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第2話完璧なコスプレ


「――我が話しているのだから、中身などないだろう。なぜざわつく?」


 コメント欄の速度が、一瞬止まった。


 ほんの数秒前、カメラが倒れ、素顔が映り込んだ瞬間を、叶自身もはっきりと見てしまっていた。あの一瞬で、全てが終わったと思った。だが幸か不幸か、配信はまだ続いている。パニックに陥る暇もなく、なぜか体は次の言葉を探し始めていた。


『え、待って』

『開き直り方が完璧すぎる』

『そう来たか』

『いや理屈は分かるようで分からんが説得力ある』

『きさま、何者だ!?』

『え、急に厨二コメ草』

『流れ速すぎて誰も反応してあげられてなくて草』


 コメント欄の奔流の中に紛れた一言の異様さに、叶自身は気づく余裕もなかった。何百というコメントが、洪水のように流れては消えていく。一つ一つを拾って反応するなど、到底不可能な速度だった。


 叶――いや、クリムゾフィアの姿をした叶は、内心冷や汗をかきながらも、表面上は堂々とした態度を崩さなかった。何が映ってしまったのかは、痛いほど分かっている。だが、それを認めるわけにはいかなかった。ここで狼狽えれば、それこそ「何かある」と思われてしまう。ならば、堂々としているに越したことはない。


「我が我である以上、これ以外の何が映ろうと我は我だ。些末なことに構うな」


 我ながら意味の分からない理屈だと思いながらも、口はよどみなく動いた。長年見てきた配信の記憶が、こういう時に限って的確な言葉を選んでくれる。


『いや些末なことじゃないと思う』

『でも妙に納得させられる自分がいる』

『クリム様の圧が強すぎて誰も追及できない』


 このままでは埒が明かない。叶――いや、クリムゾフィアは、腹を括って続けた。


「ふん。何を惑うておる。これは我が戯れに纏いし、影法師よ。すなわち、お前たち人間の言葉で言う――コスプレというものだ」


 自分の口から出た台詞に、内心で盛大に頭を抱えた。だが、もう後には引けない。堂々と言い切ることだけが、この場を乗り切る唯一の術だった。


 コメント欄の空気が変わったのは、その直後だった。


『待って、これもしかして』

『コスプレのクオリティが人間離れしてるって話?』

『え、天然の造形でここまでやれるわけないもんな』


 その最中、画面の端に、一件のスパチャ通知が滑り込んできた。


【スーパーチャット:とある陰陽師様より 8,000円「先ほどのコメントを読んでいただけないでしょうか」】


 律儀すぎるメッセージに、叶は思わず苦笑した。先ほどの流れの速さでは、確かにどんなコメントも埋もれてしまって当然だ。せっかくのスパチャなのだから、無視するわけにもいかない。


「ふむ、先ほどの、とは?」


 軽い気持ちで問い返す。だが、返ってきたコメントを目にした瞬間、叶の背筋に微かな緊張が走った。


『きさま、何者だ!?と申し上げました』


 妙に芝居がかった、それでいて真剣そのものの文面。だが、この配信のノリを知り尽くしている叶にとっては、それすらも一つの「キャラ付け」にしか見えなかった。


「くく、良い覚悟だ。我を何者かと問う度胸、褒めてつかわす」


 言葉を返したその瞬間、腹の奥に、小さな灯りが点ったような感覚があった。くろすけの時ほどはっきりしたものではない。ごく微かな、ほのかに温かい何か。だが確かに、何かが体の中に流れ込んできた実感があった。


(また、これか……)


 適当にあしらいながらも、内心では思わず頬が緩んでいた。


(陰陽師プレイの人だ……凝ってるな)


 わざわざ設定に沿ったコメントを、金まで払って読ませようとする律儀さに、叶は狂信者としての血が疼くのを感じていた。こういう芸の細かいファンは、嫌いではない。むしろ好ましいとさえ思う。


 コメント欄も、待ってましたと言わんばかりに沸いた。


『陰陽師コメ、律儀に金払って読んでもらいに来てて草』

『クリム様、変なファンに好かれるの得意すぎる』

『陰陽師様、次も期待してます』


 こうして「とある陰陽師」という呼び名は、この日を境に、界隈で密かに定着していくことになる。もちろん、その人物が本物の陰陽師であるとは、誰一人として想像していなかった。


『完璧なコスプレだ……』

『クリム様、素顔までガチだった』

『解釈が広がってきて草』


 自分で言い出した「コスプレ」という言葉が、瞬く間にコメント欄の総意になっていく。叶は状況を飲み込めないまま、ただ画面の向こうの空気が、思っていたよりも遥かに好意的な方向に転がっていくのを感じていた。


 その時、画面の端に、これまでにない規模のスパチャ通知が躍り出た。


【スーパーチャット:くろすけ様より 100,000円「同胞のために」】


「――っ」


 あまりの金額に、叶は思わず息を呑んだ。とはいえ、この配信ではもはやお馴染みの光景でもある。「同胞のために」というコメント付きのスパチャは、いつものノリの延長線でしかない。ただ今回は、その額がいつもと桁違いだった。


 通知が表示された、その瞬間だった。


 腹の奥から、じわりと熱いものが込み上げてきた。まるで、空っぽだった器に、温かい液体が一気に注ぎ込まれるような感覚。指先まで、じんわりとした痺れにも似た力が満ちていく。


(何だ、これ――)


 息を呑む間もなく、視界の端が一瞬だけ、淡く紅く染まった気がした。体の奥で、何か大きなものが目を覚ましたような、そんな予感。今まで感じたことのない、力が「満ちていく」という確かな実感が、全身を駆け巡っていた。


 だがそれも一瞬のことで、すぐに元の感覚に戻った。困惑している暇はない。今は、目の前の配信を乗り切ることだけを考えなければならない。


「ほう、良い心がけだ。存分に励むがいい」


 クリムゾフィアとして、いつも通りの決め台詞で応じる。だが内心では、これほどの額を投げてくれた相手の正体はおろか、先ほどの奇妙な感覚の意味も、まるで見当がつかなかった。


 どうしてこんな都合の良い解釈にリスナーたちが揃って納得してくれるのか、理由はさっぱり分からない。だが、この際、理由などどうでもよかった。今はただ、この場を無事に乗り切ることだけを考えるべきだった。


 それを皮切りに、スパチャの通知が次々と画面を流れていく。


【スーパーチャット:名も無き狂信者様より 30,000円「解釈違いすら幸福」】

【スーパーチャット:ROM専卒業しました様より 50,000円「初めて課金します」】

【スーパーチャット:同担A様より 80,000円「今日は特別な日なので」】


 通知が一つ流れるたびに、あの熱が、じわりと体の奥から湧き上がってくる。最初は小さな疼きのようだったそれは、通知の数が増えるごとに、次第にはっきりとした感覚へと変わっていった。


「――っ、あ……」


 思わず声が漏れそうになるのを、叶は必死に堪えた。まるで全身の血管に、温かい何かを直接流し込まれているような感覚。心地よいのに、どこか苦しい。もどかしいのに、もっと欲しくなる。そんな矛盾した感覚に、頭の芯が痺れていく。


(何なんだ、これ……気持ち悪いくらい、気持ちいい)


 表情に出さないよう、叶は奥歯を強く噛みしめた。幸い、アバター越しの映像では、内心の動揺までは伝わらない。それだけが救いだった。


(助かった……のか?)


 安堵とも困惑ともつかない感情を抱えながら、叶は残りの時間を何とか乗り切ることにした。頭の片隅では「本当にこれで良かったのか」という不安が燻っていたが、今はそれを深く考える余裕もなかった。


 あとは、いつも通りにやればいい。いつも通り、クリムゾフィアとして振る舞えばいい。それだけは、この数十分ですっかり体に馴染んでしまっていた。むしろ、板についてきている自分に、少しだけ薄気味悪さすら覚えた。


「今日はこの辺にしておいてやる。せいぜい、我の姿を目に焼き付けておくがいい」


 捨て台詞のように言い放ち、配信終了のボタンに指を伸ばす。指先が微かに震えていることに、視聴者は誰も気づいていないはずだった。


 画面が暗転した瞬間、叶はその場に崩れ落ちた。


「はぁ……終わった、終わった終わった終わった……」


 全身から力が抜けていく。手が震えていた。今更ながら、自分が何をしでかしたのか、じわじわと実感が追いついてくる。


 顔が映った。しかも、はっきりと。今頃、あの映像はどうなっているのか。消せるものなら消したい。だが、ネットの世界にそんな都合の良い巻き戻しなど存在しないことくらい、長年の視聴者として嫌というほど知っていた。


 そもそも、あの姿は誰のものなのだろう。クリムゾフィアの顔なのか、それとも自分自身が変化した結果としての顔なのか、その境界すら今の叶には判然としなかった。ただ一つ分かるのは、あの整いすぎた顔が、これから先の生活に何かしらの影を落とすだろう、という予感だけだった。


 スマホを手に取ることすら、今は怖かった。見なければ良かったと分かっていても、指は勝手に画面をタップしてしまう。


 だが、震える手の中でスマートフォンだけは、まだ何も知らずに光り続けていた。


 張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、いつの間にか叶はその場で眠りに落ちていた。


---


 まぶたの裏に、見慣れた赤い瞳が浮かんだ。


 目の前に、クリムゾフィアが立っていた。あの日の夢と同じように、手を伸ばせば届きそうな距離に。


「――よくやった」


 低く、それでいてどこまでも澄んだ声が、静かに響いた。表情はいつも通り乏しいはずなのに、なぜかその一言には、確かな温かさが滲んでいるように感じられた。


「え……あの、これは――」


 言葉を返そうとした瞬間、その姿は朝靄のように輪郭を失い、溶けて消えていった。


 残ったのは、耳の奥にまだ響いている「よくやった」という一言と、じんわりと胸の奥に広がる、くすぐったいような満足感だけだった。


---


 その夜、インターネットの一部界隈が、静かに、しかし確実にざわめき始めていた。


 配信の切り抜き動画が、投稿から一時間も経たないうちに拡散されていく。まず界隈のファンアカウントが取り上げ、次に大手の考察系アカウントがリポストし、気づけば普段VTuberなど見ない層のタイムラインにまで流れ込んでいた。深夜という時間帯も手伝ってか、拡散の勢いは翌朝を待たずしてピークに達しようとしていた。


『【衝撃】VTuber「クリムゾフィア」、放送事故で素顔(?)が映る』


 そんな見出しの切り抜きが、SNSのタイムラインを埋め尽くしていった。再生数はみるみるうちに膨れ上がり、コメント欄には様々な反応が並んだ。


 普段この手のコンテンツを追わない層まで巻き込んだのは、切り抜きのタイトルの煽り方が絶妙だったことも大きい。「素顔なのかコスプレなのか、本人すら惚けている」という不穏な一文が添えられ、真偽不明のまま拡散されていくことで、余計に注目度を高めていた。


『これもう中の人が美形すぎるだろ』

『いや「これは自分のコスプレです」理論、無理があるだろwww』

『でも実際画面越しだと判別つかないの怖い』

『クリムゾフィア、急に伸びてて草』

『前から見てたけど今日で新規増えすぎ』


 リプライ欄では、既存のファンと新規の視聴者が入り混じり、それぞれの温度差もそのまま可視化されていた。古参は「今更騒ぐことか?」と余裕を見せる一方、新規は「なんだこの存在、初めて知った」と驚きを隠せずにいる。二つの熱量がぶつかり合いながらも、結果としてタイムライン全体を巻き込む渦になっていった。


 匿名掲示板の実況スレッドにも、次々と書き込みが積み重なっていく。


『1: 名無しの視聴者 投稿日:○○

 今日のクリムゾフィアの配信、見た奴いる?』


『2: 名無しの視聴者

 見た見た。あの謎の説得力、なんなんだよ』


『3: 名無しの視聴者

 「我が我である以上」で笑った。哲学かよ』


『4: 名無しの視聴者

 コスプレって言い張るの無理があるだろwww でも本人が堂々としてるから何も言えない』


『5: 名無しの視聴者

 いや待て、これ普通に考えて相当ヤバい素材使ってるだろ。企業の力入れ方エグすぎる』


『6: 名無しの視聴者

 個人勢だろこれ。組織の匂いが全くしない』


『7: 名無しの視聴者

 個人であの完成度は逆に怖いわ』


『8: とある陰陽師

 こいつのこの禍々しい妖力、ホンモノか?電子の海を介してもなお、寒気が止まらない。こいつは何者なんだ?』


『9: 名無しの視聴者

 >>8 急に専門的で草。妖力って何、お前陰陽師か何か?』


『10: 名無しの視聴者

 >>8みたいなガチ勢たまにいるよな。楽しみ方が違いすぎる』


『11: 名無しの視聴者

 登録者数の伸び方も異常。もう追いきれん』


『12: 名無しの視聴者

 朝の時点で確か50万人だったよな?』


『13: 名無しの視聴者

 今見てきたら96万人になってた。半日でほぼ倍とか頭おかしい』


『14: 名無しの視聴者

 個人でこの伸びは普通にバケモンだわ』


『15: 名無しの視聴者

 個人勢がこの速度で伸びるの、ちょっと歴史に残るレベルじゃね』


『16: 名無しの視聴者

 明日の配信、絶対見る奴増えてるだろうな』


『17: 名無しの視聴者

 次の配信で何かボロ出すか、それとも今日ので押し通すか見物だわ』


『18: 名無しの視聴者

 個人的には次の配信、変な圧かけずに普通にやってほしいわ。もう十分バズってるし』


『19: 名無しの視聴者

 >>18 わかる。あんまり過熱しすぎると本人も大変そうだしな』


『20: 名無しの視聴者

 まあでも、こういう祭りは長続きしないのが世の常だからな。数日もすれば落ち着くだろ』


 スレッドは深夜を過ぎても伸び続けていた。誰も真実になど辿り着かないまま、ただ好奇心と憶測だけが、静かに、しかし確実に膨らんでいく。


 考察勢は素材の質を論じ、ファンは新規の増加を喜び、懐疑派は企業の関与を疑う。誰もが自分の見たいように「クリムゾフィア」という存在を解釈し、それぞれの正解を作り上げていった。誰一人として、本当の答えに辿り着く者はいなかった。


 それは滑稽なことでもあり、同時にありがたいことでもあった。真実に一番近い解釈が、皮肉にも一番荒唐無稽な「コスプレ」だという状況は、少なくとも今夜だけは、叶にとって都合の良い盾になっていた。


 その渦の中心にいる人物が、今この瞬間、自宅の布団の中で頭を抱えていることなど、誰一人として知る由もなかった。

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