顔を見合わせた。


「……失礼ですが、笹川様は普段、どういったお仕事を?」舩越がまじまじと叶を見つめる。


「営業をしております」


「なるほど、道理で……」桐生が小さく笑う。「正直、ここまで的確に条項を見ていただけるタレント様は初めてです。普段はこちらが説明しても『よくわからないのでお任せします』となることがほとんどなので」


 褒められている。それも、クリムゾフィアの「中の人」としての演技力ではなく、笹川叶個人のビジネス感覚として。少しくすぐったい気持ちになりながら、叶は資料の最後のページに目を落とす。


「いかがでしょうか。ラヴィちゃん、クリムゾフィア様ご本人、両方のグッズ展開について、この条件で正式に契約を結んでいただけますか」


 舩越が身を乗り出す。応接室の空気がわずかに張り詰めた。


 迷いはなかった。ラヴィの、あの無邪気な寝顔を思い浮かべれば答えは一つだ。


「――契約します。ラヴィの分も、私の分も、両方とも」


 念を押すように、はっきりとそう繰り返し、叶は差し出されたペンを取った。


 サインをする瞬間、ふと脳裏をよぎったのは、本邸の執務室で山積みの陳情書に印を押していたクリムゾフィアの背中だった。あの重さに比べれば、これくらいの署名、大した重みじゃない――そう思えるくらいには、自分も図太くなったのかもしれない。


「――以上で、専属契約、それにラヴィちゃん・クリムゾフィア様のグッズ化契約は締結ということで」


 署名が終わると、桐生が資料をもう一枚差し出した。


「それと、以前お話ししていたイベント出演の件なんですが」


 叶の心臓が跳ねる。これだ。変身問題が絡む、本当に厄介な方の話。


「来月末、『コスプレフェスタ』の目玉ゲストとして、クリムゾフィア様にステージに立っていただきたいんです。ファンとの交流タイムも含めて、一時間程度」


「一時間……」


 配信のように画面越しではなく、生身で、大勢の前に一時間立ち続ける。想像しただけで胃の底がひやりとした。変身が解ける可能性はゼロではない。今日この応接室で持ち堪えられたのはたまたまでしかないのだ。


「あの、一時間はさすがに、少し長いといいますか……」


「と、おっしゃいますと?」


「実は、持病がありまして。長時間、人前に立ち続けるのが難しいことがあるんです。お恥ずかしい話、これまで人前に出る活動を避けてきたのも、それが理由でして。三十分程度に短縮していただくことは可能でしょうか」


 我ながら苦しい言い訳だと思ったが、口にしてみると存外しっくりきた。今まで誰ともコラボしなかった「本物のクリムゾフィア」の頑なさにも、これで説明がつく。


 桐生と舩越が顔を見合わせる。一瞬、断られるかと身構えたが、舩越はむしろ得心したように頷いた。


「なるほど、そういうご事情でしたか。もちろん構いません。ではステージは三十分に短縮し、その後は控室でゆっくり休んでいただけるようにしますね。ファンの皆様にも事前に『体調に配慮しつつの出演』と告知しておけば、変な詮索も起きにくいかと」


 桐生も横で「密度の濃いステージになりますし、ファンの方々も長時間より満足度重視という声が多いですよ」と頷く。ヘルムートへの言い訳と同じ理屈が、ここでも通用してよかった――そう胸を撫で下ろす。


 画面の向こうにしかいなかった存在が、少しだけ現実に近づく。それを楽しみにしてくれている人がいる。三十分になったことで、その道もぐっと現実味を増した気がした。


「――お受けします」


 叶ははっきりと頷いた。


 契約書一式にサインを終える頃には、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。


「今日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」


 深々と頭を下げる舩越たちに見送られ、雑居ビルを出た叶は、大きく息を吐いた。


「……終わった」


    *


 叶が去った後の応接室では、桐生と舩越がソファに座り込み、揃って大きく息を吐いていた。


「……いやぁ、まさか専属契約まで、今日一日でまとまるとは思いませんでしたね」桐生が資料を整理しながら、心底ほっとした様子で呟く。「正直、スカウトしてからずっと保留にされてたので、もう難しいかと半分諦めかけてたんです」


「よくぞ、うちを選んでくださったよ」舩越も深く頷いた。「あれだけの逸材だ。他社に持っていかれていたら、と思うとぞっとする」


「グッズの件も、まさかご本人の分まで即決していただけるとは。……それに、契約条項へのあの指摘、舩越さん見ました? 二次利用の範囲とか、生産数のリスクとか、こちらが説明する前に的確に突いてこられて」


「見た見た。あれには驚いたよ。うちの顧問弁護士が見るような箇所を、涼しい顔で言い当てるんだから。ご本人にとっても、クリムゾフィア様というキャラクターにとっても、一番良い形を真剣に考えてくださっている」


 桐生は少し目を細めて、テーブルに残されたラヴィのイラストを眺めた。


「本当に……クリムゾフィア様のことを大切にされてるんですね。最後にはちゃんと前を向いて、力強く決めてくださって」


「うちとしても、これから先が楽しみだよ。まずはコスプレフェスタ、粗相のないように準備を進めよう」


 窓の外はすっかり暮れ、事務所のビルにも夜の色が下りていた。


    *


 帰り道、コンビニでラヴィ用のちゅーると、自分のための缶コーヒーを買って帰宅する。玄関を開けると、留守番をしていたラヴィがとことこと駆け寄ってきて、足元にすりすりと頭を擦り付けてきた。


「ただいま。お前、今日からグッズになるらしいぞ。……あ、俺も、か」


 にゃあ、と気の抜けた声で鳴くラヴィを撫でながら、叶はソファに沈み込む。時計を見ると、夜の配信予定まであと一時間半。


 ――今夜は、いつもの一人語りの配信じゃない。


「メイベルとの、コラボ配信……」


 スターライトヴィジョンからの自宅リモート参加許可はすでに下りている。機材のセッティングも昼のうちに済ませてあった。だが心臓の音は、契約書にサインしていた時よりもよほど速い。今まで誰ともコラボしてこなかった「本物のクリムゾフィア」の流儀を、初めて自分の手で破ることになるのだ。


 シャワーを浴び、机の前に座り、配信ソフトを立ち上げる。画面に映る自分の顔が、じわりと変わっていく感覚――見慣れたはずのその瞬間に、今日はいつも以上に緊張していた。


 開始五分前。メイベル側のスタッフからメッセージが届く。


『本日はよろしくお願いします! メイベルもすごく楽しみにしてます!』


 深呼吸を一つ。膝の上でラヴィが、まるで「頑張れ」とでも言うように、ぽふりと頭を擦り付けてきた。


「――よし、やるか」



ーーーーーーーーー

あとがき

毎日投稿している人達ってなんなんですかね。超人?

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